2022年12月1日木曜日

私の還暦過去帳(774)

 三島由紀夫氏の死にざま・・、

「三島由紀夫は、その戦後の薄っぺらな風潮と妥協することを断固拒み、命を絶って日本の文化を貫きました」との言葉を見て、はて、その様な人だったか?と感じました。

日々の糧を得るために、地を這うようにして生きて来た者、それで生きている者からすれば、ぼんぼんの思想かぶれの者としか受け取れません。60年ほど昔に南米の海の無い国、パラグワイに単身移住した時に、戦前、東北からの満州に移民した生き残りの移住者が沢山居た事には驚きました。その移住者がパラグワイで営農して、農産物の販路が無く、破綻してアルゼンチンやブラジルに再転住をしていきましたが、その中の一人とアルゼンチンの郊外のチビリコイ市で会ったのです。彼は満州で現地徴兵され、ロシア軍と戦い、開拓団の集団を逃がすために、ロシア軍の機械化師団の野営に夜襲して、最後は万歳突撃をして、ロシア軍のマンドリン自動小銃の弾が交差する中で、妻と生まれたばかりの子を思い、逃げて生き残り翌日、他に生き残った一人とロシア軍に捕まり、シベリアに送られて強制労働を3年耐えて、岩手の故郷に帰還して、妻子は満州から生きて帰還していたのですが、3男には耕す農地も無く、パラグワイに家族で移住して、地を這う様な仕事をして、原始林を開墾し、農業をしたのです。
ドミニカ移住者と同じ、破綻してアルゼンチンに再移住してやっとトマト栽培で儲けて土地を買い、農場を開いていましたが、ロシア軍への万歳突撃の生き残りの、人生は苦難といばらの道を歩いて来た人の言葉を比較すると、三島由紀夫の言葉と行動は次元が違うと言下に切り捨てられない、世界があると感じます。三島氏の言葉は、思想は、行動は、美学に縁どられた、自己酔倒の世界だと思います。
私も戦後、台湾からの引揚者で、背中にリックを背負い、水筒を肩から下げて一番良いものを着て引き揚げて、今晩は乾パンしかないと、一掴みの乾パンを握らされた思いが在る者には、三島氏は生きて、生きて、とことんまで生きて己の自己を主張する事が、三島氏の最後をもっと華やかな物にしたと思います。 「人は地を這うようにして生きて、生きて、生き延びて、家族をつくり、この世に次の世代を残すのも、神に応える一つの生き方だと思います」「死んでは実も花も無く、散った桜の枯れ枝と同じ」。