2012年6月21日木曜日

死の天使を撃てー!

私が46年前に体験した出来事を書き残しています。

事実は小説より奇なり・・、という事かもしれません。

第2話は『死の天使』と言われた人物を探し、追跡する話です。
私がヒヨンな事で関わり合い、アルゼンチンの首都、ブエノス・アイレス
での出来事でした。
この話は、事実と相違する事も有ります。想像で書いた所も有ります。
昔の事で、薄れた記憶から書いたものですから、小説の話と割り切って読
んでください。


   第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』
  
46年前に移住したアルゼンチンのブエノスで知り合い、親友になって
出会ったユダヤ人が、住めば都ーー、ユダヤ人は千年の流浪の旅に出ても
民族は国家なりと。

生きる、生き残る、生き抜く、生き残る為の子孫を残す、生き残る為の
資財を作り、蓄える。それを力に民族を絶やさず、力蓄えて。頭脳と資財と
言う民族国家財産を創り、蓄え増やすと言う集団力を創る事が、イスラエル
と言う国家再建をユダヤが成した原動力と言った事に少なからず驚きました。

国家を創造する思想、日本人にもその様な信念を所持する人間が居ても、
移住を前提に世界のあらゆる国に根をおろして、土地を構え、家を作り、家
族を養い、子孫を増す事も面白い人生かもしれないと感じ、その後は私の考
えが信念と昇華して、これまで生きて来ました。

これからお話を連載するにあたって先ず、読んでおいてもらいたい物語で
す。この話しは是非聞いてもらいたい、そしてユダヤ人を理解しておいて貰
いたいと思い、序文として書いた次第です。

これは私の思いでの話です、
『戦争の悲惨さ、それで難民として流浪の旅に出た人々が思い出として語っ
てくれた物語です。』

この物語は以前、出た邦のメルマガに出したものですが、彼等の信条とす
る心を先ず理解して、なぜナチ戦犯を彼等が命を賭けてまで捜していたか
理解してください。

これを持って序文と致します。

昔、ボリビア国境近くからブエノス、アイレスの首都に出てきた時は、
「奥地から出てきた」と言っていました。

街中にあった日本人会館の宿泊所に泊まっていました。1階は食堂や事
務所、大きなホールも有りました。
日本食も食べる事が出来まして、何かと便利で色々な情報も沢山入って
来ますので、本当に便利な場所でした。

食事は近くにイタリア人が経営する、美味しくて、安くて、魚料理が沢
山有るレストランに通っていましたが、直ぐにそこのウエイターと仲良
くなり、鯛のから揚げにオリーブ油のピリカラソースを掛けた物を発見
して、ブエノスに滞在している時は毎日飽きもせず食べていました。

30cmも有る大きな鯛です、皿からはみ出しています、アルゼンチン
では小骨の沢山有る鯛は余り歓迎されない魚ですから、レストランで安
く食べる事が出来ました。
揚げ物専門でカウンターの近くで仕事をしている、アントニオと言う若
者とも仲良くなり、インジオのおばさんが自家製で作る葉巻を沢山お土
産に持って来ていましたので、三本ほどプレゼントして、明日のお昼も
来るから、必ず俺の分は残しておいてと、念を押して帰りました。

自家製の葉巻は特製で、タバコの葉をラム酒と砂糖で醗酵させてそこに
おばさんの秘密の何かを混ぜて作ります、その香りの良い事、20mも
離れた所からでも分かりました。
おかげでお昼にレストランに入り、カウンターの中に入るアントニオに
手を上げて挨拶すると、「あいよ~!」と言う感じで、テーブルに座っ
てスープが来て飲み始めると直ぐに鯛のから揚げが出てきますが、隣り
に座っているおやじが「じろ~ッ」と見ています、 いっも会っている
おやじです。
「また、あの日本人は魚を食べている」そんな感じでした。

それと余りに早く注文が出てきますので驚いています。白ワインを頼ん
で飲んでいますが、ボトルを全部ポンと置いて行きます、食事が終って
勘定の時に瓶の残りを見て、その瓶の飲んだ分だけ払って勘定する、
おおらかな物でした。

私はこのレストランが気に入って、昼と夜の2回も食事に通っていま
したが、いっも同じ所に座っていましたのですが、私の隣りに同じ様に
座っていたユダヤ人の老人がいました。

私が魚を良く食べるので、目立っていたのか、彼らも宗教の何かの日に
はお肉は食べ無い事を知りました。
そんなわけで食後のコーヒーの時に、コニヤックの酒をおごってくれ
まして、話をする様になりました。昼時は混雑しますので食後は外で話
していました。

ポーランド系のユダヤ人で、戦後、兄を頼って移民して来たと話してい
ましたが、家族は全部死んでしまったと言っていました。
私も戦後台湾から引き上げて来る時、リュックサックのみで、着たきり
スズメの、お腹を空かして、悲しい思いをした事を下手なスペイン語で
話すと、彼も余り上手ではなかったスペイン語で、慰めてくれました。

一人暮しで、時々兄の貴金属加工の手伝いをすると話していましたが細
い指先は、繊細な仕事をこなすプロの感じでした。
どこに住んで居るかは聞きませんでしたが、歩いて直ぐのアパートに住
んで居ると言っていました。
ある時、何気なく「お前はこんなものを見たことが有るかーー!」と言
って腕の袖をまくり、数字の刺青を見せてくれました。

私は「ガ~ン!」と心に衝撃が走りました。

話には聞いていた事です、本でも読んだ事が有りましたが、現実に見
せられたショックは大きかったのを覚えています。アウシュビッツの死
の収容所で付けられたと言っていましたが、それとポーランドで彼が住
んで居た町で生き残ったユダヤ人は 数えるほどしか居なかったそうです。

彼が特殊な金属加工と研磨の技術を持っていたから、軍需工場での強制
労働、通称奴隷労働での仕事をしていたから、終戦まで生き長らえたと
話していました。
だんだんと色々な話を聞くに連れて、衝撃と悲しみと、悲惨さが滲み出
す話に私は涙が止まらなかったのを覚えています。

人はそれぞれ一つの人生を担って歩いていると言いますが、重き荷や
軽い荷など、それぞれの人生の終着駅を目指して絶え間無く歩いて行か
なければなりません。
ユダヤ人の老人と出会って話をする様になってから、自分の人生感が少
し変った様です。
彼の話は人の心を揺さぶり、衝撃と感動を人の心に与える力が有りまし
た。

ポーランド系、ユダヤ人としてワルシャワの町で生まれたそうですが
ナチ、ドイツがポーランド進攻してきたから全てが変ったと言っていま
した。
全てのユダヤ人はゲットと呼ばれる居住地に押し込められて、そこから
強制労働などに駆り出されて行ったそうです。

ある時ドイツ軍から、トラックに乗せられて、強制労働に連れ出され
て、昔のユダヤ人の金持達が住んで居た場所で、家財道具の整理や、
隠匿物資の捜索を手伝わされたそうです。

ある屋敷に着いたら ドイツ軍将校が中庭の空き地に拳銃を持って立っ
ていたそうですが、その足元には射殺されたユダヤ人の家族が並んで
いたそうです。
隠れて、どこかに潜んでいた家族の様でした。 そのようなユダヤ人は
その場で射殺されて行ったのです。
両親と娘が二人、頭を後ろから打ち抜かれて血を流して死んでいたそ
の遺体をトラックに運び、かたずける時に娘二人はあきらかにドイツ兵
の強姦を受けた後がなま生しく残って、目をそむけて遺体を運んだと話
してくれました。

まだほんのりと温かみが残る遺体だったと話していましたが、その話
をしている時に、彼も泣いていたのを覚えています。
そこをかたずけて次ぎの屋敷に行くと、そこでは軍用犬を使って潜んで
いるユダヤ人の捜索が行われていました。

屋敷の離れで使用人が住んでいた様な家を探していた時、犬が吼え誰か隠れ
ている事が分り、ドイツ兵が銃を持って取り囲み、捜索を始めると直ぐに親
子4人の家族が連れ出されて来ました。

子供は娘とその弟の様で、両親は子供をかばって命ごいをして、ドイツ兵の前
で地にひれ伏して、涙ながらに懇願していましたが、情け容赦無くーー、まず
両親が銃殺の為に庭に立たされると、男の子供が泣きながらそれを止め様とし
て、その場でまず射殺されてしまい、直ぐに同時に両親も並んで銃殺されてし
まいました。

残った若い20歳頃の娘は死を覚悟をしていた様ですが、ドイツ軍将校は何を
思ったのか、強制労働で連れ出されて来たユダヤ人を指差して、この娘を犯す
様に命令しましたが、誰も娘を前に行動を起す人は無かったそうです。

将校は一人の初老のユダヤ人を指差すと、「お前が初めにやれーー」と指名し
て命令しました。
娘は家の中に連れこまれて、下半身裸にされて指名されたユダヤ人の背中を
押して犯す様に再度命令したが、初老のユダヤ人はその将校の顔につばを吐
きかけて、拒否したそうです。

その場で射殺されてしまい、次ぎはこの話をしてくれたユダヤ人の番だった
そうです。
彼は死を覚悟して動かなかったそうですが、 将校は「あと20数える内に
行動を起さないと、射殺するーー」と言って数を数え始めたそうですが、

すると、娘は彼の手を取って、「生きなさいーー、どんな事をしても生きな
さいーー、」と小声で早口のポーランド語で話すと彼をソファーの前に連れ
て行き、生きる為の、生き残る行為を彼にさせたそうです。

しかし緊張と、恐怖の前では真似事だけで、ドイツ兵を喜ばすだけだったと
話してくれました。

その時オートバイに乗った伝令が来て将校に、近所でユダヤ人が銃で抵抗して、
死傷者も出ていると話すと、「遊びは終ったーー」と言って、死体をかたずけ
る様に言って、四人の死体をトラックに乗せると、「お前達は地下室に入って
おれーー!」と命令して、真っ暗な電気も無い部屋に入れられて、上から蓋を
かぶせて鍵を掛けられて、放置されてしまったそうです。

ドイツ兵は応援に 出かけてしまい、暗い部屋で遠くで聞こえる銃声を聞きな
がら動かなかったそうですが、娘は真っ暗な中で彼にしっかりと抱きつき緊張
と狂気の嵐の時間を耐えていたそうですが、強制労働に連れてこられて残った

彼を入れて三人と、娘は何一つ話さず、真っ暗な 中でジーッと耐えていたそう
ですが、時間が経つほどに緊張も緩み、抱いている彼女の体温も感じ、彼女の
皮膚の感覚も感じて来て、いっしか、しっかりと彼女と真っ暗な地下室で抱き
合っていたと話してくれました。

彼女は遅くなって戻って来たドイツ兵に外に連れ出されると庭の中に立たされ
て、銃殺されてしまったと涙ながらに話してくれました。

地下室から出る時、「天国で貴方の子供を育てるからーー」と言って出ていっ
たそうですが、撃たれる直前に手を上げて投げキスをして倒れて行ったと言う
事です。

彼は独身だと言っていましたがーー、  
 「一瞬の時間に人生のすべての情熱を燃やし尽くして行く人と、 
  一生連れ添っても、単なる同居人で人生を終る人も居る」、
と彼が話したことを、私は一生忘れる事は出来ません。

愛とは何かーー、愛するとは何かーー、今でも考える事が有ります。
彼とはその後、ブエノスを離れて二度と会う事は有りませんでした。

第2話、『ブエノスに遠い国から来た狼達』を連載致します。


(1)ブエノス・アイレス到着、

朝早くにブエノスに到着して、11トンものトマトを下ろしてホットしていた。
いつもの運転手が家族の結婚式で今回は休んで、私がハンドルを握り運転してきた。
たまの長距離の運転でやれやれの感じがしていた。
荷降ろしが済んでから私はブエノスでしばらくぶりに休暇を取り、遊ぶ予定をして
いた。

今回はマタッコ族のインジオでハンターのルーカスが助手として乗って来ていた。
彼もブエノスに出稼ぎに来ている兄弟を見舞いに同乗して来た。
犬も連れて来ていたが、しかし犬を乗せる条件として、良く洗ってから連れてくる
様にと、犬用の石鹸を渡しておいた、おかげで匂いもしなくて、おとなしく足元に
寝ていた。

私も犬好きであったから、長い運転での気休めになるので、特に夜間運転では単調
なドライブでの相手としては人間より犬の方が利口な感じであった。
ルーカスが後ろのベッドでいびきをかいて寝ている時に、犬はおとなしく私の
横で、シートに座り前を見ていた。
時々鼻先で私の腕をさわり、『チャンと起きていますよーー!』と言う感じで
私の顔を見上げていた。

メルカード.アバストの市場に荷物を降ろして、仲買の受取りを貰うと、全てが済
んだ感じで、気分がうきうきとして来た。ルーカスをさそってレストランで朝食を
食べると、留守番にトラックの荷台に乗せていた犬にお土産に、朝開店したばかり
の肉屋から骨付きの肉を買って、新聞に包んで持って帰った。犬のポンが喜んで、
かぶり付いて食べていた。

私達は駐車しているトラックに、売り歩いているコーヒー屋を呼び止め、熱いコー
ヒーを飲んでいた。コーヒー屋は肩から左右の大きな袋を掛けて、魔法瓶に入れた
コーヒーを売り歩いていたが、安くて結構美味しいコーヒーであった。

犬がガリガリと骨をかじっている音を聞きながら、ゆっくりと朝のコーヒーを楽
しんでいた。それが終るとルーカスを兄弟がいるアパートまで送って行った。

前もって予約してあった駐車場にトラックを止めて、ルーカスの兄弟達から歓迎
されて昼食は皆で食べる事になった。それまでゆっくりとワインども手に田舎の
話に花が咲いた。ルーカスも久しぶりの再会で喜んでいた。

私はその夜は友達と飲む予定になっていた。日本人の二世の女性が居るバーで、
ブエノスでも日本語が話せる珍しい店で有った。しばらく日本人の若い女性と話
す事もなかったので楽しみにしていた。

しかしこれが事件に巻き込まれた始まりで長い間、命がちじむ感じで、時には命
がけで戦わなければならなかった。
しかしルーカスと犬が居たおかげで、何とか切り抜ける事が出来た。

  (2)ブエノスでの飲み会、

ルーカスの兄弟達は今日は仕事を休んでいたが、何年ぶりかで会う兄弟達は皆元
気で再会した事を喜んでいた。
アルゼンチン北部の郷土料理を作り、焼肉のアサードも焼いて近所の知り合いの
インジオも呼んで、賑やかな昼の食事が始まったが、ルーカスが持ってきたお土
産も配られて、和やかな一時が過ぎ行った。

遅くまで話して食べて、少し運転して来た疲れと、ワインの酔いで、いつのまに
かアパートの中庭の木陰で寝ていた。

誰も起す者が居なかったので、日が落ちて少し肌寒くなって目が覚めた。
ルーカスも犬もみんな寝ていた。静かな一時で外の水道で口をゆすぎ顔を洗って、
駐車場に歩いて行き、運転席の後ろのベッドの下に入れて有る着替えを出して服
装を改めて、今夜の飲み会の友達に電話を入れ、挨拶して時間を確認して再会の
時間を約束していた。

そろそろ遊びながら町に出かけ様と思いアパートに寄り、ルーカスに「今夜は遅
くなるのでアパートには泊まらない」と伝えていた。

すこし暗くなり、タクシーを拾うとセンターの繁華街に繰り出た。ピザ屋に寄り
軽く二切ればかり食べて今夜のスタミナとした。カフェーに寄りコーヒーを注文
して、店の外のテーブルで景色を眺めて、側を歩いて居る歩行者をぼんやりと眺
めていたが、時間が来てタクシーを拾い、約束のバーが有る街に到着した。

港の近くの小さなバーで、船の船員達が立ち寄る事でも知られていたので、日本
船が入港した時は賑やかな時も有る様だ。タクシーから下りると港の船が停泊し
ている感じがしていた。一方通行でタクシーが入れないので、そこまで歩き出し
た道すがら、汽船の『ぼーっ』と響く汽笛が聞こえて来た。

時計を見たらまだ待ち合わせに時間には少し早い時間で、歩きながら街の様子
を見廻していた。するとタンゴの音楽が響きアコーデオンの響きが外の舗道ま
で響いてきたので中を見ると、バーの片隅で男女が絡まってタンゴを踊ってい
た。
私もぶらりと入り、カウンターでコニャックを注文して、踊りを見ていた。官
能的な女性の姿態が男に絡まり、巧みなステップで男と踊っていたが、皆はシ
ーンと二人の情熱がふきだす絡み合いを見詰めていた。

余り広くはないバーの中は、各国語が入り乱れロシア語、英語、ドイツ語、イ
タリア語など耳に飛び込んで来る言葉の数も、港の近くで雑多であった。

時計を見ると、そろそろ待ち合わせの時間となり、グイ~!と酒を飲み乾して
勘定を払い外に出た。外の舗道までタンゴの音楽が追いかけて来た。少し歩く
と今日の待ち合わせのバーが見えて来た。ドアを肩で押し開けて中に入ると薄
暗い中が、しばらく何も見えなかった。

外のネオンが輝く明るい舗道から急に薄暗いバーの中で目が慣れるまで、しば
らく入り口に立っていた。すると、奥で『いよ~!』と声がして、
『しばらくぶりーー』と友達が出てきた。ガッシリと握手して元気な再会を祝
った。

テーブルに座り、沖縄出身の二世の若い小柄な身体の女性がウイスキーを水割
りで注いでくれ、皆と乾杯して今日の飲み会の幕を開いた。
その時、私らのテーブルに若い、髪を長く伸ばした男が挨拶して割り込んで来
た。
名前は陳(チン)と名乗った。

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