2012年6月6日水曜日

私の還暦過去帳(252)

戦後、私の父が三井三池炭鉱に職員として働いていましたので、
それと、実家の家が戦災にも遭わずに大牟田市に残っていました
のでそこで外地から引き上げて来て育ちました。

炭住街と呼ばれる、社宅が軒を連ね、その社宅の中には大きな
会社経営の銭湯までありました。近所には売店も有り、配給切符
で何でも買う事が出来ました。
私の小学校時代、中学時代は仲間の殆どが炭住街に住んでいた
友人達でした。訪ねて行き、プールの様に大きな銭湯の湯船で遊ん
で泳いでいました。

しかし、1959年から60年代の起きた大争議は大牟田に住んで
いたので、一部始終を見ました。労働者が無期限ストに突入して、
会社がロックアウトと組合員の坑内立ち入り禁止でこれに対抗した
財界が三井鉱山を全面的に支援した一方、日本労働組合総評議会
(総評)は三池労組を全面的に支援したため、三井三池労組は
「総資本対総労働の対決」などと呼ばれ、沢山の大学生の争議応
援者が各地から来ていました。

1960年に組合分裂が起きて、第2組合が誕生した大牟田市民
会館の総決起会場にも居ました。配られた「おにぎり」と沢庵を
忘れません。父が参加して、それに付いて用心棒代わりに側に居
ました。
また石炭選別機のホッパー攻防戦では、機動隊と炭鉱労働者の流
血の一歩手前を見ていました。丁度、父がホッパーの近くで籠城
して、まさかの時は、助けに行こうと考えて木刀を隠し持ってい
ました。支援の全国各地から来た炭鉱労働者達が、釘付き棍棒や
弁当箱に隠した坑道発破用のダイナマイトまで持っているのを見
たからでした。

もしもあの時に機動隊の突入があれば大惨事となっていたと思い
ます。機動隊の指揮車が前進して、ものすごい投石が始まり、物
陰から見ていた私は一瞬「ドキリー!」とした思いが有ります。
直ぐに指揮車がバックして、事なきを得ましたが、今でもその緊
張は忘れることは出来ません。

東京から来ていた学生活動家達が、口先だけでスロウガンを叫び、
バイトで配達していた清涼飲料水店で、親からの貰った金で好き
な物を買って食べている姿を見て、こちらは親から金も貰えず、
親の心配から東京でのバイトも辞めて郷里に帰宅して、安い田舎
のバイトで働いている時でしたので、頭にきて見ていました。  

救援炭の荷降ろしで、16トン積載の貨車から石炭を降ろしてト
ラックにモッコで乗せるキツイ仕事をして、踏み板の弾みで、
モッコ担ぎを生まれて初めて経験して、はじき飛ばされて真っ黒
になった思い出が有ります。3人で組んで午前中に16トン貨車
一台、午後に一台降ろしていました。人生で・・、 炭鉱町に育っ
て、手に豆ができて、手首が痛くなるまで スコップを握り、
「これが仕事だ・・・」という思いを経験しました。

炭住街のお風呂の燃料にするものでした。配達して夕方終わり近
い頃は風呂に一番早く入って、真っ黒になった汗だらけの身体を
洗って帰宅していました。学生活動家として、大争議のアジ演説
をしていた人間が、野たれ死に同然で亡くなったとアメリカに来
て新聞で最近見たときは、時代の変化を感じました。

三井大争議や60年安保騒動などでヘルメットを被り、タオルで
頬かむりをして肩を組んでデモ参加して、学業を放棄して、親の
金を浪費して時間を捨てていた学生を横目で見て、生きる為に夜
の10時頃まで工場でバイトして旋盤をいじっていた頃で、10
時過ぎると出る夜食のおにぎりが目当てでした。

昔を考えると、自分ながら良く働いたと思います。確か国会正門
前で死亡した樺(かんば)美智子女史、1960年6月15日,安保条約
反対を叫ぶ全学連主流派が国会に突人,樺美智子女史死亡のラジオ
放送もバイト帰りに聴いた覚えが有ります。

今では石炭産業も廃止と同じで、三井三池炭鉱も有りません、全
てが消えて時代が変化していますが、そこで育った子供心は今で
も海外で十分に通用すると感じます、強くてへこたれずに、かぶ
り付いて喰らい付く精神は今でも有ります。

三池炭鉱では1963年11月9日に三川抗で炭じん爆発が発生して、父
の弟が死亡して、今では父と仲良く仏壇に並んでいます。

私が南米に移住してから、
「こんちきしょうー!、甘ったれるな・・!」と言う気迫はこの
歳まで続いているのは、大牟田の炭住街で育った経験が大きいと
思います。
今ではアメリカのサンフランシスコの郊外に住んでいますが、
昔の南米時代は 『こんちきしょうー!舐めるんじやーね!』と言
う心意気だったと思います。

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