2014年8月14日木曜日

私の還暦過去帳(550)


私がアメリカに移住して来たのには、二つ理由があります。

一つは子供の将来を考えて、40年ほど前、学校運営が当時、日教組
に乗っ取られていたのを見て決断したのと、それと私の夢でした。

ワイフと結婚前までは百姓で農業を生業と致しておりましたが、南米
から日本に一時帰国した時、次はアフリカのモロッコで茶の試験栽培
で海外青年開発隊から、2ヵ年契約で派遣される予定でした。
私の考えでは2ヵ年などではお茶の試験栽培など出来ないので、最低は
4年ばかり働いてから何か成果をだして、それからまた南米で農場で
も拓く考えでした。
その直ぐ直前に今のワイフと出会いましたが、ワイフは農業の農の字も
知らない、銀座4丁目でビジネススーツでハイヒールにタイトスカート
姿で、社長秘書の仕事をしていました。

英文タイプもパチパチと打てる、まったく私と正反対の仕事でした。
人曰く、『何であんな田吾作の、かっぺと出来たか・・』と言われ
ましたが、『たて喰う虫も好き好き・・』とかで、私などは帰国した
時は、お守りの5円玉1個で実家に戻り、文無しでした。

そんな私に人生を賭けてくれたワイフには、今でも感謝の気持ちを
持っています。
料理も上手で、綺麗好きの掃除好きで、私などもったいない感じで
した。そんなワイフに出会い、私の南米行きの夢と行動計画と天秤に
かけて見たら、私も常識が幾らかはありますので、自分の人生で、
このチャンスを逃がせば、二度と同じ様な女性に巡り会えることは無
いと考えて、心決まれば行動は早い私ですから、ワイフの前で、若い
頃の懺悔もして、悔いてお許しも頂きまして結婚の運びとなりました。

それからのスタートですが、ワイフが全部家財道具も持っていたので
私はトランク一つで生活を始めていましたが、新婚旅行に行く前に借
りていたアパートに戻り、ちゃぶ台の上に並べた有金が2万円もあり
ませんでした。
味噌醤油、米などは全部買い置きがありましたので、食べるのには不
自由は致しませんでした。
そんな事で今では、農業は裏庭百姓だけですが、この先こんな女性と
巡り合えるかと考えると、全てを捨てて結婚いたしましたが、移住す
る夢は捨てがたく、子供もハネムーンベービーで生まれて、その頃の
日本の教育環境は、日教組と言う政治団体が牛耳る学校教育でした。

私の同級生も、教職課程をとり、先生に就職していた仲間も、その事
に不安と疑問を感じていた様でした。

私は前の海外生活で体感していた教育情勢を考えて、再度移住を考え、
南北アメリカを視察して歩いて感じたことは、ワイフも納得が出来て、
移住先がアメリカでは心配ないと感じたことが、アメリカ移住の第一
の動機でした。

40年も前は投資家ビザは1万ドル投資すればビザが貰えた時代です。
アメリカでは最初はレストラン家業を仲間で始めたのですが、直ぐに
家族の生活を考えて独立して、好きな庭園業と不動産管理の仕事に変え
て仕事を始めました。これで余裕ある仕事と、家族団らんの規則正しい
生活をおくれる事になり、充実したアメリカ生活をこれまで過ごす事が
出来た要因です。

サンフランシスコの郊外に、かれこれ40年前は格安で住宅が購入でき
ましたので、私の心情として、寝に帰れる家と食料があれば生きて行ける
と考えていましたので、持ち金を失くさない前に、有り金をはたいて、
家族が住める家を購入いたしました。

郊外の古い家は土地も広く、250坪近い面積でしたので、早速、野菜類
などを子供達に安全に食べさせる為に栽培いたしました。

それも住宅はあれども持ち金は無いという出発でしたが、住み付いた場所
が、特に住んだ辺りが40年間に2度も全米1の発展する地域に指名される
ぐらいの土地ブームや住宅高騰を受けて、仕事も順調に伸びて、多くの
顧客も掴み、平凡ながらも満ち足りた生活を送る事が出来て、ここまで
ワイフや子供達と豊かな人生を歩む事が出来たと思います。

これも40年ほど前に思い切って自分が行動に移して、夢の成熟に賭けた
事が良かったと感じます。

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