2012年6月30日土曜日

私の還暦過去帳(262)

かなり昔になります、南米は日本と正反対で日本が冬の時は夏の
時期となります。1960年代の初めに船便でアルゼンチンの
ブエノス・アイレスまで行くと、途中の停泊日数でかなり差が有
りますが、平均45日は掛かっていました。

それからブエノスからボリビアのラパスまで、汽車で行く人がい
ましたので、到着までどのくらいの日数が掛かるか、心配したほ
どでした。それくらい悠長な気長な旅でした。

当時のアルゼンチンでは鉄道は斜陽の交通機関となる時代でした
が、それもストライキによる輸送路の確保が時々混乱と寸断され
た状態で長く続いたからと思います。
トラック輸送の全盛となる前でした。しかし、同じ国道でも46年
前と4年前に訪ねて同じ国道を走った状況は、同じ対面2車線の
国道でした。

手入れと管理は以前より格段に良くは成った居ましたが、2車線の
国道の危険性は同じでした。それと旧式で古いトラックと最新式
のトラックが混合して走っている事です。

隣国のパラグワイやブラジルに行く国際バスも大型になり、寝台が
付いた1等座席が出来ていました。冷暖房も効いて快適に乗車出来
る様になり、10時間や15時間の長距離運行のバスがいたる所に
路線を広げて、昔の鉄道の面影は有りませんが、網の目の様に広が
った路線を見て、今昔の差を前回の旅で知りました。

私は大型トラックでボリビア国境から首都のブエノスまで降りて来
る時間は現在では格段に短縮されている聞きました。
46年前は未舗装の道もかなり有り、簡易舗装も多かったので、当
時の最高スピードが60kmも走れば嬉しくなる様な状態でした。

夜間走行でエンジン音だけの世界で、満点の星空の下に延々と走る
パンパの大草原の広さと雄大さが月明かりの下で、アスファルトが
光輝いて地平線のかなたに消えているさまは、流れる夜霧の微かな
帯に、幻想的な空間色彩間隔と、心が捉える心理的な思いが合致し
てハンドルを握る手が震える様な、三次元的な夢の世界と、心が抱
く夢の世界とが一瞬の間合致して、恍惚の震えに遭ったことを覚え
ています。
人が悟りの世界を得る様に、人生の中で一瞬でも暗夜の闇が支配す
る世界の中に、光り輝く夜空に人間以外の発する何かを感じたのは
幸せな気持ちが致します、そして古い昔の太古から夜空を見上げて
多くの占いをしていた人がいた事を、その時に信じた思いでした。

地球の空間と宇宙の空間で、その狭間の夜と昼の世界で、思い感じ
て、霊感を感じて、心震えて、自分が信じる神に祈った人が多い事
は歴史が証明しています、私も『無』と言う暗黒の世界に2本のヘ
ッドライトで照らして、その光の環の中で暗黒の闇が発する霊気を
見たと思います。

2012年6月29日金曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』

  (9)3万ドルの仕事、

その日、だいぶ遅くなって帰って来た。
陳氏の車から降りてルーカスの兄弟が住んでいるアパートに来ると、犬が外
で尻尾を振って待っていた。
ルーカスも直ぐに外に出てくると「丁度良い時に帰って来た」と言って部屋
に案内して、夕食のテーブルに座らしてくれた。

兄弟とそろつて食事が始まり、話しが弾んで尽きなかった。私が射撃競技で
貰った拳銃は皆も垂涎の的で、その精巧な作りは誰が見ても、腕の良い職
人が仕事をしていると感じていた。

クルミ材の箱に入れられた拳銃は、私のそれからの長い間の護身用として、
私の身を守ってくれた。
兄弟の一人が靴屋で職人として仕事をしていたので、直ぐに拳銃を入れるホ
ルスターを寸法を合わして作ってくれた。

私のベルトに差して、簡単に抜ける様に工夫してくれ、弾を入れるシリンダ
ーが少し大き目だったので、丁度良いものをデザインしてくれ、ピッタリと
合うサイズは私も嬉しくなった。

お客の注文で何度も作った事があると話していたが、慣れた手つきが職人の
腕の良さを見せた。拳銃は普通、口径の大きい物は6発入りのシリンダー
の弾倉が普通であったが、口径の小さい物で、8発が限度であった。

しかし口径が小さいながら10発のシリンダー弾倉とは私も驚いていた。
自動拳銃では沢山有るが、シリンダー弾倉では珍しく、この事が後で私の
命を救う事になった。
それと22口径の普通の弾はどこでも安く買え、練習するのには最適で有っ
た。その夜、遅くまで話していた。眠くなりルーカスに用意された部屋で私
のベッドも入れた有ったので、そこで寝込んでしまった。

翌日、目を覚ますと兄弟達はすでに仕事に出かけていた。ルーカスと顔を洗
い、犬を連れてアバスト市場の近くのカフェーに行った。
ゆっくりと朝のコーヒーを楽しみ、暖かいクロワッサンを食べた。食事の
後、仲買人の事務所に寄り情報を聞いたが、トマトの値段が下がったので、
サルタからの出荷は採算が合わなくなったから近所の都市に卸すと電報が来
ていた。
おかげであわてて帰る事は無くなった。食後仲買人と話して、その後車庫に
戻りトラックを洗車した。ルーカスと二人で丁寧に洗った。

洗車が済んで空箱を積みに行った。ランチの時間まで全部終り、シートを
被せて全ての梱包をしてしまった。
後はエンジンを掛けるといつでもサルタに帰還することが出来る、しばら
くはブエノスで息抜きをしてからサルタには帰る事にしていた。

その夕方、ルーカスを日本食に誘った。彼は生魚と聞いただけで、
「勘弁してくれーー!」と降参してきた。私は早目に夕食を日本人会館の
食堂でして、それから登美ちゃんが居るバーで飲むと考えていた。

会館食堂ではひさしぶり、刺身定食とお代りの味噌汁が美味しかった。
食後は私が行き付けのイタリアン、レストランに行き、そこでコニャック
とコーヒーを注文して、歩道のテーブルで飲んで居た。

小さな二人掛けのテーブルで、イスも2個しかなかった。コニャックを半
分ぐらい飲んだ頃に、誰か無言でテーブルに来て座った。
彼は中年の物静かな男の感じがして、廻りの景色に溶け混んで目立たない
感じの風体であった。

彼も私と同じものを注文して、しばらくは無言で私の顔を見ていた。テー
ブルにコーヒーとコニャックが来ると、私に「乾杯~!」と言って飲み始
めた。
彼は私の仕事を聞いてきたが、言葉巧みに近寄って来る話術は心を引き付
ける感じがした。彼はしばらく話して、私に「良い仕事が有るのだけれど
ーー!」切り出してきた。
私が何の仕事かと質問すると、ひとこと「米ドルで3万になるー!」と答
えた。 


(10)マリオと言う男の誘い、

その当時3万ドルとは、チョイ小さな農場がブエノスの郊外で買える金額
であった。「話だけは聞いておきましょうーー」と鼻先であしらい、相手
にしなかった。

その当時、ざらにある話では無いが、聞いただけで何か危ない感じが本能
的にして来た。
相手は話の腰を折る事無く、今度は話題を変えて来た。穏やかな物腰に、
少しアクセントが英語交じりのスペイン語を話していた。
話す言葉は私よりずっと上手で、品の良い中年の感じが溢れていた。

きちんとした服装で、私の田舎じみた百姓風体の感じとはかけ離れ、チョッ
と紳士の雰囲気を持ち、何をして居るか皆目分からなかった。

手は綺麗で、爪も磨いて有りネクタイも上品なタイピンを付けて服装は隙
が無かった。しかし薄い背広の肩に何か近くで見ると、拳銃のホルスターの
バンドの線が微かに浮き出ている感じを受けた。
彼は右効きの腕だから、左肩の下に微か脇のふくらみも感じ、私は直感で
拳銃を肩に提げていると思った。知らん顔であいまいな返事を返していた。

私の現在の武装は小型の折りたたみのポケットナイフと、ルーカスが呉れ
たボールペンの先に仕込んだ小さな爪であったが、これで相手の皮膚を引
っ掻くと2分ぐらいでそこがしびれて、しばらくはマヒしてしまうと言う、
毒蛇の毒牙の先で有った。

洋服の上から刺してもかなり効果があるとルーカスが話していたが、彼等
はそれを狩猟の吹き矢の先に仕込むか、弓矢の先にその毒を塗っていた。

私はブエノスで危険な事は起らないと思っていたので、何も銃器は所持し
てはいなかった。
トラック座席の下の隠し場所にはいつもの拳銃が入れて有り、後ろのトラ
ックの簡易ベッドの下には散弾銃がいつも収納してあった。

射撃競技で貰った拳銃もトラックの隠し場所入れておいた。
話が途切れ途切れになり、私が興味を示さないので、相手も困っている感
じがしていた。

相手は私を逃さない様に、今度はかなり下がった女の話を持ち出して来た。
私も若くかなり興味がある話で、金髪の腰のしまつた小柄な女が相手をし
てくれる、高級バーの話をしてくれた。

私も登美ちゃんを訪ねる予定をしていたので、乗り気になった。
しかし見も知らない男に付いて行くのは危険と感じ、用心していたが、陳
氏の名前を出して来て、彼も呼ぶからといきなり切り出して、側の公衆電
話に立ち、ダイヤルしていた。

陳氏に繋がった様で、私を手招きして受話器を差し出した。
受話器の中で陳氏の声がして、「心配しないでーー!俺も直ぐにそこに行
くから」と誘ってきた。
少し安心感が湧いて来た。コニャックを飲み干す頃に、陳氏がタクシーで
乗り付けて来た。
陳氏は車から手招きして我々を座席に呼んだ。陳氏は笑顔で話し出すと、
「こいつはスケベ-だからーー!」といきなり切り出して、今夜の行き先
を話してくれた。

着いた所はかなり静かな品の良い店が並ぶ高級住宅街に近い、レストラン
やカフェーなどが並ぶ一角で、何か会員制のクラブの感じがしていた。
ボーイが厚いドアを開けると、中は豪華な感じの造りで、生演奏のバンド
が聞えていた。
若い綺麗な白人の女が側によって来て座席に案内してくれた。
私も初めて来た豪華なクラブであった。座席に座って初めて中年の男が
自己紹介してくれた。

マリオと言った。ウソか真かは知らないが穀物ブローカーと言った。
そなん事はウソと感じたが何か紳士の中にドスの効いた何かが有った。
その夜はしばらくぶりに気楽に飲んで、羽目を外していた。

相手も少し私を信用して何か話したい感じであった。しかし、若い白人の
女が中年の男に抱きついて騒いでいた時に若い女が「ぎょーー!」とした
そぶりをしたのを見逃さなかった。
肩に吊るした拳銃に触れたと思った。

2012年6月28日木曜日

私の還暦過去帳(261)

私のお勧め映画、『SICKO』

もしも貴方が、医療保険代の月支払い額が1200ドルと、請求書が毎月
貴方の手元に来たならばどうしますか?

もしも貴方が持病が悪化して契約額を越して、医療保険会社から保険契約
を打ち切られたらどうしますか?

もしも貴方が失業して、家族の医療保険代を支払う事が出来なくなり慈善
病院での10時間、12時間の診察待ちで生活の破綻まで追い詰められた
らどうしますか?

アメリカで6月29日に封切られた映画「Sicko」(シッコ)はアメリカの
深層に触れ、触発してその痛烈な批判から来る、この世界の展望を見せて
くれます、今回もマイケル・ムーア監督の作品です。

題名の、『SICKO』とは、俗語的表現では、『変質者』という意味になりま
す。この映画を見終わってから感じる事は適切な表現と感じました。

この映画で有るような事が日本で起きれば必ず政権が崩壊すると思いますが
アメリカの様に弱者切捨ての政治で、巨額な資金と、政治家を操る巨大医療
保険会社の力と、権力に食い入った保険会社が癌細胞の様に、食いちぎり、
犯して、て最後は国家の根幹も揺らぐと感じました。

前回の2004年の「華氏911」では痛烈にアメリカの政策を批判して、ブッシュ
政権の足をさらい、かつまた世界に大きな世論の波を起こしたのは皆様がご
存知と思います。今回もアメリカが抱える医療制度の根幹を批判したもの
で、かなりの数の医療関係、保険会社が抱える問題で、はじき出された人達

にインタビユーしてかなりの資料と、関連する隣国カナダの医療制度と比べ
て実際の医療現場での実写映像が、その証拠として多くの批判的な人々の
言葉と重なり、虚偽を暴き、違法性が有る医療現場での底辺に生きる人々
の姿を捉えています。この映画を見ると、またしてもム-ア監督が政府医療
関係機関と保険会社、それに関連する医療機関、製薬会社にたいして、痛烈
なパンチを送ったと感じます。

この映画の道順から見ていくと、日本の医療関係が危機的な状態と言われて
居るが、アメリカでの医療費はGDPの約15%であり、一人あたりの医療費は
5635ドルと言われています、アメリカは日本の国民健康保険などと言う医療
保険が有りませんから、民間医療保険に加入する事になります、その比率が
36%とかなりの高率となり、民間保険会社が巨大な医療行政に、口を挟む

事が可能となります、昔の日本でも政治を動かしていた日本医師会会長が
『国民医療保険の総辞退』と言う脅迫で医療政治の舵を有利な方向に向けた
記憶を持っている方だ沢山居ると思いますが、このアメリカでは世界一の
経済力と軍事力を持って居るのにも関わらず、落ちこぼれの医療行政がまか
り通る事が、映画の中でキユーバの医療関係者が・・・、

『我々キューバの国民が出来る事を、アメリカではなぜ出来ないか?』と、

これは痛烈な批判です・・、世界で3番目ぐらいに値する医療行政を持ち、
運営してキューバ国民の健康と老人医療と新生児の対応に当る組織的な医療
機関の運営では、病院の窓口で書き込む用紙は、『名前と生年月日』だけで
保険の有無などは何も書くことは有りませんでした。映画が見せ付ける場面
がアメリカの医療関係の矛盾をより鮮明に表したと感じます。

アメリカでは高齢者や低所得者しか適用されません「メディケイド(低所得
者向け医療扶助)」しか有りません、他は民間保険の任意加入での健康保険
です。
アメリカの場合は障害者と65歳以上でカバーされる政府医療保険とが有り
ますが、それを除いた7割が民間保険に加入して1割はメディケイドで2割
が無保険と成っている悲劇が有ります。

今回の映画では民間保険業者と製薬会社をターゲットにして、アメリカの医
療矛盾を突いていますが、これは日本の老齢化社会にも警鐘として見なくて
はなりません、日本もこのまま行くと政府医療保険の崩壊も有ると言う事が
考えられるからです。

貴方も是非ともご覧下さいまして、批判と言う思考の足しにして下さい。

お勧め度、100点、

題名:『SICKO』
上映時間、約2時間
監督:マイケル・ムーア

2012年6月27日水曜日

死の天使を撃て!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』


 (7)射撃競技開始、

私はしばらく後ろで見ていた。
やはり自分のライフルを持参して来ている人は上手だった。
標的に命中させてかなりの点を稼いでいた。

それと横風の吹く時は標的から外れていたので、セスナの格納庫が有
る横の赤と白の吹流しを見ていると、風の強さが直ぐに判断出来た。

見ていて、早くも5発を撃ち尽くしてしまった人も居た。慎重に時間
を掛けて一つ、一つ撃っている人も居た。私は狩猟にはない標的射撃
のコツを見ていた。

動かない的であったが、微妙な神経の居る射撃で、真中の黒点の10
と9を撃抜く事は容易ではなかった。
初めの5人は終り、土手に赤旗が上がり使用人が標的の紙を直ぐに回
収してきた。
新しい標的が貼られ、そこで小休止となった。

各自の標的が集計されて、最高は50点満点で42点であった。次ぎ
のお客が並んでベンチに座った。
その中に私とオーナーがいたが、私はマウサーのライフルを使って撃
つ事にしていた。

弾が各自に配られ、ボルトを開けて弾を5発入れた。最初の弾は慎重
に狙い、横風を吹流しでにらみながら、風が止った一瞬を狙って先ず
第一の引き金を引いて、次ぎの2回目を軽く指先で触って発射した。
微妙なタイミングが合って、ド真中の10点から少しずれて9点に入
った。

私は少し自信がついて落ちついて来た。着点は後ろで誰れかが見てい
て、撃つと直ぐに教えてくれた。
望遠鏡でのぞいている人も興味が有るらしくて、私の射撃をジッと眺
めていた。
次ぎの弾をボルトを引いて、空薬莢を排出して装填した。

標的に狙いを付けて、軽く一番前の引き金を引いて、一瞬の風の微妙
な流れを見ていた。横風が強く吹いて、その一瞬の波の間で撃った。

後ろで『10点、真中に命中~!』と声を掛けてくれた。

次ぎも同じ動作をして、風を待った。しばらく間がありその時後ろに
沢山の人の視線を感じた。三発を発射して残っているのは私が最後であ
った。
後の人はすでに5発を撃ち終わり見ていた様であった。
ここのオーナーも側で見ていた。
私はすっかり無我の境地で残りを撃った。側に誰が居るのかも感じな
かった。撃ち終わってボルトを引き空薬莢を出して、休止の動作で、
ボルトを開いたままライフルをテーブルに置いた。

直ぐに使用人が標的を持ってきた。真中、10点を3個も穴を開けて
いた。オーナーが近寄り、スコープも付けずに良く命中させたと驚いて
いた。あとの2発は9点の所に命中していた。
全て黒点の中で、私の視力が良いことも有ったが、日頃からライフル
射撃に慣れて居たからであった。

私が南米に移住する時に、田舎の故郷に里帰りした時に近所の昔、中野
学校出身で特務員でマレーシア半島で活動していた人がいた。

連合軍の英国諜報部の摘発をしていた人であった。彼は実戦の経験も
沢山あり、襲撃した時、反撃されて激しい撃ち合いをして、最後は軽
機関銃で敵の諜報員を射殺して戦後はモンテンルパの刑務所に居た事
も有る人であった。

私に拳銃の射撃の要領や、ライフルの撃ち方を空気銃で教えてくれた
人でもあった。
彼は実戦での接近戦や、至近距離での拳銃の射撃の仕方を夕食の後、
夏の夜長を縁台で聞かしてくれた。

彼はその当時も剣道は欠かさず4段の腕で、空手と合気道も逮捕術の
稽古で習って、段を持っていた様であった。
私はその事が後になってどれだけ役に立ったか知れなかった。
有り難い教授であった。

普通の人はその様な特技などは無縁で、ただ実戦での身で覚え、自分
の命を賭けて戦った経験で学んだ人の教えは貴重であった。
その事が私の一つしかない命を守る事にもなったと思っている。

その時、射撃が一段落して、休憩が告げられて、コーヒーの盆が運ば
れて来た。各自コーヒーカップを取り、今の射撃の反省をして話して
いた。オーナーが近ずき私に話しかけて来た。

『今日の射撃は貴方と私が同点だーー!もう一度競技して、一番を決
め様ではないか』と話してきた。
私は賛成して貴方と競技するにあたって、何か賭けないかと誘った。

即座に了承してくれた。私は先ほどから目を付けていた、22口径の
レボルバーの拳銃が欲しかった。
特注品で10連発の弾が撃てる様に改良してあった。
競技用の22口径の弾を使えばかなり精密な射撃が出来た。
見ただけで欲しくなっていた物であった。

どこかの銃工が製作したと聞いたが、標的を狙う星門の照準は特注品
が取りつけてあり、とても私などは注文出来ない品であった。
オーナーはあっさりと了解してくれ、お前は何を賭けるか聞いて来た。
私は持ち金の2万ペソをテーブルに置いた。田舎では半年の稼ぎであ
った。
オーナーは笑いながら、『俺が損をする~!』と言ながら、使用人に
屋敷から持ってこさせた。

テーブルに金と拳銃が置かれ、私とオーナーがコーヒーで乾杯して、
射撃競技が始まった。
オーナーは自分の愛用のライフルを手に、私はマウサーを手にして
いた。


 (8)標的の黒点狙撃、

オーナーは公平を規すためにコインを投げて席を決め、射撃順を定
めた。弾は各5発を側の人が無作為で選んで渡してくれた。

私は希望して銃身の内部をクリニングのブラシを通し、掃除して真
新しい布を通して磨き上げた。
ボルトを抜いて空にかざして銃身内部を覗いて、光る穿孔の溝を確
かめた。私は負けたくはなかったから、マイナスになる要素は除い
ておきたかった。オーナーが感心して見ていた。

最初にオーナーが撃ち始めた。皆は『シーン!』として注目して、
標的と射手を交互に眺めていた。

セキをする人も無かった。緊張が張り詰めて、私は少し心に
『キユーン!』とこみ上げるものが有った。
風向きを吹流しで睨みながら、そのタイミングを計っていた。
オーナーが最初の一発を撃ち、9点の黒点を撃ち抜いた。

私は最初の引きがねを引き、次ぎを風の間合いを見て、次の引き金
に軽く指をかけていた。
吹流しがストンと落ち、風が瞬間途切れた間合いを逃さなかった。 
引き金を引いた。

『ド~ン!』と言う銃声が終ると同時に、『命中、10点ー!』と
言う声が後ろでした。

オーナーのフーと言う声が小さく聞えた様だ。
次ぎはオーナーが狙っていた。私が10点の黒点を撃ち抜いた事で
動揺した様だ。

かなり風が強くなって来て、風が止む事無しに吹き始めた。
吹流しが真横になびいていた。
かなり難しい射撃となった。

100mでも横風で弾がかなり流されるから、難しい標準をしな
くてはならなかった。
オーナーが狙った的にかなり時間を掛けているのが分かった。
風の強さを計っている様だ。

しかし余り時間を掛けると、神経と指の間合いがずれて、張り詰
めた目の集中力が落ちてくる。
私はこの時勝ったと思った。

オーナーは私よりお酒をよけいに飲んで居たし、来客の前で日頃
からの射撃の腕を自慢していたから、若造の私に追われて、かな
りのストレスが有った様だ。

私は面子も無し、気楽で、賭けに敗れても2万ペソで済む。
その時、オーナーが撃った。

『ドーン!』と風に遮られた音だ。直ぐに『8点ーー!』とそれ
だけ誰かが後ろで
声を出した。

私は直ぐにボルトを引き弾を装填した。あとは何も考えなかった。
風を見て、真横になびく吹流しを見て、ド真中の直ぐ左の8と9
の境あたりを狙い付けて風を計算に入れて撃った。

発射音が消えると同時に『9点、黒点に命中ーー!』と声を掛け
てくれた。
私は小声で右か左か聞いた。

右の9点だと教えてくれた。
やはり私が思ったより風が強かった様だ。

流されているーー!風が左側から真横に吹いている、後は運を天
に任して、推測して照準するしかないと思った。風がますます強
くなって来た。

オーナーは空を見上げて、雲の流れを見て溜め息をついた。
「ますます風は強くなりそうだーー!」と言うとベンチに座り直
すと、ボルトを引いて弾を装填して台尻を肩に当てた。

かなり時間が掛ったが次ぎを発射した。『9点、黒点に入る!』
と声がした。

私は弾を装填して今度はあまり時間を掛けなかった。
風はますます強くなり、真横からのパンパの草原を横殴りで吹く
強い風だ。

左の8点の線を見て、二度目の引き金を軽く引いた。
風に流されて音が小さく聞えた。

それと同時に『10点、ド真中に命中~!』と声がすると、後ろ
でどよめきが起きた。
その後は『シーン~!』と声一つ無かった。

風の音だけが聞えてオーナーが狙う標的を皆が凝視していた様だ。
次ぎが発射され後ろで『7点、外れ~!』と言った。

おそらく7点と6点の境を撃ち抜いた様だ、その声と同時に私は
これで心がスーッと落ちつき、間違い無く勝ったと感じた。

弾を装填するボルトを引く手が軽かった。
今度は風の強さが分かっていたので、狙いは短かかった。
余り神経を使うことなく軽く引き金を引いた。

それが良かった様だ、後ろで『今度もド真中~!10点ーー!』
と声がした。今度は拍手が起り、『ブラボー』と声が掛った。

直ぐに静かになり最後の弾の発射を待った。
風は止む事も無くますます強さを増して来た。
オーナが最後の弾で狙って撃ったが、7点を撃ち抜いたのに留
まった。

私は最後も余り時間は掛けなかった。風がますます横殴りに吹い
てきたから、前と同じに冷静に引き金を引いた。

『9点、黒点命中~!』と声がして、後ろで拍手と歓声が上が
ったが、オーナーも側に来て握手してくれた。

私が一回り若く、視力は抜群で、酒も飲んでいなかった事で差
がそれだけ有った様だ。
私は直ぐにクリニングオイルで銃身の中を掃除していた。
来客が私に握手をして来た。陳氏もお祝いを言ってくれた。

そして『すげ~射撃の腕をしているーー!』と驚いていたが、
オーナーは直ぐに皆の前で、私に約束の拳銃を渡してくれ、
『大切に使ってくれーー!』と言った。
そして『どうせなら弾も貴方にあげましょう』と話してくれた。

使用人がライフルをかたずけて掃除を始めた。
皆はそろって屋敷に戻り、シャンパンを開けて私を祝ってく
れた。

オーナーは賞金とレミントンのマグナム22口径の弾、50
発入りを4箱付けてくれた。飾り箱に入れた拳銃は掃除道具の
セットも付いて、豪華な物であった。

しかしこの射撃大会での競技で優勝した事が、私の災難の始ま
りであったが、その時は私は何も感じては居なかった。

2012年6月26日火曜日

私の還暦過去帳(260)

長く会わない友人と久しぶりに会うとこの歳では、一瞬、アレー!と
顔を見詰めてしまいます。

先日の事でした。久しぶりに私のお客と会いました。30年近い私の
お客でアパートの不動産の管理を請け負っていました。
一時は、香港に仕事で転勤して自宅も預かって面倒を見ていました。

ご主人はそろそろ、70歳近い歳で、完全引退して奥さんの実家が
有るサクラメントに引っ越すと話していました。最後のアパートが売
れてお別れに挨拶に来ましたので、久々にアパートの収納庫などのカギ
の引渡しで会いましたら、お互いに驚いてしまいました。

それも30年近い永い間を、時間的にしたら5年ぶりとか、3年ぶりと
かで会っていましたが、若い頃はそうでも有りませんでしたが65歳を
過ぎれば変化が激しいのです・・、お互いに健康に注意する様に話して、
握手して分かれましたが、160kmぐらい離れた所ですから、もう会
うことも無いと思うと、寂しくなりました。

その両親とも昔、同じ家で住んでいましたので、何度か会い話した事が
有りました。その両親もかなり昔に、老人ホームに引越して、そこで亡
くなられたと聞きました。
人だけでは有りません、ペットの犬も同じです、私が25年近く管理し
ていた家の犬も私が先月に辞める時は、三匹目でした。

2匹目の犬の時でした。
そこの女主人が、この犬は癌で、あと3ヶ月の寿命と話してくれました。
少し元気が無くて、一度手術をしていましたので、何か病気とは思って
いましたが、その話を聞いてマジマジと犬を見た事が有ります。

利巧な犬で、いつも側に来ると鼻先で私の手を押して挨拶していました。
頭をなでると、いっも顔が笑った様に愉快な犬顔で喜んでいる犬でした。
しばらくして、いつもマットの上で寝ている様になり、私が近寄ると顔
を上げてパタパタと尻尾を振ってくれましたが、ある日、犬が居ないの
で聞いたところが、先日、かなり苦しがって子供と病院に担ぎ込んだら、

あと僅かな時間と聞いて医者の勧めで、苦しまない様に安楽死させたと
話してくれた顔が涙でクシャーと歪んでいました。
なついて、いつも付いて廻っていた犬です。 

この歳で階段と坂の有る庭の管理と、古い家の保守は疲れる仕事でした。
最後の別れの日に、犬と二人で坂道を降りて、道路まで見送ってくれ、
女主人の家でしたが、現在で言う『シングル・マザー』でした。親の財
産を相続して、生活には困らない様でしたが、永年の仕事に感謝の言葉
をこめて、ハグをして抱きしめてくれ、犬も尻尾を振って何度も手を舐
めてくれました。

永い歳月で庭の木も大木に育ち、うっそうと茂る枝の広がりを見上げる
と、昔、彼女の小学生の子供が遊んでいたのを思い出しました。
その頃は最初の犬でしたが、その犬もなついてくれて時々は遊んでいま
した。リスを木の上に追い上げて、じっとその木の下で座っていた犬で
した。

遠い昔の思い出として、忘却のかなたに消えて行くこの記憶も、あとど
のくらい私が思い出せるか、先日、回り道をして仕事に通った時に寄り、
大木を見上げると、昔、良く散歩に歩いて来ていた老人が、その木の下
で夏の日など一休みして、連れていた犬も休ませて居たのを思い出して
いました。
そこを訪ねた後に昔からツバメが集団で住んでいる所が有りますので訪
ねて、直ぐ先のガード下にツバメが遠いアルゼンチンから飛んできて、
今年も沢山の巣を作り、見事なカーブで青空を突き抜けていく妙技を飽
きなく見ていました。
私の目は昔の子供の頃に、田植えが済んだ田圃の上をツバメが同じく飛
ぶ様を見た感じでした。

2012年6月25日月曜日

死の天使を撃てー!

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』

(3)酒の席で・・、

私は陳ですーー!と名乗ると、「初めましてーー」と流暢な日本語で挨拶
してきた。

私の友達の知り合いの様で、この店の常連とのことであった。
私はウイスキーを進めて、グラスに氷を入れて酒を注いだ。

もう一度乾杯して、「グーッ!」と飲み乾して、酒席の話しの潤滑材とし
た。
日本式におつまみの皿が出て来て、席も一度になごみ日本語で気軽に話し
が出来る事も久しぶりで有った。

席に座っている日系の女性も、上手な日本語で話しに加わり、冗談と
馬鹿話でワイワイと酒も入って、楽しさがテーブルに溢れていた。
久しぶりの酒の席で私もジャングルの単調な生活の息抜きとしては最高
であった。

まだその頃は農場の支配人でマリアとも知り合ってはいなかった時代で、
気楽な一人者の時代であった。収穫高からの歩合で、かなりの金を稼い
でいた時代で財布の重たい物を持っていた。
まだクレジット.カードも無い時代、現金が全てであった。

陳氏は自分から自己紹介してくれ、九州の大分県出身と言っていたが、
家族がドミニカ移民で移住して、それに付いて移民して行ったと話して
いたが、日本では日本名を名乗っていたと言った。

広東語もかなり話せると言っていた。スペイン語はベラベラの口でかな
り語学が達者な感じで、現在はユダヤ人のオーナーの繊維関係の貿易会
社で仕事をしていると言っていた。
仕入れ先が日本が主な所が多くて日本語と中国語が解る陳氏が適任の
仕事場と私も感じた。
あちこちと流れ歩いて、南米はかなり詳しい感じで柔道と空手が少し
出来るので、ブラジルでは売春宿の用心棒もしたと笑っていた。

客のギャングに半殺しにされかかって逃げて来たと言っていたが、
何かふてぶてしい、ヤクザの蔭を持った男で有った。
しばらくして酒もかなり廻り、その場の雰囲気から沖縄県人二世の女性、
エミさんのどうやら「いい人ーー」らしい感じで、話しぶりから分かっ
た。

その時ドアが開いて、ジプシーの若い少女が花束を売りに来た。テーブ
ルを廻り花束を売っていたが、陳氏が冷たい眼差しでにらむと、少女は
私らのテーブルには近かずくことはなかった。

ドスのある目で裏の社会を歩いて来た事を物語っていた。彼がトイレに
立った時、座席に脱いであった背広のポケットから、小型の自動拳銃が
チラリと見えた。

無造作に注込んである拳銃が余りにも慣れた感じで、不気味な感じが伝
わってきた。
今日はそんな事より、楽しく話して、飲んで、騒いでいたかった。隣り
のテーブルに座っていた登美ちゃんと呼ばれた女性も加わり、大きな声
で日本語で話して、馬鹿を言って笑いこけていた。

真夜中の零時を過ぎて何か食べに行こうと話しが決まり、店で日本人と
の混血の若い女性も誘って6人でタクシーに乗り、女の子は膝に乗せて
ワイワイ言って乗っていた。
運転手が顔をしかめて見ていたが、その顔にひらひらとお札をぶら下げ
て見せると、ニコニコして黙ってしまった。
カンテイーナのレストランに入り、小皿の各種のつまみと、各自の注文
をすると、ホールで音楽に合わせて踊り出した。
注文の皿が並び、一曲が終ると、皆はテーブルに戻り座った。その時、
陳氏にスーッと近寄り、何か耳打ちする若い男がいた。陳氏は黙って聞
いていたが、

「あとでーー!」と言うとその白人の若い男は踊りの中に消えて行った。

(4)イタリア人との喧嘩、

賑やかな時間が過ぎて行き、踊り疲れてテーブルに座り、ワインをソー
ダーを割って、つまみを口にしながら乾いた喉を潤していた。

陳氏が明日の午後に知り合いの農場でアサードの焼肉を開くので、一緒
に行こうと誘ってくれた。予定は何も無いので喜んで受けた。
待ち合わせはアバスト市場の直ぐ近くの場所に有る、カフェーであった。
そこは私も知っているイタリア系の美味しいコーヒーとパスタが食べら
れる所で、かなり有名な場所であった。

すこし遅くまで寝ていて、直ぐに行ける所であったので喜んでいた。
ルーカス達の泊まって居るアパートには、今日は泊まる予定は無かった。
直ぐそばに借りた駐車場にトラックも止めて有るので、他に泊まる所が
なければ、トラックの後ろのベッドで寝る事が出来るので何も心配は無
かった。

そして私の全ての荷物もそこに置いてあるので、早く言えば私のアパー
トと同じであったが、駐車場は管理人が住んで居て、番犬もいて、24
時間管理しているので、安心してトラックを置いていた。

トラックのタイヤ一本盗まれても、かなりの値段がするのでそこは安全
な場所であった。気分的に解放されて、楽しい寛ぎと、久々に飲んだ
ウイスキーに酔って、登美ちゃんと話しが合い、彼女だけが日本から来
た経歴で、東京の話しも出来る彼女に嬉しかった。

酔いと踊りの疲れで少し眠くなって来た時に四名ばかりのイタリア語を
話している若い男達が酔った勢いで三人の日系の彼女達を踊りに引き込
もうとして、テーブルに割って入って来た。

少し『カチーンーー!』と来ていたが、陳氏はいきなり腕をねじ上げて、
床に叩き付けてしまった。面目を潰された若い男はいきなり殴りかかっ
て来た。

他の三名の男達も加勢をするかの様に、ぐるりと囲んで見ていたが、
陳氏は動ぜず、パンチをかわすと簡単に殴り倒してしまった。

店の人間が飛んで来て『騒ぎは外でやってくれーー!』と喚いた。

我々は勘定を払うと外に出た。三人の彼女達を囲むようにして、イタリ
ア人のごろつきを用心していた。先ほど殴り倒された男がポケットから
ナイフを出した。

口が切れて血を垂らしているので少し『ギョー!』とした感じが伝わ
って来た。
陳氏もためらう事も無く、ポケットから手の平にスッポリと入る小型
のブローニングの自動拳銃を出すと、その男の顔に狙いを付けていた。

朝の3時近い時間で歩道には余り人影も無かったので、これからどう
なるか一瞬『どきりーー』とした。
その時スーッと車が近ずき若い白人の男が『早く乗りな~!』と言っ
て誘った。

陳氏は私達が全員乗りこむまで、拳銃を構えて動かなかった。
陳氏が乗り込むと、タイヤが激しく音を立てて発進した。
後ろで罵声がして、酒ビンが車道で砕ける音を聞いた。

陳氏は『ゲラゲラーー』と笑っていた。それから彼は『今夜はこれで
お開きにしようーー!』と言うと、運転する若い白人に指図して、先
ず私の友人と混血の日系人を彼女のアパートの近くに降ろした。

次ぎは私が頼んだアバスト市場の近くに来た時、登美ちゃんが『そこ
なら私のアパートに寄ってーー!』と声を掛けてくれた。
私は一瞬ためらったが、直ぐに彼女が私の腕を取り、外に引っ張って
降ろしてしまった。

陳氏とエミはそれを見ると嬉しそうに、『じゃーー楽しく!』と声
を掛けて走り去って行った。
私の腕を掴んだ彼女はぐいぐいと引っ張って歩き出した。
直ぐに小さな小奇麗なアパートの前に来て、『遠慮しなくていいの
よーー!』と言うなり、ドアを開けて誘ってくれた。

直ぐに冷たいボトルの水を出してくれ、私は酔い覚ましに、グイー
ーと飲んだ。ソファーにどっかりと座ると眠気が一度に吹きだして
きた。

彼女が私に何か言っていたが、半分も聞いてはいなかった。
彼女は着ていた物をポンポンと脱ぎ捨てて、一番下のパンテイーを
私の顔に投げて、シャワーに入った。
そこまでは覚えていたが、後はシャワーの心地よい音が子守り唄で、
後は何も知らずに寝入っていた。

2012年6月24日日曜日

私の還暦過去帳(259)

タバコ・・・!、
これには色々な思い出と、経験が詰って居ます。

私の父親が戦前の台湾専売局タバコ工場の所長をしていたぐらい
ですから、父親はかなりのタバコ吸いでした。
小さな子供の頃から、父親が側でタバコを吸うのを見て育ってい
ましたので、人間は大人になったらタバコと言う物を吸う様にな
ると思っていました。

私が覚えている終戦後まだ日が浅い時期でしたが、モク拾いと言
って吸殻を拾って回収して来て、それをほぐして中のタバコを取り
出し、それを再生して紙に巻いて、また道端で売っていたのを覚
えています。それを生業にしていた人が沢山いたようでした。

そん事を覚えていますので、最近ですが高校生と見られる学生が
公園の駐車場で同じ様なモク拾いをしているのを目撃いたしました。
中には直接に『タバコ下さい・・!』とまるで乞食の様にして、手
を差し出す若い男が居るのには驚きました。

それもそのはずです・・・、

私が住んでいる地域は全部タバコ販売はカギの掛かるケースにしか
陳列出来ませんので、それと若く見られると直ぐに身分証明証の
提示を求められます、勿論の事に、タバコ自動販売機などは全然
置いては有りませんので、買う事も困難となっています。

お店は販売違反をしたら即ー!閉店かライセンスを取り上げられます、
かなりの囮の係官があちこちと巡回して周りますので、監視の目が厳
しく、それと、公共の場では全部禁煙となっています。

喫煙が出来るのは自分の車の中か、自宅だけです・・、これではタバコ
吸いは犯罪者扱いと成ったようです。おかげで当地の喫煙率が9%を
切ったと新聞で見ました。

値段も高く、半分以上は税金ですが、それにしても1箱20本入りが、
日本円で500円近い値段と成っていますので、アメリカの喫煙者達は
悲鳴を上げています、高校生などは、これではシケモク拾いで吸うしか
道は無いと感じました。

先日にTVで見ていたら、子供が乗車している車の中でタバコを吸ったら
罰金と常習者にはブタ箱行きとか・・、アメリカでは益々肩身が狭い感
じとなる喫煙者達です。

しかし私が46年前に南米の田舎で汽車に乗車して気が付いたら、同じ
タバコでも、『タバコ・ネグロは喫煙禁止』とデカデカと書いて有りま
した。バスも同じです・・、それはインジオ達が吸う最強のタバコでした。

私も覚えていますが、まあー!強烈を通過して、ヒー!と言う匂いが致し
ます。あれには参りまして、降参致しました。
葉巻にして吸う人や、小さく刻んでトウモロコシの薄皮に巻いたり、
専用の紙に巻いて吸います。独特の強烈な香りが、かなり離れた所でも
匂いが致しますので、禁止に成っていると思いました。

一度、アルゼンチンのミッショネス州でバス停で吸っていた男を警官が
取り上げていたのを覚えています、取り上げたタバコを踏み潰して、
『今度またここで吸ったらブタ箱行きだ・・』と怒鳴っていました。
タバコはどこでも、昔でも、問題が有る趣向品と感じます。

私の友人や同期生もタバコで死んだり、寿命をちじめた人が沢山います
ので、どうか注意して下さい。

2012年6月21日木曜日

死の天使を撃てー!

私が46年前に体験した出来事を書き残しています。

事実は小説より奇なり・・、という事かもしれません。

第2話は『死の天使』と言われた人物を探し、追跡する話です。
私がヒヨンな事で関わり合い、アルゼンチンの首都、ブエノス・アイレス
での出来事でした。
この話は、事実と相違する事も有ります。想像で書いた所も有ります。
昔の事で、薄れた記憶から書いたものですから、小説の話と割り切って読
んでください。


   第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』
  
46年前に移住したアルゼンチンのブエノスで知り合い、親友になって
出会ったユダヤ人が、住めば都ーー、ユダヤ人は千年の流浪の旅に出ても
民族は国家なりと。

生きる、生き残る、生き抜く、生き残る為の子孫を残す、生き残る為の
資財を作り、蓄える。それを力に民族を絶やさず、力蓄えて。頭脳と資財と
言う民族国家財産を創り、蓄え増やすと言う集団力を創る事が、イスラエル
と言う国家再建をユダヤが成した原動力と言った事に少なからず驚きました。

国家を創造する思想、日本人にもその様な信念を所持する人間が居ても、
移住を前提に世界のあらゆる国に根をおろして、土地を構え、家を作り、家
族を養い、子孫を増す事も面白い人生かもしれないと感じ、その後は私の考
えが信念と昇華して、これまで生きて来ました。

これからお話を連載するにあたって先ず、読んでおいてもらいたい物語で
す。この話しは是非聞いてもらいたい、そしてユダヤ人を理解しておいて貰
いたいと思い、序文として書いた次第です。

これは私の思いでの話です、
『戦争の悲惨さ、それで難民として流浪の旅に出た人々が思い出として語っ
てくれた物語です。』

この物語は以前、出た邦のメルマガに出したものですが、彼等の信条とす
る心を先ず理解して、なぜナチ戦犯を彼等が命を賭けてまで捜していたか
理解してください。

これを持って序文と致します。

昔、ボリビア国境近くからブエノス、アイレスの首都に出てきた時は、
「奥地から出てきた」と言っていました。

街中にあった日本人会館の宿泊所に泊まっていました。1階は食堂や事
務所、大きなホールも有りました。
日本食も食べる事が出来まして、何かと便利で色々な情報も沢山入って
来ますので、本当に便利な場所でした。

食事は近くにイタリア人が経営する、美味しくて、安くて、魚料理が沢
山有るレストランに通っていましたが、直ぐにそこのウエイターと仲良
くなり、鯛のから揚げにオリーブ油のピリカラソースを掛けた物を発見
して、ブエノスに滞在している時は毎日飽きもせず食べていました。

30cmも有る大きな鯛です、皿からはみ出しています、アルゼンチン
では小骨の沢山有る鯛は余り歓迎されない魚ですから、レストランで安
く食べる事が出来ました。
揚げ物専門でカウンターの近くで仕事をしている、アントニオと言う若
者とも仲良くなり、インジオのおばさんが自家製で作る葉巻を沢山お土
産に持って来ていましたので、三本ほどプレゼントして、明日のお昼も
来るから、必ず俺の分は残しておいてと、念を押して帰りました。

自家製の葉巻は特製で、タバコの葉をラム酒と砂糖で醗酵させてそこに
おばさんの秘密の何かを混ぜて作ります、その香りの良い事、20mも
離れた所からでも分かりました。
おかげでお昼にレストランに入り、カウンターの中に入るアントニオに
手を上げて挨拶すると、「あいよ~!」と言う感じで、テーブルに座っ
てスープが来て飲み始めると直ぐに鯛のから揚げが出てきますが、隣り
に座っているおやじが「じろ~ッ」と見ています、 いっも会っている
おやじです。
「また、あの日本人は魚を食べている」そんな感じでした。

それと余りに早く注文が出てきますので驚いています。白ワインを頼ん
で飲んでいますが、ボトルを全部ポンと置いて行きます、食事が終って
勘定の時に瓶の残りを見て、その瓶の飲んだ分だけ払って勘定する、
おおらかな物でした。

私はこのレストランが気に入って、昼と夜の2回も食事に通っていま
したが、いっも同じ所に座っていましたのですが、私の隣りに同じ様に
座っていたユダヤ人の老人がいました。

私が魚を良く食べるので、目立っていたのか、彼らも宗教の何かの日に
はお肉は食べ無い事を知りました。
そんなわけで食後のコーヒーの時に、コニヤックの酒をおごってくれ
まして、話をする様になりました。昼時は混雑しますので食後は外で話
していました。

ポーランド系のユダヤ人で、戦後、兄を頼って移民して来たと話してい
ましたが、家族は全部死んでしまったと言っていました。
私も戦後台湾から引き上げて来る時、リュックサックのみで、着たきり
スズメの、お腹を空かして、悲しい思いをした事を下手なスペイン語で
話すと、彼も余り上手ではなかったスペイン語で、慰めてくれました。

一人暮しで、時々兄の貴金属加工の手伝いをすると話していましたが細
い指先は、繊細な仕事をこなすプロの感じでした。
どこに住んで居るかは聞きませんでしたが、歩いて直ぐのアパートに住
んで居ると言っていました。
ある時、何気なく「お前はこんなものを見たことが有るかーー!」と言
って腕の袖をまくり、数字の刺青を見せてくれました。

私は「ガ~ン!」と心に衝撃が走りました。

話には聞いていた事です、本でも読んだ事が有りましたが、現実に見
せられたショックは大きかったのを覚えています。アウシュビッツの死
の収容所で付けられたと言っていましたが、それとポーランドで彼が住
んで居た町で生き残ったユダヤ人は 数えるほどしか居なかったそうです。

彼が特殊な金属加工と研磨の技術を持っていたから、軍需工場での強制
労働、通称奴隷労働での仕事をしていたから、終戦まで生き長らえたと
話していました。
だんだんと色々な話を聞くに連れて、衝撃と悲しみと、悲惨さが滲み出
す話に私は涙が止まらなかったのを覚えています。

人はそれぞれ一つの人生を担って歩いていると言いますが、重き荷や
軽い荷など、それぞれの人生の終着駅を目指して絶え間無く歩いて行か
なければなりません。
ユダヤ人の老人と出会って話をする様になってから、自分の人生感が少
し変った様です。
彼の話は人の心を揺さぶり、衝撃と感動を人の心に与える力が有りまし
た。

ポーランド系、ユダヤ人としてワルシャワの町で生まれたそうですが
ナチ、ドイツがポーランド進攻してきたから全てが変ったと言っていま
した。
全てのユダヤ人はゲットと呼ばれる居住地に押し込められて、そこから
強制労働などに駆り出されて行ったそうです。

ある時ドイツ軍から、トラックに乗せられて、強制労働に連れ出され
て、昔のユダヤ人の金持達が住んで居た場所で、家財道具の整理や、
隠匿物資の捜索を手伝わされたそうです。

ある屋敷に着いたら ドイツ軍将校が中庭の空き地に拳銃を持って立っ
ていたそうですが、その足元には射殺されたユダヤ人の家族が並んで
いたそうです。
隠れて、どこかに潜んでいた家族の様でした。 そのようなユダヤ人は
その場で射殺されて行ったのです。
両親と娘が二人、頭を後ろから打ち抜かれて血を流して死んでいたそ
の遺体をトラックに運び、かたずける時に娘二人はあきらかにドイツ兵
の強姦を受けた後がなま生しく残って、目をそむけて遺体を運んだと話
してくれました。

まだほんのりと温かみが残る遺体だったと話していましたが、その話
をしている時に、彼も泣いていたのを覚えています。
そこをかたずけて次ぎの屋敷に行くと、そこでは軍用犬を使って潜んで
いるユダヤ人の捜索が行われていました。

屋敷の離れで使用人が住んでいた様な家を探していた時、犬が吼え誰か隠れ
ている事が分り、ドイツ兵が銃を持って取り囲み、捜索を始めると直ぐに親
子4人の家族が連れ出されて来ました。

子供は娘とその弟の様で、両親は子供をかばって命ごいをして、ドイツ兵の前
で地にひれ伏して、涙ながらに懇願していましたが、情け容赦無くーー、まず
両親が銃殺の為に庭に立たされると、男の子供が泣きながらそれを止め様とし
て、その場でまず射殺されてしまい、直ぐに同時に両親も並んで銃殺されてし
まいました。

残った若い20歳頃の娘は死を覚悟をしていた様ですが、ドイツ軍将校は何を
思ったのか、強制労働で連れ出されて来たユダヤ人を指差して、この娘を犯す
様に命令しましたが、誰も娘を前に行動を起す人は無かったそうです。

将校は一人の初老のユダヤ人を指差すと、「お前が初めにやれーー」と指名し
て命令しました。
娘は家の中に連れこまれて、下半身裸にされて指名されたユダヤ人の背中を
押して犯す様に再度命令したが、初老のユダヤ人はその将校の顔につばを吐
きかけて、拒否したそうです。

その場で射殺されてしまい、次ぎはこの話をしてくれたユダヤ人の番だった
そうです。
彼は死を覚悟して動かなかったそうですが、 将校は「あと20数える内に
行動を起さないと、射殺するーー」と言って数を数え始めたそうですが、

すると、娘は彼の手を取って、「生きなさいーー、どんな事をしても生きな
さいーー、」と小声で早口のポーランド語で話すと彼をソファーの前に連れ
て行き、生きる為の、生き残る行為を彼にさせたそうです。

しかし緊張と、恐怖の前では真似事だけで、ドイツ兵を喜ばすだけだったと
話してくれました。

その時オートバイに乗った伝令が来て将校に、近所でユダヤ人が銃で抵抗して、
死傷者も出ていると話すと、「遊びは終ったーー」と言って、死体をかたずけ
る様に言って、四人の死体をトラックに乗せると、「お前達は地下室に入って
おれーー!」と命令して、真っ暗な電気も無い部屋に入れられて、上から蓋を
かぶせて鍵を掛けられて、放置されてしまったそうです。

ドイツ兵は応援に 出かけてしまい、暗い部屋で遠くで聞こえる銃声を聞きな
がら動かなかったそうですが、娘は真っ暗な中で彼にしっかりと抱きつき緊張
と狂気の嵐の時間を耐えていたそうですが、強制労働に連れてこられて残った

彼を入れて三人と、娘は何一つ話さず、真っ暗な 中でジーッと耐えていたそう
ですが、時間が経つほどに緊張も緩み、抱いている彼女の体温も感じ、彼女の
皮膚の感覚も感じて来て、いっしか、しっかりと彼女と真っ暗な地下室で抱き
合っていたと話してくれました。

彼女は遅くなって戻って来たドイツ兵に外に連れ出されると庭の中に立たされ
て、銃殺されてしまったと涙ながらに話してくれました。

地下室から出る時、「天国で貴方の子供を育てるからーー」と言って出ていっ
たそうですが、撃たれる直前に手を上げて投げキスをして倒れて行ったと言う
事です。

彼は独身だと言っていましたがーー、  
 「一瞬の時間に人生のすべての情熱を燃やし尽くして行く人と、 
  一生連れ添っても、単なる同居人で人生を終る人も居る」、
と彼が話したことを、私は一生忘れる事は出来ません。

愛とは何かーー、愛するとは何かーー、今でも考える事が有ります。
彼とはその後、ブエノスを離れて二度と会う事は有りませんでした。

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』を連載致します。


(1)ブエノス・アイレス到着、

朝早くにブエノスに到着して、11トンものトマトを下ろしてホットしていた。
いつもの運転手が家族の結婚式で今回は休んで、私がハンドルを握り運転してきた。
たまの長距離の運転でやれやれの感じがしていた。
荷降ろしが済んでから私はブエノスでしばらくぶりに休暇を取り、遊ぶ予定をして
いた。

今回はマタッコ族のインジオでハンターのルーカスが助手として乗って来ていた。
彼もブエノスに出稼ぎに来ている兄弟を見舞いに同乗して来た。
犬も連れて来ていたが、しかし犬を乗せる条件として、良く洗ってから連れてくる
様にと、犬用の石鹸を渡しておいた、おかげで匂いもしなくて、おとなしく足元に
寝ていた。

私も犬好きであったから、長い運転での気休めになるので、特に夜間運転では単調
なドライブでの相手としては人間より犬の方が利口な感じであった。
ルーカスが後ろのベッドでいびきをかいて寝ている時に、犬はおとなしく私の
横で、シートに座り前を見ていた。
時々鼻先で私の腕をさわり、『チャンと起きていますよーー!』と言う感じで
私の顔を見上げていた。

メルカード.アバストの市場に荷物を降ろして、仲買の受取りを貰うと、全てが済
んだ感じで、気分がうきうきとして来た。ルーカスをさそってレストランで朝食を
食べると、留守番にトラックの荷台に乗せていた犬にお土産に、朝開店したばかり
の肉屋から骨付きの肉を買って、新聞に包んで持って帰った。犬のポンが喜んで、
かぶり付いて食べていた。

私達は駐車しているトラックに、売り歩いているコーヒー屋を呼び止め、熱いコー
ヒーを飲んでいた。コーヒー屋は肩から左右の大きな袋を掛けて、魔法瓶に入れた
コーヒーを売り歩いていたが、安くて結構美味しいコーヒーであった。

犬がガリガリと骨をかじっている音を聞きながら、ゆっくりと朝のコーヒーを楽
しんでいた。それが終るとルーカスを兄弟がいるアパートまで送って行った。

前もって予約してあった駐車場にトラックを止めて、ルーカスの兄弟達から歓迎
されて昼食は皆で食べる事になった。それまでゆっくりとワインども手に田舎の
話に花が咲いた。ルーカスも久しぶりの再会で喜んでいた。

私はその夜は友達と飲む予定になっていた。日本人の二世の女性が居るバーで、
ブエノスでも日本語が話せる珍しい店で有った。しばらく日本人の若い女性と話
す事もなかったので楽しみにしていた。

しかしこれが事件に巻き込まれた始まりで長い間、命がちじむ感じで、時には命
がけで戦わなければならなかった。
しかしルーカスと犬が居たおかげで、何とか切り抜ける事が出来た。

  (2)ブエノスでの飲み会、

ルーカスの兄弟達は今日は仕事を休んでいたが、何年ぶりかで会う兄弟達は皆元
気で再会した事を喜んでいた。
アルゼンチン北部の郷土料理を作り、焼肉のアサードも焼いて近所の知り合いの
インジオも呼んで、賑やかな昼の食事が始まったが、ルーカスが持ってきたお土
産も配られて、和やかな一時が過ぎ行った。

遅くまで話して食べて、少し運転して来た疲れと、ワインの酔いで、いつのまに
かアパートの中庭の木陰で寝ていた。

誰も起す者が居なかったので、日が落ちて少し肌寒くなって目が覚めた。
ルーカスも犬もみんな寝ていた。静かな一時で外の水道で口をゆすぎ顔を洗って、
駐車場に歩いて行き、運転席の後ろのベッドの下に入れて有る着替えを出して服
装を改めて、今夜の飲み会の友達に電話を入れ、挨拶して時間を確認して再会の
時間を約束していた。

そろそろ遊びながら町に出かけ様と思いアパートに寄り、ルーカスに「今夜は遅
くなるのでアパートには泊まらない」と伝えていた。

すこし暗くなり、タクシーを拾うとセンターの繁華街に繰り出た。ピザ屋に寄り
軽く二切ればかり食べて今夜のスタミナとした。カフェーに寄りコーヒーを注文
して、店の外のテーブルで景色を眺めて、側を歩いて居る歩行者をぼんやりと眺
めていたが、時間が来てタクシーを拾い、約束のバーが有る街に到着した。

港の近くの小さなバーで、船の船員達が立ち寄る事でも知られていたので、日本
船が入港した時は賑やかな時も有る様だ。タクシーから下りると港の船が停泊し
ている感じがしていた。一方通行でタクシーが入れないので、そこまで歩き出し
た道すがら、汽船の『ぼーっ』と響く汽笛が聞こえて来た。

時計を見たらまだ待ち合わせに時間には少し早い時間で、歩きながら街の様子
を見廻していた。するとタンゴの音楽が響きアコーデオンの響きが外の舗道ま
で響いてきたので中を見ると、バーの片隅で男女が絡まってタンゴを踊ってい
た。
私もぶらりと入り、カウンターでコニャックを注文して、踊りを見ていた。官
能的な女性の姿態が男に絡まり、巧みなステップで男と踊っていたが、皆はシ
ーンと二人の情熱がふきだす絡み合いを見詰めていた。

余り広くはないバーの中は、各国語が入り乱れロシア語、英語、ドイツ語、イ
タリア語など耳に飛び込んで来る言葉の数も、港の近くで雑多であった。

時計を見ると、そろそろ待ち合わせの時間となり、グイ~!と酒を飲み乾して
勘定を払い外に出た。外の舗道までタンゴの音楽が追いかけて来た。少し歩く
と今日の待ち合わせのバーが見えて来た。ドアを肩で押し開けて中に入ると薄
暗い中が、しばらく何も見えなかった。

外のネオンが輝く明るい舗道から急に薄暗いバーの中で目が慣れるまで、しば
らく入り口に立っていた。すると、奥で『いよ~!』と声がして、
『しばらくぶりーー』と友達が出てきた。ガッシリと握手して元気な再会を祝
った。

テーブルに座り、沖縄出身の二世の若い小柄な身体の女性がウイスキーを水割
りで注いでくれ、皆と乾杯して今日の飲み会の幕を開いた。
その時、私らのテーブルに若い、髪を長く伸ばした男が挨拶して割り込んで来
た。
名前は陳(チン)と名乗った。

2012年6月20日水曜日

私の還暦過去帳(258)

私には2人の姉が居ますが、その内の一人はドイツ人です。
といっても帰化した日系ドイツ人ですが、しかし、食事こと、食べ物
に関しては、まったくのドイツ人としか感じません、それもと言う
のも40年以上もドイツに住んでいるからです、結婚相手がドイツ人
で、食べる物もドイツ食が殆どだったようです。

かなり前ですが姉がドイツから訪ねて来ました。これが一騒動で
かなり姉がショック!状態でした。
これは・・・、私のワイフは毎日の食事は、全部日本食で調理して
いますので、たまにはハンバーグなども作りますが、そこは、それー!
日本人ですから日本風となります。豆腐や混ぜるひき肉が鳥肉

であったりしますので、牛肉のみのハンバーグでは有りませんので
正確にはハンバーグとは言えないかも知れませんが、しかし味は抜群
の美味しさを誇ります・・、

そこで姉が来た様子を書くと、先ず朝はコーヒーを所望していますが
残念な事に、コーヒーは飲まないので有りません、インスタントコーヒー
が少し残り物が出て来ましたが、即・・、拒否です。

あちこちと台所を探すと、旅行先で頂いてきた一人分のパックコーヒー
が出てきました。何とかそれでごまかして居たようでしたが、朝は何か
と聞きますので、私は豆乳とサツマイモを「チーンー!」としてそれが
朝食と言うと、「ぶすー!」としています。
チーズは? バターは? ハムか、サラミはないか?と来ました。

そんな物は無いと言うと、これまた「ぶすー!」として、あきれていま
すがバターは調理用に冷蔵庫の奥に有った物が出てきて一安心でした。
コーヒーが入り、「砂糖」はどこ?というお訊ねでしたが、砂糖は私の
家では35年近くも使った事が有りませんので、調理用の有機砂糖
が有るというと、今度はミルクかクリームと言う事でした。

これも残念で豆乳しか有りません、それで姉がいわく・・!
「貴方達は何を食べているのか・・・?」と言う質問と疑問でした。
まるで日本食などは関心が無い様で、これにはチョイと驚きでした。
それも仕方がない事です、ドイツの田舎町では日本食品などは高くて
材料も中々探す事も難しく、値段も高価と言う事でした。

朝は何とかそれで済みましたが、夕食の時間となり、献立が焼き魚と
カボチャの煮付けとお味噌汁、お漬物が沢庵と白菜の塩漬けでした。
今でも忘れません・・、喜ぶかと思えば、当惑しています、
「お肉は・・・!」と来ました。残念ですが「お肉は余り食べない・・」と
言うと、これも少しお冠の様子でした。

外側は日本人でも腹の中はドイツ人です。
ブルーチーズが食べたいと来ました。朝食のトーストで食べたいと言い
ますが、あんな物を朝から食べるとは、こちらも驚きでした。

翌日でした。冷蔵庫にはハムもチーズも、サラミもブルーチーズも何でも
有ります、コーヒーもクリームも買って来てあり、ソーセージも有りました。
我が家では滅多に見られない食品ばかりでした。
リンゴの皮を剥いて食べていたら、皮ごと食べるのが美味しくて、栄養が
有ると言う事でした。

それでは皮をあげるから、食べてー!と言うと、ぶすー!と来ました。
食べ方までドイツ式でした。
姉弟ですが、月とすっぽんの差が有ります、我ながら内心驚いていました。
外人さんの居候が食事をしている様でした。

姉の様子を見ていたら、46年も昔に移民船で南米まで移住していく時に、
横浜からロスまで乗船してきたイタリア人のスクーターでの世界漫遊家が、
「食事は日本食でも何でも平気で食べられる・・」と豪語していましたが、
移民船の3等船客です、朝食は味噌汁と沢庵にどんぶり飯です、佃煮が
出た事も有りますが、朝のおかず等はたかが知れています。

イタリア人は3日もせず内に、ご飯に砂糖をまぶして食べています。
沢庵などは、見ていたらまさに「これは何で有るかー!」と言うぐらいの
目で見ています。かわいそうに、お茶の時間に出る安物のミルクビスケット
を、甘ったるいミルク・コーヒーとバリバリと食べているでは有りませんか!

売店から何か酒のつまみの缶詰など買っていましたが、直ぐに食事だけは
2等食で洋食が食べられる食堂に行きました。ロスに着くまで我々の食堂で
は、イタリア人の姿は見る事は有りませんでした。

それにしても、食べ物の習慣は恐ろしいもので、慣れと慣らされた毎日の食
生活がその人間の体質まで変化させると思います。
ちなみに我が家の今夜の献立は白身の魚と鮭のパン粉を付けたフライでした
キャベツを中心にミックス刻み、味噌汁とキューリとニンジンのぬか漬け
でした。食後のお茶にお豆を甘く煮た物が少量出ました。

勿論の事に、姉が帰ったその日に、冷蔵庫から『こなん物は冷蔵庫に入れ
て置いても誰も食べないので、ゴミに出しますよー!』と言う事でポーイ!
と捨てられてしまいました。

2012年6月19日火曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで :最終回、 

私はしばらくは仕事に追われていた。だいぶ溜まった仕事をか
たずける為で、町に出かけて買物もしていた。ルーカスとルイ
スも一度訪ねて来たが、彼等も私と同じで、忙しい様だった。
そんな有る日、ベアトリスが馬で訪ねて来た。姉の結婚式の
招待状を持って来てくれた。

それから「病院から退院して来たから遊びに来て下さい」と
伝言も伝えてくれ、元気になって軽い仕事を始めたと話してい
た。結婚前夜に男達だけでのパーテイを私が主催で開いた。
ルイスもルーカスも呼んだ、ジョアン大尉も軍曹を連れて来た。
思考を凝らして、近所の若い男達が集まり、たっぷりと酒も
用意されて、大きなテーブルに山と酒の肴が積み上げられ。

昼間から焼き上げられたアサードの焼肉が櫛刺しにして並んで
いた。 楽団が賑やかな音楽を鳴らして人を呼んだ、今日は女性
禁止のパーテイで、無礼講での騒ぎで飲んで居た。
だいぶ酔いが廻った頃に約束のジプシーの踊り子が3名やって
来た。若いエキゾチックな綺麗な踊り子は会場を一度に盛りた
てた。

音楽が高らかに響き、ベリーダンスが始まった。ヘソを見せた
妖艶な姿は近所の男達も一度も見た事が無かった様だ。
私の企てが見事に当った。

激しく腰をくねらせて踊る姿はこんな田舎では滅多に見られな
いシーンで、先ず私が近くに踊って来た ジプシーの踊り子の
ヘソの下にかなりの金額を押し込んで挟んだ。

『ドーッ~』と歓声が上がり、我先に金を持って並んでいた。
踊り子も嬉しそうに腰の廻りのお札をひらひらさせて踊ってい
た。皆は喜び、興奮して、盛り上がった会場に友も感謝してく
れた。

夜遅くなって、ジプシー達が車で帰る頃、出来上がった男達が
酔いつぶれていた。私も納屋に空き箱を並べて寝ていた。
朝になって目が覚めると、すでに焚き火の廻りでコーヒーが
湧いていた。ジョアン大尉もこんな面白い独身最後のパーテイ
は初めてだと話していた。
コーヒーのカップを手に、色々な話しをしてくれた。

女のゲリラは協力的な態度と戦闘も関係なく、騙される様に
連れて来られた事で、直ぐに釈放されたそうで、ボリビアの
田舎町に帰って行った様である、ボリビアからの 越境進入者
達は特殊部隊員で、ゲリラに仲間を殺されて復讐でアルゼンチ
ン側まで追いかけて来た事が分かった。
これも内々に処理されたそうで有った。
全てが解決して今では静かな国境地帯に戻ったと話していた。

朝の水揚げのエンジンが始動はじめた。一日が動き出した。
先ずジョアン大尉と軍曹が服装を正すと、馬で帰って行った。
皆も熱いコーヒーを飲むと車やトラックターでそれぞれ帰宅
して行った。静かな朝の時間が来た。
今日は彼の農場は休みなので静かなもので有った。

私も馬を用意すると帰り支度をして、彼と握手した。彼の手
が感謝で震えていた。
ルーカスとルイスも私の後に握手すると、朝日の輝く道を歩き
出した。ラバと馬がいななき、何事も無いような足取りで歩い
ていた。 
私は馬で歩きながら日本に居た学生時代を思い出していた。
60年安保に揺れ動いていた時代で、アジ演説で運動家が学内
の騒然とした中で演説と繰り返していたが、まるで革命前夜の
ごとき自己の弁論に酔っていた運動家達で有ったが、その様子
を思い出していた。

勤労学生としてデモ隊の国会突入の時は、工場の残業で遅くな
り、夜遅くの帰り道に、樺美智子と言う女性が死亡したことを
知った事が有る。
郷里の大牟田市に帰省しても、三井炭鉱の争議で街中がデモ隊
と機動隊の渦がうごめいた居た。その様な社会主義の波の唸り
がこんな南米の奥地まで来ていることを実感した日々であった。

今の生活は土と言う生活の場で、己の命を燃焼させている充実
感が有る、主義も主張も理念の論理も自然相手ではタダの念仏
と思い知って身体に刻んで、叩き込まれた、そしてそれを否応
でも体の全てで認識したと感じていた。
空はあくまで青く、高く、澄み渡り輝く太陽の下で生きる喜び
を感じて歩いて行った。

終り。

2012年6月18日月曜日

私の還暦過去帳(257)


今日は最近当地で話題になっているお話ですが・・、

私が住んでいます住宅から10分ほど山手に車を走らせた所に、
クリスタル・ランチと言う高級住宅地が有ります。
そこにはゲートが有って、中に住んでいる人しか入る事は出来
ませんが、なんとそこで高級コールガールの売春組織の摘発が
有りました。

普通の民家の住宅を使用して居ますが、中はその用途に相応し
た作りとなっている部屋割りの設計がなされていたと新聞に出
ていました。その売春組織の発見は、ある男の死が発端でした。
その男性が交通事故で急死して、警察が身元調査で調べたら、
多額の現金や、売春に関連する用品が見つかり、警察が内定し
て居たようです。

高級住宅での売春などと言う商売も、インターネットでの広告
が出ていたようです。18~22歳ぐらいの若くて綺麗な女性
がなんと・・、一時間300ドルと言う金額で商売されていた
様で、そのお客も弁護士や医者、高所得者などの裕福層の男性
達が得意先だったようです。警察が交通事故死した男性の記録
から、お客とその商売をする女性の送り迎えをしていた様で警

察が内定調査をしている時に、売春として使われていた家のゴ
ミ缶は台所ゴミは無くて、缶にはゴム製品やちり紙などが大量
に有ったから、逃れられない証拠として逮捕となったようです。
それにしても驚いた事です。しかし隣町ではアジア系の人間が
経営する人身売買がらみのマッサージ・パーラーで、かなり高

齢の女性達がマッサージを隠れみのとして、これも売春して居
たようです。 これが2度も最近に摘発されて話題となって居
ます、アジアから特に東南アジアからの女性が関係して居た様
で、オーナーがアジア系でしたので、日本人が居るかと新聞を
見ましたが、日系の名前は有りませんでした。

東海岸のワシントンでも高級コールガールのスキャンダルが議
員達や、高級官僚、医者なども含めてかなりの騒動となってい
ます。いやはやアメリカと言うけれども、その道だけは廃る事
無く、どこかで誰かが厄介になり、儲けていると思いますが、
全てが上流社会の恥部と感じます。
この件で私が思い出す話が有ります・・・、

私が1976年にブラジルのサンパウロからバスでアルゼンチ
ンの首都ブエノスまでバスで旅行した時でした。サンパウロか
らレジストロの日本人が開いたお茶の里の友人を訪問して、そ
れからリオグランデ・ド・スールの同期生を訪ねての旅でした。

バスでの長旅で疲れて居ましたが、どこかのかなり大きな町に
来た時に雨が降り出して、事故でも起きたか渋滞が酷く、国道
の混雑にバスも動く事が出来ませんでした、私はぼんやりと外
の雨景色を見ていました。まだ郊外で家もまばらに有るぐらい
で、並木の下で雨宿りをしている人影を見ました。

バスの中で隣に座っていた青年が教えてくれたのですが、人影
の女性は娼婦だと言っていました。国道の長距離トラックや車
で旅する人を相手にしている女性達と言っていました。
余り若くも無い女性でした。渋滞でまったく動かないバスは、
しばらく同じ位置で停車していましたが、私がフト気が付くと

残っている女性は一人になっていました。雨脚も速くなり、か
なり本降りとなって来て、バスの車掌はずぶぬれの女性を手招
きしてバスの中に入れました。並木から小走りで入ってきた女
性はポタポタを雫を髪から落として居ましたが、誰かがタオル
を投げてよこして、それで拭いていました。彼女の香水の匂い
がして、何か華やいだ雰囲気となり誰かが『この雨だ・・、町
の中まで乗って行きなさい』と誘っていました。

誰れかが開けたワインが、紙コップで彼女に渡され、見ている
と両手でコップを持ち、温まる様にゆっくりと飲んでいました。
バスもノロノロと動いて外が雨なのにバスの中は急に賑やかに
なり、ポルトガル語とスペイン語が飛び交い、和やかな雰囲気
でゆっくりと走っていました。

街中にバスが入り、国道から外れて急にスピードを上げてバス
ターミナルまで走り停車しました。彼女は運転手と車掌に軽く
キスをして感謝を示していました。乗客に手を上げて挨拶して
ターミナルの人込みに消えて行きましたが、彼女の雨空を吹き
飛ばす様な笑顔と親しみが湧く態度は、彼女が降りて行った後
もしばらくは目に残っていました。そして私の心には,
『彼女はなぜ、あんな仕事を選んだのか・・』と言う疑問も湧
いていました。

2012年6月17日日曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(21)

畑が近くなると犬達が耳をそばだてて音を聞いていた。
河向こうの岸辺で、水揚げエンジンの音が規則的に聞えていた。
ジャングルの外れに来ると、そこには昔の製材所の跡が有った。
今は何も残ってはいないが、昔の森林からの切出しが盛んな時代

はここでも製材されて、トロッコで町の駅まで運ばれていた。
今ではそれも取り外され何も残ってはいない。昔は牛に引かれた
丸太がジャングルから切出され、遠くはヨーロッパまで送られて
いた。1890年代の鉄道全盛を迎える時代で鉄道の枕木として

鉄木などの大量の切出しが行なわれて、賑やかな時代があった。
今では当時をしのぶ建物はレンガ作りの売店であつた建物と倉庫
が残っていた。そこに新しく山に植林された木と、かなり大きく
育った鉄木の密伐採を監視する為に、管理人が住んでいた。

昔から製材所で仕事をしていたインジオで、この地方を知り尽く
した老人であった。彼は歳を取り管理人の仕事に余生を掛けて
居た様だ、少し若いワイフと仲良く2匹の犬と暮らしていた。
訪ねると必ずマテ茶を出してくれ、ナマズの干物などを土産に

持たしてくれた。私もトラックで町に出る時は良く乗せたり、
頼まれて買物をして来てやった。お互いこの様なジャングル
での共同体の生活では、ポッリ、ポッリとまばらにジャングルの
中に住んでいる社会では全部友達で、飼っている犬達も同じで
あった。

ジャングルが切れた所が見えて来た。犬達がそわそわして喜んで
管理人が住んでいる家を見ていた。遠くで犬が吼える声がして
こちらの犬達も応えていたが、ラバもいなないて嬉しそうにして
尻尾を振っていた。管理人が家の外に出てきて我々を歓迎して

迎えてくれ、奥さんも「マテ茶を飲んで下さい」と早速に木陰の
涼しい場所に場所を作り、訪ねて来た犬達にも乾し肉を与えて
水を用意していた。犬達は冷たい井戸水をバケツに貰うと、廻り
で仲良く飲んでいた。隊列の警備の兵士達もラバの荷物を降ろして

休憩に入り、自分達もマテ茶を冷たい水で飲み回していた。
ジョアン大尉も「一時間の小休止とする」と言うと、ラバ達に
水を与え、飼料を袋から出して与えて休ましていた。木陰の横に
ライフルが組んで立てられ、その横でラバが気持ち良さそうに

水を飲んでいた。全てが平和な風景で有ったが、このお茶の
休憩が終ると別々に別れて帰途に付く、お別れの時間でも有った。
私はルーカスとルイスを物陰に呼んで、今回のお礼を支払った。
彼等は多めに貰った日当に感謝して、喜んでいた。

そして管理人から分けてもらったタバコと菓子を兵士達に配った。
彼等は喜んで感謝の言葉を私に言ってくれた。管理人のワイフが
チーズパンを焼いて持って来た。美味しい香ばしい焼きたての
香りは食欲をそそって、休憩時間が一層に楽しいものになった。

一番先に兵士達が荷作りすると、最後のあと僅かな駐屯地までの
行軍の準備を済ませてしまった。我々はジョアン大尉と固く握手
して再会を約し、兵士達とも手を振って別れの挨拶とした。
隊列が動き出して、微かな砂埃が上がった。ラバがいななき
ラバも喜びの表情が感じられた。

直ぐに隊列は木立の中に消えて行った。我々も帰宅の時間であつた
が、カウアン氏から呼ばれると、包みが開かれ中からライフルと
散弾銃が出てきた。彼は「これはゲリラが隠していた中に有った」
と言って「押収品の中から内緒で大尉から貰った」と言った。

軍用ライフルではないので、どうせ廃棄さえれるのであるから、
旧式な銃は不用だと言っていた。しかしインジオにすれば貴重な
銃であった。ルーカスに散弾銃、ライフルをルイスが貰った。
彼等は喜んで、旧式な銃であったが財産である。彼等は喜んで
それを持って帰宅に付いた。

カウアン氏は私には中々手に入らない拳銃の弾を2箱渡して呉
れた。ジョアン大尉の気配りに感謝していた。何も話さず淡々と
若い兵士達を連れて隊列の先頭を歩いて行った大尉を思い出して
いた。ベアトリスが私に「今度の姉の結婚式には是非来て下さい」

と誘ってくれ、私のほっぺたに軽くキスをすると、父親とラバを
連れて歩き出した。犬も嬉しそうに後を付いて消えて行き後は
私だけが残った。私はカービン・ライフルから弾倉を抜くと、
カバンにしまい、管理人にお礼を言うと、ボコボコに乾いた

道を歩き出した。道の両側にトマトの畑が広がり、遠くで水揚げ
ポンプの音が響いていた。ふと空を見上げると青空が何事も無
かった様に広がっていた。

次回に総編を書いて終わりに致します。

2012年6月16日土曜日

私の還暦過去帳(256)

かれこれ50年も前になります、郷里の田舎から出て来
て農大に入学して 用賀農場での実習生活も慣れてきた頃
でした。教官がリヤカーを持ち出して来て、「これから
販売実習をする・・」と教えられました。
噂の作物販売実習でした。若い学生ですからリヤカーを
引いた事もない連中が殆どでしたが、そこは・・それー!

学生ですから、特に農大の昔のバンカラ学生でしたので
慣れた感じで、行動開始でした。
まず、教官が「助手の方から良く説明を聞いてから出発
する様に」と教えられ、どんな事かと注意していました。

当時は野菜の栽培など多種に渡っていましたので、種類も
沢山有りまして、私が覚えているだけで、『大根、白菜、
ニンジン、キャベツ、ほうれん草、小松菜、ジャガイモ』
などの取れ立ての野菜でした。

そこで先ず・・、出発の前に助手の方が、『このリヤカー
での野菜の売り上げは、350円は持って帰れ』と指示が
ありまして、半端の野菜も捨てないで積み込みました。
これが通称、我々学生でも分かる『撒き餌ー!』です。

5~6名で一班に組となって出発です・・、

リヤカーを引く者、押す者、声を出して客集めする者、
金を集める係り、団地などで世話役に連絡に走る者とそれ
ぞれの分担で行動します。

経堂駅の周辺には会社の社宅や2~3棟の団地スタイルの
会社の従業員住宅が有りました。そこでまとめて販売でき
るので売る方も便利で、時間的にも節約出来ます。

そんなことで慣れた道をリヤカーを押してゾロゾロと歩いて
いると、おばさん連中が『ちょいとー!学生さん・・美味し
そうなカブじゃあ有りませんか?』とか・・何とかで・・、
ごっそりと売れてしまう事も有りました。

一度、余り天気が良くない日でしたが、銀行社宅の看板
が出ている団地スタイルの場所でした。大声で学生が叫ぶ
と直ぐに買い物カゴと財布を持って若奥様達が出てきました。
当時は今からすると結婚する年齢も若く、まだ20歳ばかり
の若い女性も居ました。

私が住んでいた九州の田舎では当時、25歳過ぎて結婚して
居ないと、要らん勘繰りを受けて『どこか結婚出来ない理由
でもあるのか・・・?』と噂されるぐらいでした。
そんなことで、私達が販売実習に行った日に、その社宅から
まさに結婚したばかりと感じる若奥様が先輩の奥様連中に
連れられて出てきました。

ドキーン!と感じる、若くて綺麗で、言葉は京言葉で、まさ
に上品と、育ちの良さが感じられる女性でした。
学生達は呆然としてその女性が買うのを見ていました。

学生達はゴム長の靴をべたべたと鳴らして歩いていますが、
彼女は和服に白い割烹着を付けて、似合いの下駄を履いて
居ました。私はその最初に見た印象が強烈で今でも目に
浮かびます。清楚でしとやかな感じを今でも思い出すくらい
です。確か・・、カブを2束買ってくれたと思います。

販売実習であちこち歩いた中で、今でも印象に残る女性で
した。他班の学生連中では、『ズーズ・・しい野郎が若奥さん
の手を、お釣を渡すふりをして握って来た。』と聞いた事が
有ります。私などは田舎カッペ!の純情な頃で、とてもそんな
大それた事は出来ませんでした。

しかし、しばらくして経堂駅近くに買い物に出た時に、その方
と道ですれ違って、振り返って見たくらいでした。
その内に彼女が妊婦服を着て、ご主人と仲良く歩く姿も見ま
したが、学制服のゴム長姿で下を向いてすれ違った覚えが有り
ます、彼女がすっかりと艶かしく女の気品を出して居たのが感
じられたからかもしれません。

下宿生活も勤労学生では大変で、住み込み書生として経堂駅
近くの下宿から離れる前に友達の下宿を訪ねた時、その社宅
のベランダに真っ白なオムツが干してあるのを見ました。
今では遠い昔の思い出となって居ます。

2012年6月14日木曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(20)



朝早く、オームの群れの鳴声で目が覚めた。
沢山のオームが河岸に集まり、水を飲みに来ていた。集団で群れ
になって住んで居るオーム達の数にも驚いていた。
『起床~!』と軍曹が怒鳴る声が響くと、昨日と同じ様にテント
が騒がしくなり、若い兵士達が飛び起きて、一斉に行動を開始

していた。きびきびした動作でアッと言う間にテントはかたずけられ
朝食の用意が始まり、私達は河岸で顔を洗い、身体を拭いて汗臭
い下着を交換して、一日の用意をしていた。
ラバ達が朝の飼料を貰い、トウモロコシの実をガリガリと噛んでいる
音が響いていた。今日でこの行軍も終りで、追跡してゲリラの結末

も自分の目で確認して、納得して今日を迎えた事に、少し心が
穏やかになっていた。我々のグループは何も問題も無く、ロバが
一頭死んだけれど、そんな事は何も心配する事は無かった。
ベアトリスは出発の時、威勢が良かったが、父親も追いかけて来て
激しい銃撃戦を見て、今はおとなしくなっていた。

今日は私が持っていたインスタント、コーヒーを、瓶に有った全部
を薬缶に入れて、コーヒーとした。昨日作ったパンが配られ、パン
に肉の残りを挟んで、生の玉ねぎを切って入れて皆が食べていた。
コーヒーに缶ミルクをたっぷりと入れて飲んでいたが、こんな所
で飲むコーヒーとしては高級品であった。

若い兵士達は食後の武器の手入れが済むと、ラバを連れて来て
荷物を載せていた。兵士達が整列して軍曹の号令にジョアン大尉
が敬礼で応え、行軍の開始が告げられた。隊列が動き出すと、その
前に斥候の偵察がライフルを持って早足で消えて行った。
小休止を挟んで、黙々と行軍が進んで行った。

私達も安心して何も警戒心も無く歩いていた。軍の戦闘小部隊と
歩く事はやはり心強い感じで、ゲリラなどは何も心配無く付いて
歩いていた。日が高く輝き、お昼の大休止となり、河原の木陰
に皆が腰を下ろして、ラバから荷物が降ろされ、お昼の炊飯が
始まり、その間兵士達が魚釣りを始めて騒いでいた。

かなり流れが速い河であったが、鯉に似た魚が釣り上げられ
お昼のランチにスープにされてしまった。缶詰のフルーツが
出され、桃の甘い切り身がとろける様で、疲れた身体に元気が
湧いてきた。ラバに積んでいた予定の食料も殆ど終りになり、
作戦の終了が今日で終りになるので、丁度良い行程であった。

日が少し蔭げて隊列が動き出した。人間もラバも足取りが軽か
った。少し歩いて、兵士達は駐屯地に河を渡って近道して
帰る事になり、ラバの隊列と護衛の兵士が普通の道を歩いて
帰隊する事になった。小休止を挟んで、渡河が訓練として行なわ
れ、殆どの兵士達がロープを張られた河をライフルを肩に荷物
を背中に背負って渡って行った。我々は手を振って送りだし、

別れを惜しんだ。軍曹に先導された若い兵士達がジャングルに
消えて行った。我々はジョアン大尉のもとに、ラバの隊列と普通の
小道を歩き出していた。そろそろ農場の畑が遠くに見える様に
なって来た。これから我々と、ジョアン大尉の部隊と、ルーカスと
ルイスの3組が別々に別れる道が近くなって来た。追跡の終りが
近付いて来たのである。
 では次回をお楽しみに、

2012年6月13日水曜日

私の還暦過去帳(255)

『アメリカの移民法改正の波紋』

アメリカが移民法の改正に動き出した。
これはアメリカ国内だけで推定で、1200万人と言う不法移民の
最終的な解決を計ることを目標としているが、これがアメリカ国会
の両院での可決成立が望まれている。

今回の改正移民法の法案提出は米上院の超党派での提案が注目され
ているが、不法移民の大多数がヒスパニック系でのアメリカの人口
に対する比率も州により、22%とから28%までの幅で最大人口
比率を占めるように成った。 これは彼等の世論と政治的発言力を
無視できない勢力となったことを、今般の世相が反映されている。

現在ではアメリカの底辺労働力、季節労働力、短期労働者としての
必要かつ重要な労働者としての地位を無視する事が出来なくなった
事は、州政府や連邦政府も多くの議員やその関連する役職に居る
公務員と専門家達が認める事である。時代は変わり、変化する社会
に対応できないと、アメリカ国内の活力の低下、産業部門での就労

人口の不足と、熟練労働者の減少ともなってアメリカの相対的な衰退
の原因となりかねない、アメリカはアメリカ・インデアンの原住民と
移民とアフリカから連れて来られた奴隷移住者とで成り立っているが、
今ではヒスパニック系が一番の大きな移民社会を形成している、また
彼等の人口増加も顕著である。白人社会の倍の率で出生率を誇る彼ら

の生活環境はアメリカでは、英語の次にスペイン語を常用語として認
めていると感じる状況が見られる。それは誰もが無視できない社会現
象として定着して来た。彼等はそれを当然の如くアメリカで感じて、
多くのヒスパニックが言う事は、ロサンゼルスはメキシコの第2の首
都だと・・・、アジア人種も限定された地域ではヒスパニック系を蹴

散らす勢いの場所も散在している、日本人の視点からすると移民が国
を創り、育てて、維持している社会は完全理解する事は無理と感じま
す。いまだに多くの諸問題を抱えて解決の道が移民政策には遠い現状
が続いているが、はたしてこれで日本の少子化する、高齢化社会を維
持して繁栄させる事が可能か?他国に住んで、日本との比較を対象物

を合い照らして観察すると、それは政治の貧困としか感じられない、
日本の現在の移民社会も南米からの一世から三世まで里帰り的な出稼
ぎ労働を柱にしてバブル経済に膨らんだ日本経済のカンフル剤として
緊急に産業界の要請で開かれた道が近年では年間1万人近い日本定住
化の現象となり、その日系外国人に対しての基本政策は見られない。

現在の不法滞在者が日本に正式に滞在を認めて貰う事は、家族で入国
管理局に出頭し、滞在を正式に申請して、入国管理官の審査を受けて、
法務大臣の特別残留許可を貰い、日本での正式滞在許可を受けると言
う、根気のいるストレスに満ちた長い道程を歩かなければならない。
しかし残留を不許可となった家族や、個人は出頭した入国管理局での、
その場での収監となる危険性も多分に有る。その基準となる指針は現
在は日本には存在しないと言われている。

収監されても、その収監された本人に収監の理由さえ告げる事は法務
局からは無い。また法務官僚がそれをNHKのTVでも明言している。

『なぜ特別滞在許可申請が却下されたかと言う理由を、明確に口頭で、
文書で法務局はなされないか、日本の憲法にも抵触する様な事が現実に
起きている』

特別滞在許可は法務大臣の特例事項で、大臣の采慮となると憲法で決め、
記載され、今まで多くの事例を処理して来た。しかし時代は変わり、
時代は動き、現代社会は国際化した他国との連動した動きでの連帯国際
社会を築いているが、日本政府の難民対策を見ても、受け入れ難民には
資金は出すが、難民受け入れの実際行動は消極的で、申し訳程度の人員
を受け入れ、適正事実としている、由々しき事である。アメリカでは新
しい町が出来るほどにべトナム難民やアフガニスタン難民を受け入れ、
対処して来ている。

戦前の官僚が口にしてはばからなかった『棄民政策』、戦後の『余剰人
口対策』の流れを汲む政策としか移民事情を解釈していないと感じる。

日本も超党派での日本の移民法改正を考える時期に来たと感じるのであ
る。またそれをしなくてはならない時期であると認識すべきである。
もはや都会での人口の12人に一人は外国人となる情勢は移民社会を
目で見て感じられる現象として、政府と官僚の現実的な対応を有識者と
の助言を持って公平に差別の無い、国際社会からも歓迎される、これか
らの百年の道行きを定めて貰いたいと思うので有ります。

2012年6月12日火曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(19)

しばらく緊張が兵士達の中に張り詰めていた。
ジョアン大尉のハンドトーキーの呼び出しが鳴り、何か話して
いたが、突然笑い声を出すと、『味方の大勝利~!野豚を2頭
射殺して捕獲した。』一斉に兵士達が歓声を上げて喜んだ。

それからがまた、ひと騒動ーー!降ろした荷物を、ラバを呼び
戻して積みなおし、その現場まで皆が急ぎ足で行くと、すでに
解体が始まっていた。60キロは有る、良く肥えた野豚であった。
河原の僅かな空き地に部隊が止り、お昼の休憩となった。

ラバは荷物が下ろされ、河岸の青草が与えられ、河の流木を集め
て、焚き火が起され、大鍋が架けられて煮込みが作られていた。
野豚はガーリックを潰した中にワイン酢を混ぜて、岩塩を潰して
肉にすり込み、手際良く慣れた手つきでガーリックのソースを

肉にまぶして作業が済んでしまった。ガジエッタのパンを入れて
来た袋で包むと、今夜の焼肉の準備が出来た。肉はしばらく寝か
すと、もっと美味しくなるそうで、皆は今夜の夕食を楽しみに
ランチを済ませてしまった。ルーカスがマンジョーカの芋を

から揚げして、蜂蜜を塗ると皆にお菓子代わりに配っていた。
僅かな量であったが、甘い蜜の味で元気が湧いてきた。
兵士達も甘い物が口に出来た事で、喜んでいた。暑い日中を少し
長く休んで、見張りの兵士を除いて、木陰で寝転ぶ者、うたた寝

する者、犬と遊んでいる者、ゆっくりと過ごしていた。
日が少し落ちて、行軍は開始されて、野豚がラバの背中で揺れて
いた。プーンとガーリックとお酢の匂いが漂い、今夜の焼肉が
待たれた。皆は元気一杯に歩いて、少し早めに野営地を決め、

テントを張って、河岸に水セリを捜しに5名ほどが出かけて行った。
焚き火が起されて豚が火にかけられ、ジットリと焼かれて行った。
脂が火に落ちて、香ばしい香りが漂い、犬達がジッと見詰めて
いるのが分った。犬達だけではなかった。兵士達も遠巻きに座ると
焼けるのをジッと待っていた。

そこに水セリを抱えた兵士達が戻って来た。川岸で洗うと、綺麗な
岩の上に積み重ねて、セリがサラダ代りに用意された。
オリーブ、オイルにガーリックの潰した物が混ぜられ、辛い胡椒が
刻んで入れられ、全ての準備が整った。パンもインジオ風のパン

が焼かれて、丸い平たいパンが鍋に積み上げられた。すべての
準備が済むと、肉が大きなブロックに切り分けられ、木の枝に
刺すと、兵士達が両側からナイフを持って好きなだけ切り取り、
パンを皿に乗せ、水セリを掴むと、オリーブ、オイルに葉を

漬して、バリバリと食べていた。皆の顔がほころび、嬉しそうに
肉をほうばって食べていた。私もまけずに食べていたが、犬達も
おこぼれが分けられて、骨までガリガリかじって食べていた。
昨日の戦闘などはどこかえ忘れて、ひたすらかぶり付いて肉を食
べていた。

幸せな一時をルーカスや、ルイス、ベアトリスの父親、カウアン
氏と仲良く世話話をしながら食べていた。ベアトリスも美味しい
と沢山食べていたが、2頭の野豚は全部は食べきれなかった。
そこにマタッコ族のインジオの狩猟者が肉の焼ける匂いに誘われ

訊ねて来た。知り合いのインジオで、ジョアン大尉に挨拶して
挨拶代わりに、カチュリンと言う、焼酎を二本差し出した。
75度も有るアルコールの強い焼酎で、早速に3倍に冷たい水
で薄められ、レモンを切って入れると、各自の携帯のコップに

少しずつ注ぎ回され、皆はインジオの狩猟者に礼を言って飲んで
いた。私も少し注いでもらい飲んでいたが、肉に合う酒であった。
その夜は久しぶりに酔い、美味しい肉を食べ、満足して河原に
寝転び澄んだ星空を見上げていたが、いつのまにかテントにもぐ
り込んで寝ていた。
 では次回をお楽しみに、

2012年6月11日月曜日

私の還暦過去帳(254)


私が鉄木を見たのは小学生の頃に学校から見学に行った大牟田市の
三池港に有ります、干満の潮止めの関として作られた水門の素材の
鉄木でした。水門を作るのでわざわざ南米から輸入したと案内の係
りが話していました。百年も水中でも腐らず、丈夫で長持ちするか
らだと聞きました。

子供心でもその話を聞いて、南米には鉄木と言う言う様な
「なんてすげー!硬い木があるものか・・、」と思っていました。
私が移住して南米のパラグワイやアルゼンチン北部のジャングル
地帯で、ジャングルの山がピンクに変わるほど鉄木の花が咲いて
居るのを見て驚いた事が有ります。

アルゼンチンの北部ではインジオ達が『ラパチョーとケブラ・ア
チャー』と話していました。『斧が折れる木』と言う意味だと教え
られて、驚いていました。インジオの古老が話してくれたのでしたが、
鉄道の枕木として橋梁の素材として、かなりの量がヨーロッパに送ら
れたと話していました。1910年頃からイギリス資本の鉄道が敷設

され沿線の車やトロッコ、馬車などが容易に入れる地域は簡単に伐採
し尽されて殆どの鉄木が無くなったと話していました。インジオ達が
森林伐採労務者として仕事に駆りだされたと言っていましたが、それ
は『コカの葉』を使い、昔のインカ時代の様に賃金としてコカの葉が
使われた様でした。大英帝国時代にインドで栽培されたアヘンでアジ
アと中国を経済侵略した英国の知恵と感じました。

しかし私が現地のサルタ州で仕事をしていた農場で家を建設する時に
土台も使わず、いきなり地面に2mぐらいの深さに40cmぐらいの
大きさの鉄木を差込み、主要な柱はセメントを打ち、他は土にそのま
ま埋めていました。そこでも百年は腐らないと言っていました。
何しろ頑丈でした。屋根は椰子の幹を真中で割って、竹の様に中をく
り抜いてそれを屋根に載せていました。これも百年も腐らないと聞き

ましたが、一度、使って5年ほど経過した椰子の幹の屋根材料を買っ
た事が有りますが、殆ど痛んでは居ませんでした。それには驚きでし
たが、現地人が保障するぐらいですから、中古でもかなりの値打ちが
ある事が分かりました。壁は日干しレンガを使い、まるで土蔵作りの
家でしたが、真夏の酷暑の時期でも家の中はひんやりとしていました。

土間のたたきに水を撒いて、窓を閉めて家の外は40度以上でも中が
ひんやりとして昼寝が出来たのでしたから、これも生活の知恵と感じ
ます。鉄木を切り出すのにインジオ達が鉄木の根の部分に焚き火をし
て、夕方そのままにして帰り、翌日には燃えて鉄木が倒れていました。
インジオ達が周りのジャングルに火が燃え移らない様にして、焚き火
を鉄木に細工して倒す技術には驚いていつも見ていました。そして

鉄木の木片を削り、弓矢で使う矢じりとしていたのにも驚きました。
一度見た事が有りますが野豚の胴を『ぶすりー!』と矢が突き抜けて
いたのには、これも驚いた一つでした。

2012年6月10日日曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(18)

単調な行軍であった。
ラバが時々いななくだけで、皆は黙って歩いていた。
時々、鳥が朝の冷たさの残るジャングルに鳴声を響かせていた。
オウムの群れが声高く鳴きながら、河の縁に群れて水を飲んでい
たが、後はシーンと静かなジャングルの木々の緑が気持ち良かった。

時々、斥候が報告してくる、ハンドトーキーの声が響いていた。
若い兵士達は隊列を乱す事無く、黙々と歩いていたが、短い
小休止にはどっかりと座り込み、水筒の水を飲み回して、ラバ
にも水を与えていた。河の近くなので、あちこちに水場が有り
綺麗な水が流れていた。

ルーカスが河の岸辺の肥沃な土地のほんの僅かな場所に、植え
付けられている、マンジーカの芋を掘っていたが、昼のランチ
に使うと言っていた。所有者は誰のでもなく掘っただけ、また
茎を切って植えつけると、そこからまた芋が伸びて誰か欲しい
人が利用すると言う、原始共済のシステムであった。
河岸にはかなり多く、その様な畑があると言っていた。

掘り取った芋をラバの背中に乗せて歩き出した。その時、犬が
立ち止まり、聞き耳を立てて様子をうかがっていた瞬間、パーン
と銃声が響き、一瞬緊張が行軍している隊列に走った。
もう一発、パーンと響いて静かになった。隊列は止り、ライフル
を構えた兵士達が散開して、機関銃がラバから降ろされると、

アッと言う間に組みたてられ、百発入りの弾薬箱を両手にした
兵士が大木の陰に隠れ、軍曹が自動小銃を構えて、四名の精悍
な若い兵士を連れると、ジャングルに走り込んで行った。
私達は岩陰に隠れていた。指揮官のジョアン大尉が手で『動くな、
隠れていろーー』と合図して、前方を双眼鏡で覗いていた。

銃声はかなり近い場所で有ったので、緊張が兵士達に張り詰め、
ライフルを構えて、中には着剣している兵士も居た。
マチーエテと呼ばれる山刀を鞘から抜いて、側に置いている兵士
もいて、ジャングル戦の接近戦を想定している感じであった。
ラバ達は後方に移動させられ、その荷物を護衛する兵士もラバ
と共に、下がって行った。
 では次回をお楽しみに、

2012年6月9日土曜日

私の還暦過去帳(253)


アメリカでは夏に意外と多く目にする事は、『刺青』です。
Tシャツと半ズボンでの生活が始まりましたので、嫌でも目にする
事が有ります。特に若い、どちらかと言うと肩怒らした若者達が
自分の自己をアッピールする素材として肌に表していると感じる
刺青が有ります。

アメリカでは軍隊での新規の過激な刺青は出来なくなりました。
首周りや額に異様な模様と文字で過激な絵柄での刺青です。
見ただけで、かなりのショックと異様さが有ります。
日本ではめったに見られない刺青ですが、アメリカでは時々、見る
事が有ります。多くは独特のヘビーメタル・ロックなどが素材です。

アメリカ人でもユダヤ系の若者が全身に日本のヤクザが彫る様な
桜にボタンの花柄に、竜の天昇りの絵柄が身体を巻いている、
凄まじい、派手な絵柄の刺青を見た事が有ります。
私の素直な感想として『ショックー!』と、これどうなっているの?
と言う疑問でした。誰か日本人の彫師が入れたかと思う刺青でした。

しかし、アメリカではどこでも機械彫りの刺青屋が有ります。一度
ハワイで若いアメリカ人の、本土から来た観光客の女性が刺青屋
を探していました。まるでハワイに来た記念に、肌に何か残そうと考
えいるような安易な話ぶりでした。ワイキキ・ビーチでのビキニ水着
に、見え、見え・・・!の刺青は刺激的です。

ぽちゃー!と膨らんだヒップの真中に赤バラの刺青などは、ちょい!
年寄りにも刺激的な感じが致します。それにしても日本では感じられ
無いほどの多さで見られる事は、日本では刺青がヤーさんの専売
特許と言う感じで、一目見られているからと思います。日本では腕
などに刺青をしていたら就職などが困ると思います。それにしても

アメリカでは小学校での補助教員がこれまた凄い感じで、鼻輪に耳
にイヤリングを無数挿して、指輪を10個ばかり指の全部にはめている
女性などが居るという事ですから、これまた驚きの世界です。勿論に
刺青などもチラチラと見える様ですから、素裸したら、満艦飾に刺青が
全身くまなく彫られているかもしれません。これまたアメリカでは個人

の自由と言う事ですから、他人はとやかく言う事は出来ません。しかし、
ワイフが学校の公務員でパートの仕事をしていますが、アフガニスタン
から移民として来た子供が胸に綺麗なシールでお花の模様を入れて
いると思っていたら、なんと・・、なんと本物の刺青と言う事でした。

ワイフもびっくりして話していましたが、他の子供にも同じ様な刺青を
入れている子供が居るそうです。もしも日本でしたら、どえらい事にな
ると思います。それだけアメリカが自由と言う事かもしれませんが、そ
の自由の気持ちで彫った刺青も消したい人も結構居るらしくて、それを
今流行のレザーでの簡単な手術で、消す事が出来ると言う事で、専門の
医者が宣伝までして、刺青を消す事をビジネスとしている様です。

2012年6月7日木曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで (17)

朝は急激な輝きとなってジャングルの隙間から太陽の輝きを
振りまいていた。河の近くの青草の有る場所に繋がれている
ラバ達が朝の気配でいなないて、こちらを見ていた。
軍曹が起きて来て、彼も熱いマテ茶を飲み始めて、一日の行動
の予定を立てて居るようで有った。

彼はお茶を飲み終えると、一言、『起床~!』と怒鳴った。
テントの中が急に騒がしくなり、兵士達が飛び起きて来た。
テキパキと動く兵士達がアッと言う間にテントをたたみ、
それぞれの分担された任務をこなしていた。
ジョアン大尉はマテウスと娘のベアトリスを囲んで何か話して
居たが、どうやら話しは決まった様であった。

炊事の係が朝食の用意を始めて、何か美味しい匂いがして来た。
ベーコンを焼いていた。マテコシードのお茶が入り、日保ちの
するガジエッタと呼ばれるパンが配られ、それぞれに集まった
兵士達がシートの廻りに座って食事となった。
乾燥フルーツの保存食もそれぞれ配られ、朝の賑やかな一時が
過ぎていった。

食後、各自が武器の手入れをすると、かたずけが始まり荷作りが
始まった、ラバが連れてこられ、順次に荷物が積まれ、朝の出発
の準備が整い、兵士達が整列して命令を待ったいた。

ジョアン大尉は整列した兵士達に号令を掛けて、白木の墓標に
向かってライフルを捧げて黙祷した。
軍曹がライフル構え、弔いの銃を撃った。『パーン!』と乾いた
連続した音がジャングルに、こだまして消えて行った。

ラバが驚いていななき、それが出発の号令となった様だ。
軽くなった積荷でラバ達も足取りが軽く感じられ、兵士とラバの
隊列が動き出した。先発に斥候が早足で駆ける様にライフルのみ
持って警戒の為に先に出発して行った。
私達は兵士達の後ろを荷物をラバに乗せて付いて行った。

太陽は輝き、自然のサイクルは寸刻の狂いもなく動いて、一日の
幕が開いた。道も比較的良くて、昔はこの小道を多くの森林伐採
の労務者が行き来して、牛に引かれた木材が通り過ぎて行ったと
思った。まだジャングルの木々の冷気が漂っていた。
昨日の戦闘場面が歩きながら脳裡のかすめ、思い出していた。
 では次回をお楽しみに、

2012年6月6日水曜日

私の還暦過去帳(252)

戦後、私の父が三井三池炭鉱に職員として働いていましたので、
それと、実家の家が戦災にも遭わずに大牟田市に残っていました
のでそこで外地から引き上げて来て育ちました。

炭住街と呼ばれる、社宅が軒を連ね、その社宅の中には大きな
会社経営の銭湯までありました。近所には売店も有り、配給切符
で何でも買う事が出来ました。
私の小学校時代、中学時代は仲間の殆どが炭住街に住んでいた
友人達でした。訪ねて行き、プールの様に大きな銭湯の湯船で遊ん
で泳いでいました。

しかし、1959年から60年代の起きた大争議は大牟田に住んで
いたので、一部始終を見ました。労働者が無期限ストに突入して、
会社がロックアウトと組合員の坑内立ち入り禁止でこれに対抗した
財界が三井鉱山を全面的に支援した一方、日本労働組合総評議会
(総評)は三池労組を全面的に支援したため、三井三池労組は
「総資本対総労働の対決」などと呼ばれ、沢山の大学生の争議応
援者が各地から来ていました。

1960年に組合分裂が起きて、第2組合が誕生した大牟田市民
会館の総決起会場にも居ました。配られた「おにぎり」と沢庵を
忘れません。父が参加して、それに付いて用心棒代わりに側に居
ました。
また石炭選別機のホッパー攻防戦では、機動隊と炭鉱労働者の流
血の一歩手前を見ていました。丁度、父がホッパーの近くで籠城
して、まさかの時は、助けに行こうと考えて木刀を隠し持ってい
ました。支援の全国各地から来た炭鉱労働者達が、釘付き棍棒や
弁当箱に隠した坑道発破用のダイナマイトまで持っているのを見
たからでした。

もしもあの時に機動隊の突入があれば大惨事となっていたと思い
ます。機動隊の指揮車が前進して、ものすごい投石が始まり、物
陰から見ていた私は一瞬「ドキリー!」とした思いが有ります。
直ぐに指揮車がバックして、事なきを得ましたが、今でもその緊
張は忘れることは出来ません。

東京から来ていた学生活動家達が、口先だけでスロウガンを叫び、
バイトで配達していた清涼飲料水店で、親からの貰った金で好き
な物を買って食べている姿を見て、こちらは親から金も貰えず、
親の心配から東京でのバイトも辞めて郷里に帰宅して、安い田舎
のバイトで働いている時でしたので、頭にきて見ていました。  

救援炭の荷降ろしで、16トン積載の貨車から石炭を降ろしてト
ラックにモッコで乗せるキツイ仕事をして、踏み板の弾みで、
モッコ担ぎを生まれて初めて経験して、はじき飛ばされて真っ黒
になった思い出が有ります。3人で組んで午前中に16トン貨車
一台、午後に一台降ろしていました。人生で・・、 炭鉱町に育っ
て、手に豆ができて、手首が痛くなるまで スコップを握り、
「これが仕事だ・・・」という思いを経験しました。

炭住街のお風呂の燃料にするものでした。配達して夕方終わり近
い頃は風呂に一番早く入って、真っ黒になった汗だらけの身体を
洗って帰宅していました。学生活動家として、大争議のアジ演説
をしていた人間が、野たれ死に同然で亡くなったとアメリカに来
て新聞で最近見たときは、時代の変化を感じました。

三井大争議や60年安保騒動などでヘルメットを被り、タオルで
頬かむりをして肩を組んでデモ参加して、学業を放棄して、親の
金を浪費して時間を捨てていた学生を横目で見て、生きる為に夜
の10時頃まで工場でバイトして旋盤をいじっていた頃で、10
時過ぎると出る夜食のおにぎりが目当てでした。

昔を考えると、自分ながら良く働いたと思います。確か国会正門
前で死亡した樺(かんば)美智子女史、1960年6月15日,安保条約
反対を叫ぶ全学連主流派が国会に突人,樺美智子女史死亡のラジオ
放送もバイト帰りに聴いた覚えが有ります。

今では石炭産業も廃止と同じで、三井三池炭鉱も有りません、全
てが消えて時代が変化していますが、そこで育った子供心は今で
も海外で十分に通用すると感じます、強くてへこたれずに、かぶ
り付いて喰らい付く精神は今でも有ります。

三池炭鉱では1963年11月9日に三川抗で炭じん爆発が発生して、父
の弟が死亡して、今では父と仲良く仏壇に並んでいます。

私が南米に移住してから、
「こんちきしょうー!、甘ったれるな・・!」と言う気迫はこの
歳まで続いているのは、大牟田の炭住街で育った経験が大きいと
思います。
今ではアメリカのサンフランシスコの郊外に住んでいますが、
昔の南米時代は 『こんちきしょうー!舐めるんじやーね!』と言
う心意気だったと思います。

2012年6月5日火曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(16)

朝方に冷えて来て、自然と目が覚めた。
夏用の寝袋では、大陸の寒暖の差が大きい内陸部では寒い様な感
じで有った。目が覚めてテントから出て、用をたして来た。
警備の若い兵士が二人起きていた。一人は少し離れた所の高台で
毛布をかぶってライフルに着剣して立っていた。

もう一人はテントの横で、焚き火の火を見ていた。
空はまだ月がこうこうと輝き、夜明け前の一番暗い闇と言う感じ
で、近くのジャングルが黒々と静まり返っていたが。
犬達が起きて来て、私の前に座り尻尾を振って挨拶していた。

犬達に乾肉を袋から出して与えた。それぞれ犬達は前足で押えて
かじりだした。若い兵士がマテ茶を勧めてくれた。
大きな薬缶が焚き火の上に釣るして有り、湯気が出ていたが何か、
ホットした感じになって熱いお茶を飲んでいた。
冷えた体が暖まり、心寂しい感じも無くなった。

昨日の戦闘はウソの様に感じられていたが、現実は迫撃砲の弾を
入れてあった木の空箱を壊して作った墓標が並んでいるのが見え
、空しい感じが白木の板に感じられた。
それはゲリラを復讐心に燃え、追いかけて来た事が少し悔やまれ
た感じで、何か空しさが心一杯に広がって、殺し合いの残酷な

場面を思い出していた。若い兵士達は警備の二名を除いてまだ
テントに眠り込んでいた。シーンとした野営地に犬達がかじる
乾肉の音が響いていた。私が子供の頃、終戦直後の焼け野原の
風景が突然思い出された。どこまでも連なる焼け野原の風の音と
今の野原の風の音が同じで、そうさせたのかも知れなかった。

私は黙り込んで、暖かいコップを両手に挟んで、ポツーンと
思い耽っていた。ルーカスとルイスが起きて来た。
彼等は近くの川原に下りて行き、河の水で顔を洗い、タオルで
身体を拭くと、汗で臭くなった下着を交換して、今日一日の
身支度をしていた。私も彼等に習い、顔を洗い、下着を交換して
冷たい河の水で気持ちもさっぱりとさせた。何か元気が湧いて
来た感じで、彼等にも熱いマテ茶を入れてやった。

ルイスはお茶を大地に垂らすと、なにか口の中でつぶやきながら
祈っていた。そして、白木の墓標に向かって十字を胸の前で切る
と、死者の霊にも祈っていた。朝日の輝きがジャングルの隙間か
から注し込み、夜明けが今日の輝きとなって野営地を照らした。
 では次回をお楽しみに、

2012年6月4日月曜日

私の還暦過去帳(251)

私も65歳を過ぎて老齢年金もアメリカ政府から頂く身分となり、
月日の過ぎ去る事の早き事を身に染みて感じます。
日本と同じくアメリカも世界の原油価格の影響で、燃料価格の上昇
で、全ての物価が驚くほど値上がり始めている。

この物価上昇で、多くのアメリカ人引退者が暖かい、生活費が安く
て、安全で、医療費が安い国を探して移動や移住を行動で示して居
る。メキシコはアメリカの4分の1の生活費で老後を過ごせる様だ、
場所によりもっと高い生活費が必要な場所も有りますが、ガテマラ
やニカラグワなどの中南米に行くともっと安い生活費で生活できる

様だが、交通の便や、医療関係などアメリカ人の満足する条件を満
たしては居ないので、メキシコの様にアメリカ人が町を占領するぐ
らい沢山生活している場所も有りますが、中々そこまでは中南米で
は行きませんが、しかし、コスタリカが現在注目をあびています。
現在、ベトナム人がアメリカからの直行便も開設されて60年代、
70年代ベトナム陥落以降にアメリカに移住して来たベトナム人達

が祖国に引退して、帰国して老後を過ごす様になり始めた。
生活が安定して、アメリカ政府の老齢年金も貰えるようになり、そ
の年金だけで彼等の郷里ではお金持ちの層に入ると聞きました。
フィリッピン人も同じく郷里の村に帰国して家を建て、お手伝いさ

んを雇ってのんきに生活できる身分となると聞いた事が有ります。
アメリカの移民社会では、昔、苦労して子育てして家を買い、蓄え
多くの戦後のベビーブームの引退者達が引退時期に来て、どこで
引退して老後を過ごすか真剣に考えて居ます。インフレ傾向の社会
から逃げ出す事を考えて、暖かい太陽の、物価が安くて、医療費が

安い国を目指していますが、業者もそれを見逃す事は無く、先日
の新聞ではメキシコで、引退者ホームを4万5千ドルで販売して
いました。私の近所ではコンドの集合住宅が40万ドルもします。
それからしたら、メキシコの引退者ホームは魅力的かも知れません。
日本も国境を超え、世界規模での引退者移住と移動が起きている事

を、もっと多くの日本人引退者達は知らなければならないと思いま
す。

2012年6月2日土曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(15)

ヘリの音が近ずき、射撃中止の命令が出されて、銃声が途絶え、
ヘリの回転翼の音が大きく響いていた。
その時、ジョアン大尉に負傷した襲撃者から申し出があり、
ハンドトーキーの波長を合わせて、投降の呼びかけをした。
直ぐに応答があり、負傷者を連れて出ていくと連絡が有り、
直ぐに伝令が走って、先頭に隠れている兵士に告げられた。

しばらくして、負傷者を肩に、白いシャツを振りながら、男が
ジャングルから出てきた。兵士達が廻りを囲み連れてきた。
一人は足を負傷して歩行がかなり困難の様で、苦痛の顔を歪ま
せていた。直ぐに看護兵が介抱して足に添え木をして横たわっ
ていた。その時ジャングルの奥で、水場の上の
方で、ライフルを速射する音が複数聞えた。軍曹から・・、
「隠れて居た残り2名のゲリラを発見して、追い詰めた」と
連絡が有った。

すると、女ゲリラが悲鳴に近い言葉で、「私に投降を呼びかけさ
せて下さい」と大尉に哀願して、ひざまずいて頼んでいた。
許可が出て携帯スピーカーを渡されて、2名の兵士に囲まれて、
最前線の兵士がライフルを構えて伏せて居る現場に行くと、
「出て来て下さい、むだ死にだけは止めて下さい、」と何度か
呼びかけた。

返事は無かった。すかさずもう一度、射撃命令が出て、今度は
追い詰めた現場に集中して迫撃砲が打ち込まれ、機関銃も舐める
様に低く藪の中に弾を掃射していた。私は軍隊の経験も無くて、
演習に参加した事も無く、轟音と共に打ち込まれる銃弾に驚いて
いたが、直ぐに静かになり、ヘリの音だけが響いていた。そこに
ヘリからのラジオが飛込み、「上空から2名が倒れている様子が
見えるーーー!」と報告が有った。

射撃が中止されて、静かになり、襲撃者が設置した地雷は彼等が
教えてくれた場所で、砲撃にも爆発ぜず残っていた。
2個の地雷は安全ピンを戻されて爆発しない様にして、持って
きた。ヘリが広場に着陸して酷い砂埃が巻き起こった。直ぐに
襲撃者3名と女ゲリラが乗せられて飛び立って行った。
後は直ぐに静かになり、もとの静寂がジャングルに戻った。

大尉は手分けして、遺体の顔写真と指紋を取ると現場に埋葬して
遺棄された武器や食料などを集めて、カバンや服の中の持ち物を
検査して何か情報が無いか集めていた。私達は死んだラバをかた
ずけて、それが終った時は夕方近かった。ジョアン大尉は私達も
そろつて食事をする様に誘ってくれ、炊事当番が炊飯する夕食を
御馳走になり、兵士が見張りの警備をする中、ゆっくりと寝た。
 では次回をお楽しみに

2012年6月1日金曜日

私の還暦過去帳(250)

このあいだ、二週間ばかり休暇でメキシコのバハ・カリフォルニ
ア半島突端のカボでのんびりしていた。
カボ・サンルーカスは10年前は人口2万人の裏寂れた町でした。
今回訪ねた時は、かなり町が変貌して人口が10年間で15万人
に増えていました。建設ブームで昔は見られなかった不動産屋が

町のあちこちでオフイスが開いて、店頭には販売物件の写真と価格
がドル表示されていました。80%はアメリカ人の訪問者で、後の
10%がカナダとヨーロッパから来た観光客と話していました。
人口増加は町の人口の60%を占める若い働き盛りのメキシコ人が
カボの町に仕事を求めて転住して来たからです。

急激な人口増加も廻りは岩山の半砂漠地帯です、飲料水の確保
は全部ホテルなどは海水を真水にして、一切の需要を賄っていまし
た。それと、メキシコ人の主食には無くてはならないトウモロコシ
が、大きな影響を与えていました。それは殆どの需要を賄う量はア
メリカから来ていたからです。メキシコのカボも物価指数からした

らアメリカの4分の1程度ですが、町でもアメリカ製品が氾濫して、
品物によってはアメリカと何ら変わることは有りません、しかしア
メリカから来る輸送費と所得格差から考えると、左官屋で月/450
ドル程度です、かなり現地のメキシコ人に、今は僅かな値上がりで
すが、これから予測される穀物価格上昇が輸送路と地域的な特殊性
から見たら、かなりの影響力を地方都市に与える環境は、深刻さが
直に貧困社会に響いている。

建設ブームに沸いているカボでは労働者達が選択して買物する環境
ではない、限られた狭い社会での範囲が彼等の生活圏で、限定され
た場所での生活は、より大きなアメリカで起きつつある価格上昇に
連鎖ドミノと、それによって連鎖反応が起きつつ有ると感じる。

限定されたエタノール生産が、もはやブームに乗ってトウモロコシ
生産の作付け面積拡大が、大豆や小麦の生産減少と連なり、これら
の作付け面積の減少は穀物取引状態からすると、益々の価格上昇と
連鎖して、これからのエタノールのバイオ燃料がもたらす影響力が
メキシコの田舎町での全ての価格上昇まで連鎖している事は、見逃

す事は危険な状態となって来た。たかがトウモロコシと言うけれど、
これで家畜の飼料や甘味料のコーンシロップにも、各種の飲料水の
価格上昇にも連なる事は、開発途上国や都会の貧困層に一番に影響
が出ると思う事が有ります。今日のアメリカ新聞では、カリフォル
ニアでは前年度比17%ものガソリン消費が減って来たと報じてい

るが、これからのガソリン価格がガロン(約4リッタ)4ドルを目
前にした価格では、アメリカも日本とさほど変わらないガソリン価
格となったと痛感する次第です。