2014年10月30日木曜日

私の還暦過去帳(561)

今日も晴れて爽やかな秋の日でした。

今朝はワイフが娘の家に泊まって居たので、一人で少しのんびりとしていました。

朝食が終わり、犬の毛のブラッシングなどの世話もして、犬は温かい裏庭の
一角で 日向ぼっこで寝ているので、新聞でも読みながらお茶でも飲んでい
ました。 それから少しパソコンの要らないメールなどを消したり、返事を書い
たりしていたのですが、

私がかれこれ1961年頃から貴重面に記録に残していた手帳を出して整理
して いました。1964年に父から貰った手帳には南米時代の細かな事が書
き込まれて いるのを読み返していました。
すでに亡くなった方ばかりの名前が並んでいました。それと手帳は三井三
池鉱山の名前 があり、会社が配った手帳でした。そこに働いていた父が
職員をしていたので、貰った 物だと思います。その会社も今では無く、それ
と手帳に書き残された過去に消えた方々で すが、感慨深く一つずつ名前
を思い出していました。
手帳を無くす事もなく50年という時間を経て、貴重面に今まで残している
自分にも 我ながら感心していました。
忘却の彼方に消えて行った記憶も手帳を見ていると、克明に記憶が蘇っ
て来ます。 アルゼンチン時代の汽車の路線時刻表も書いてありました。

アルゼンチンは長距離旅客列車の運行も昔に取り止めて、今では何も
残ってはいません、 全てが過去に消えています。

ブエノス・アイレスの首都にあった50年前の日系新聞の名前と住所に
電話番号が残って いました。らぷらた時報と亜国日報の2社の邦字紙
でしたが、どちらも今では廃刊となり、 昔の様にアルゼンチン全国に配達
されている様な事も無くなりました。

古ぼけた手帳ですが私の青春が詰まった、夢を描いた構図が残ってい
ました。 私の人生の微かな傷の様なほろ苦い書き込みもありました。

記憶の全てが手帳のページを閉めると同時に、過去に埋没する様な
錯覚を感じます。 埃を払い、掃除して机の奥深く今までの手帳を10冊
近く、全部しまい込むと同時に、 現在の時が、コチコチとまた動き出した
感じが致します。

2014年10月29日水曜日

私の還暦過去帳(560)


私は過去に二人のロシア人と中国人広東系の女性の移住の
遍歴を見ました。

今日はロシア人の女性の遍歴を書いてみます。
ロシア人の女性は両親がロシア革命からの亡命者で、シベリア
鉄道で満州に逃げ、それから朝鮮半島に下りて、日本海側の
港町で定住して、昔は段ボール箱が無かったので、木箱のお酒
のワインやウイスキーなどを入れる小箱を作り、主にアメリカ
に輸出していた様でした。


かなり有名な醸造所に納入していたと話していました。
地元の韓国人を使いビジネスも上手く行って、彼女は日本の治世
時代が一番幸せで、落ち着いて家族で生活出来たと話していまし
たが、 終戦でソ連の赤軍が侵入してくるとロシア革命の難民や
避難者達は見つけ次第に逮捕され本国に送り返されるか、その
ままシベリアに流刑されていた様でした。

重要なロシア革命からの逃亡者で指名手配されていた人物は逮捕
され、身元が分れば銃殺にされていた様でした。

両親達は彼女を連れて上海に逃げ、そこのロシア人社会にもぐり
込んで、そこでビジネスを開いて生活していた様でしたが、アメリ
カ軍が戦後進駐して来て、そこのパーティーに招待されて行き、
中国軍に協力していた、アメリカの義勇軍フライング・タイガー
の操縦士だった若いアメリカ人と知り合い、結婚してアメリカに
渡ったと話していました。
両親達はアメリカに親戚も居たので、アメリカ移住を考えて一人
娘には英語を上海に来てからは教育して、読み書きも出来ていた
と話していました。彼女はロシア語と少しばかりの日本語に、
英語も話せて、ロシア貴族の末裔としての教養がありました。

アメリカに移住して来て、両親達もアメリカ在住の親戚を頼り東部
のペンシルバニア州に住んで居たと聞きましたが、ハズバンドが
アメリカに帰郷してカリフォルニア州の空軍基地で働いて居た時に、
交通事故で亡くなり、再婚した新しい夫もベトナム戦争で空爆に行
きベトナム軍に撃墜されて、ヘリコプターで救助されたのですが、
その後遺症で後で亡くなり、彼女はフイリッピン基地など各地を
転々として居たのですが、私と会った時は一番下の次女とご主人
の軍人恩給でサンフランシスコ郊外のアパートに住んでいました。

彼女は政府の恩典で未だに軍のPXでの買い物が無税で出来ると
話していましたが、次女が大学を出るまで、学費も政府が出してく
れるので、それまでは頑張らなくてはと話していました。
その当時には両親達も亡くなり、次女も卒業間じかには家を出て、
一人暮らしをしていた彼女が、ご主人の遺品のアメリカ義勇軍
フライング・タイガーの空軍飛行服の皮ジャンバーを出して来て、
それを抱き締めて、『私はここまで人生を歩いて来たが、皆は
私を一人置いて、どこかに遠くに旅立ってしまった』と嘆いてい
ました。
私の人生はモスクワが出発点で、ここカリフォルニアのサンフ
ランシスコが終点になりそうだと言っていました。

彼女がいつも思い出話に話してくれた事は、新婚間じかな時代に
上海から台湾の台北まで、DC3双発飛行機の貨物機でバナナや
砂糖などを取りに行き、台湾海峡の晴れた空を助手席に座らせて
貰い、のんびりと二人で飛んだ事が今でも忘れられないと話して
いました。
人生を歴史に翻弄されて各地を歩いて来た彼女の奇遇な運命を
私は感じていました。

2014年10月26日日曜日

私の還暦過去帳(559)


馬に蹴られるー!

こなん経験がある方は珍しいとおもいますが、私にはあります。
 昔ですが、かれこれ60年ほど前は日本では農耕は牛馬でした。
特に戦後から10年ぐらいは殆んどがまだ農家には牛馬が飼われ
農耕などに使われ、私が住んでいた田舎でも、あまりトラックも
走っていない時代で、かれこれ60年ほど前でした。

馬車で田舎から原木の丸太を運んでくる馬車が、その当時は残っ
ていましたが、近所のアスファルトのなだらかな坂で、馬の脚轍
にしてある鉄環が滑り、坂を登れない馬車があり、かわいそうで
良く見ていました。大きな杉の丸太を何本も積み込んであり、かな
りの重量だと思いました。
馬は御者に激しく尻を叩かれ、もがいて登っていました。
子供心に可愛そうだと思い、登り切ると少し馬車が休むので、バ
ケツに水と、畑のキャベツの外の食べない葉などを持って待って
いると、『有難うさん、助かるね・・』と言って少し長めに休んで
行きました。
馬がバケツ一杯の水をアッと言う間に飲み干して、バリバリとキ
ャベツの葉を食べているのを見ていました。
ある時、丸太を運んだ帰りの空の馬車に会うと、御者が『乗りな!』
と言って、友達と3人で乗せてくれました。
御者は馬のたずなを引いて歩いていましたが、ポコポコと歩く馬車
が、かなり揺れるのには驚きました。
それから直ぐにオート三輪車が出て来て、馬車などは見なくなりま
したが、その御者も直ぐに運転免許をとり、馬小屋を車庫に改造して
マツダのオート三輪車ロングボデーを買い、今では日に2往復出来
ると原木を運んでいました。
友達の家に遊びに行き、側の昔、馬小屋だった所を見に行きまし
たが、すべてが綺麗にかたずけられ、牧草が置いてあった所は納屋
に改造され、微かな馬小屋の匂いと、馬が齧った柱の傷だけがあり
ました。
それから幾歳月して、アルゼンチンのブエノス郊外で蔬菜栽培をして
居た時に狭い畑を馬で起耕していましたが、自分の首にたずなを掛け、
鋤を両手に持って歩くのはかなりの重労働です。
1ヘクタールぐらいで、へロへロに腰が砕けてしまう感じでしたが、
これも人生で良い経験でした。殆んどの方は馬で畑を起耕したなどの
経験は無いと思いますが、地下足袋が直ぐにボロボロになった事を
覚えています。
仕事が終わると井戸端で馬の汗を洗い、野菜くずなどを与えて労って
ていました。
仕事が終わって馬とパンパの草原が広がる農道を、馬の背に揺られて
散歩するのも良いものでしたが、馬のご機嫌が悪い時は、首を前にし
てストンと私を落として、歩かないと言うそぶりをして、尻を私に
向けて近寄れない様に後ろ足で軽く蹴っていました。
賢い馬で、朝起きると餌をくれと、大きく嘶いて騒いでいました。

サルタ州で農場の支配人をしていた時に、農場にはラバが二頭居まし
たが、トマト畑の畝間の除草作業に使うラバですが、夕方、時間に
なると絶対に尻を叩いても動かず、除草器具を曳いて、さっさと
広いトマト畑から、自分で歩いて馬小屋まで帰って来ていました。
馬小屋の前でジッと除草器具を外されるのを待って、囲いの中に入り、
餌を食べていました。
朝は時間になるとラバは大きな声で騒ぎ、『さっさとしろよな・・!』
と言う感じで、除草器具を付けて自分で先にたって歩いて行きましたが、
ぼこぼこに乾いた農道を、微かな土埃を立てて、朝日が輝く道を農機具
を曳いて歩く姿を今でも思い出します。

2014年10月12日日曜日

私の還暦過去帳(558)

戦場の匂い、

戦場の匂いを、かなりこの歳までに経験して覚えています。
戦前の生まれですから、戦時中の おぼろげな記憶ですが、
幼少時代の台湾での戦時中の記憶のかけらが残っています。

祖母と防空壕に入り、微かに防空壕の入り口から見える、
艦載機とゼロ戦との空中戦に、祖母が両手を合わせて『勝て』
と祈っている記憶があります。
 
空襲が激しくなり、台北から高砂族が住む辺りの山奥に家族が
疎開して、谷川に魚獲りに行った覚えも少しあります。
 
終戦後に父親の郷里の大牟田市に引き上げて来て、鹿児島本線
に貨物列車に米軍の車両が沢山乗せられて、朝鮮戦争に送られて
行くのを見ました。
福岡の板付飛行場から、朝鮮に出撃するセーバージェット戦闘機が
編隊で飛び立つのを見に行った事があります。
西鉄電車に乗り、弁当を持って駅から歩いて飛行場を見て歩いて
いました。
それからしばらくして、東京の大学に行き、飛行機が好きで、立川
や横田基地に見学に行き、その当時まだ米軍が駐留していた立川基
地の周りを見学に歩いて、戦場の匂いを感じていました。
 
その頃にはベトナム戦争も始まっていて、横浜からの環状道路には
負傷兵を運ぶ軍用救急車を見ました。
南武線には川崎から横田基地に運ぶジェット燃料の貨物タンク列車
が行き交い、平和な日本でもベトナム戦争の影響を感じていました。
 
大学を出て南米のパラグワイに移住してから、アルゼンチンに転住
して、ボリビア国境のサルタ州で農場の支配人の仕事を始めてから、
その地域が、ゲバラの残党が活動していたので、武装した国境警
備兵達がよく巡回に来ていました。
朝露にびっしょりと濡れて、乗馬で険しいジャングルの山道をパト
ロールして見回りに来ていましたが、時々、農場に来たので、温か
いコーヒーやマテコシードなどの飲み物や食事を出していました。
 
ジャガイモの煮込みなどが出来るまで、彼等は入り口のドアを開け
放して実弾が装填されたライフルを組んで、立てていました。
指揮官が持っている自動小銃はドアに立て掛けてあり、それらが見
えるテーブルに座り、出されたジャガイモの煮込みと、ガジェッタ
のパンを食べていました。
農場の犬達がジッとドアの外で座って兵士達が食べるのを見ていました。
私も初めて側で銃器に触れて、ここの地域が戦闘区域だという事を
見せつけられました。
 
南米から日本に帰国する時に、アフリカ経由で帰るオランダ船の寄港
先がモザンビークでした。首都のマプトの港に停泊していた時に、そこ
が戦場だと言う事を思い知りました。
その当時はポルトガル軍とモザンビーク解放戦線が激しい戦いをして
いた時代でした。首都のマプトは夜間外出禁止令が出ていて、夜の11
時過ぎて歩いていると、警告無しに射殺されていました。
郊外の難民収容所を見に行きましたが、生まれて初めての異常な体験
をする事が出来ました。それは悲惨な戦争難民の姿を見せ付けられた
からでした。
私がアフリカ経由で帰国する時代はベトナム戦争が激しく戦われて居た
時期で、シンガポールからの乗船者に、ベトナムに居た広東系ベトナム人
の避難者が香港まで乗船して来ました。
 
ベトナム沖を通過中に、アメリカの駆逐艦が発火信号を出しながら、
物凄いスピードで近寄ってきた時は、少しドキリとしました。
またアメリカのジット戦闘機が海面スレスレに編隊でベトナムの
沿岸に進入して行く姿を船上から見ていました。
 
その当時の香港はアメリカ海軍の航空母艦が休暇に寄港していて、
セーラー服姿の軍人が溢れていました。
そんな経験をして帰国しても、平和な日本にどっぷりと浸って、
少し平和ボケしている人達が、戦争反対と叫んでデモをしている
姿を見ると、日本は何んと幸せな国かと感じていました。

2014年10月6日月曜日

私の還暦過去帳(557)


昔の写真から・・、

先日から書斎の整理をしていました。
すでにビジネス関係は、あらかた税金関係も書類の保存義務も
過ぎて、殆んど破棄してしまいました。

貴重な、すでに亡くなった友人などの手紙も 読み返して記憶に
納めて、それも破棄致しました。
中から出て来た写真は手元に留めていましたが、かたずけの手を
休めて秋の昼下がりのお茶の時間に、ぼんやりと眺めていると、
過去に消えた遠い昔の思い出が、ふと・・、思い出され、懐かし
い顔も浮かんで来ました。
過去に流れ、二度と戻らない時の模様が灰色に染まり、そこの
僅かな隙間から、漏れ来る光のように、懐かしい顔がまぶしく
感じていました。
忘却からの長い時間を経て、昔の写真を見て思い出した事は、時
が止った50年も昔の光景でした。
時は流れても、記憶から蘇った光景は何か輝いて居る感じでした。

昔の記憶から取り出した一枚の写真でしたが、私がパラグワイから
アルゼンチンに出て来て、将来を模索して人生の道を探していた
短い間の事でした。
知人の紹介で働いていた所の園芸屋が、ブラジルに最初に笠戸丸
という移民船でブラジルに移民して、それから数年も経ずに、
当時の第一次大戦の影響で好景気のアルゼンチンにブラジルから
転住して来た家族達でしたが、その当時、母親だけは生きていて、
ご主人と長女の婿はすでに亡くなっていましたが、男の子供達が
5名も居て、それに次女の婿も働いていましたので、かなりの大家
族で店を支えていました。
その母親の苦労した話を聞かせて貰いましたが、ある日、私が潅水
をプラントにしながら、水加減を見ていたら、母親が自分で育てて
居るトマトの苗に水を与えに来て、『見てご覧なさい、ゴマ粒ぐらい
のトマトの種が、私の背丈以上も伸びて、枝が折れるぐらいにトマト
が成るのは、苗を地面に植えて、肥料をやり、水を与え、手入れを
するからこのトマトを手にして食べられるのだから・・』と言って

『貴方もこのアルゼンチンに根を下ろしたら、このトマトのように
自分を育てる様に頑張りなさい・・』と励ましてくれました。
側の小屋を指差して、『この小屋は家族で建てたものだ・・』と教
えてくれ、アメリカから輸入されるフォード車の枠木だったと話して
、この小屋に家族が寝起きして、今の基礎を築いたと話していま
した。

昼はそこにある昔からの粗末なテーブルでランチを食べていました
が、食後に母親が木の下の、涼しい木陰で子供達と家族がマテ茶
のボンベを飲みまわして、寛いでいる姿をジッと見詰める姿を思い
出します。