私の還暦過去帳(541)
越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(29)
麺好きの私も、南米の奥地で百姓をしていた時代に、収穫したトマト
などをブエノス・アイレスにトラックで運送して行ったら、必ず当時
ブエノスの日本人会館の食堂に行き、そこでラーメンや蕎麦などを食べ
ていました。
天麩羅蕎麦などは大好きでしたので、あの醤油スープのツーンと来る
香りがたまらなく好きでした。
ボリビア国境のサルタ州の農場では、蕎麦やソーメンなどの乾麺を茹でて
食べていましたが、良い醤油が無く、味はいまいちでしたが、郷愁を満足
させるには十分でした。
時には知り合いの方が、うどん打ちとか言って、手打ちうどんを作って
くれましたが、腰のあるうどんで、釜から上げたうどんを井戸水に冷やし
て、カツオ節を削り出汁をとり、薬味にネギや生姜を用意して、漬け麺の
様にして食べていました。
北回帰線の内側に100kmも入った所でしたので、気温がかなり上がり
冷たくした冷やしうどんは美味しいものでした。
サルタ州に働いていた時に仕事で州都のサルタの町に出ると、タクシーの
運転手に聞いた中華レストランがありましたので、そこでフォーに似た、
汁ビーフンを注文していました。
滅多にしか来ないアジア人のお客ですから、行くといつも誰かがテーブルま
で出て来て、『今日は何を食べたいか・・』と聞いたくれました。
横浜の中華街でよく食べたサンマーァ麺とか言うモヤシが沢山入ったタン
メンの様な麺が好きでしたので、説明すると同じ様な物を作ってくれました。
米麺のビーフンで、汁ビーフンと同じでした。沢山の野菜類と、乾し海老や
椎茸なども入り、私の満足を満たしてくれるスープ麺でした。
これにご飯を茶碗に軽く一杯貰い、満足して食べていました。
トラックで州都に部品などを緊急に取りに行った時に、トマトの熟れ過ぎた
物を2箱ばかりランチを食べに行った時に渡すと、こんな美味しそうに熟
れたトマトは珍しいと言って、トマトと海老のチリソースを一皿作ってくれ、
ランチの御代は受け取ってくれませんでした。
れたトマトは珍しいと言って、トマトと海老のチリソースを一皿作ってくれ、
ランチの御代は受け取ってくれませんでした。
私が美味しそうに食べる姿を、中国人の家族達が見ていたのを今でも思
い出します。
い出します。
遠い昔の辺鄙なアルゼンチン北部の町です、そこはアジア人なども少なく、
たぶんペルー辺りから流れて来た、昔はサトウキビ労務者として中国から
来た人達だと思いました。
ペルーに行くと首都のリマには、かなり大きな中華街があります。
たぶんペルー辺りから流れて来た、昔はサトウキビ労務者として中国から
来た人達だと思いました。
ペルーに行くと首都のリマには、かなり大きな中華街があります。
田舎に行っても中華レストランが各地にあるのを見ましたが、ベトナムの
フォーの歴史もベトナム戦争で、ベトナム難民として世界各国に散って行
ったベトナム人が広めて行ったと感じます。
フォーの歴史もベトナム戦争で、ベトナム難民として世界各国に散って行
ったベトナム人が広めて行ったと感じます。
ベトナム戦争も終わってから40年以上も経ちます。すでにフランスでも
フォーが美味しく食べられる店があるとか、アメリカで普通に、何処でも
食べられる様になったのですから、それは当然な事だと感じます。
日本食の寿司ブームも同じ様に、すでに世界各国で食べられる様にな
っていますのでこれも当然な事と感じます。
っていますのでこれも当然な事と感じます。
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