2014年10月12日日曜日

私の還暦過去帳(558)

戦場の匂い、

戦場の匂いを、かなりこの歳までに経験して覚えています。
戦前の生まれですから、戦時中の おぼろげな記憶ですが、
幼少時代の台湾での戦時中の記憶のかけらが残っています。

祖母と防空壕に入り、微かに防空壕の入り口から見える、
艦載機とゼロ戦との空中戦に、祖母が両手を合わせて『勝て』
と祈っている記憶があります。
 
空襲が激しくなり、台北から高砂族が住む辺りの山奥に家族が
疎開して、谷川に魚獲りに行った覚えも少しあります。
 
終戦後に父親の郷里の大牟田市に引き上げて来て、鹿児島本線
に貨物列車に米軍の車両が沢山乗せられて、朝鮮戦争に送られて
行くのを見ました。
福岡の板付飛行場から、朝鮮に出撃するセーバージェット戦闘機が
編隊で飛び立つのを見に行った事があります。
西鉄電車に乗り、弁当を持って駅から歩いて飛行場を見て歩いて
いました。
それからしばらくして、東京の大学に行き、飛行機が好きで、立川
や横田基地に見学に行き、その当時まだ米軍が駐留していた立川基
地の周りを見学に歩いて、戦場の匂いを感じていました。
 
その頃にはベトナム戦争も始まっていて、横浜からの環状道路には
負傷兵を運ぶ軍用救急車を見ました。
南武線には川崎から横田基地に運ぶジェット燃料の貨物タンク列車
が行き交い、平和な日本でもベトナム戦争の影響を感じていました。
 
大学を出て南米のパラグワイに移住してから、アルゼンチンに転住
して、ボリビア国境のサルタ州で農場の支配人の仕事を始めてから、
その地域が、ゲバラの残党が活動していたので、武装した国境警
備兵達がよく巡回に来ていました。
朝露にびっしょりと濡れて、乗馬で険しいジャングルの山道をパト
ロールして見回りに来ていましたが、時々、農場に来たので、温か
いコーヒーやマテコシードなどの飲み物や食事を出していました。
 
ジャガイモの煮込みなどが出来るまで、彼等は入り口のドアを開け
放して実弾が装填されたライフルを組んで、立てていました。
指揮官が持っている自動小銃はドアに立て掛けてあり、それらが見
えるテーブルに座り、出されたジャガイモの煮込みと、ガジェッタ
のパンを食べていました。
農場の犬達がジッとドアの外で座って兵士達が食べるのを見ていました。
私も初めて側で銃器に触れて、ここの地域が戦闘区域だという事を
見せつけられました。
 
南米から日本に帰国する時に、アフリカ経由で帰るオランダ船の寄港
先がモザンビークでした。首都のマプトの港に停泊していた時に、そこ
が戦場だと言う事を思い知りました。
その当時はポルトガル軍とモザンビーク解放戦線が激しい戦いをして
いた時代でした。首都のマプトは夜間外出禁止令が出ていて、夜の11
時過ぎて歩いていると、警告無しに射殺されていました。
郊外の難民収容所を見に行きましたが、生まれて初めての異常な体験
をする事が出来ました。それは悲惨な戦争難民の姿を見せ付けられた
からでした。
私がアフリカ経由で帰国する時代はベトナム戦争が激しく戦われて居た
時期で、シンガポールからの乗船者に、ベトナムに居た広東系ベトナム人
の避難者が香港まで乗船して来ました。
 
ベトナム沖を通過中に、アメリカの駆逐艦が発火信号を出しながら、
物凄いスピードで近寄ってきた時は、少しドキリとしました。
またアメリカのジット戦闘機が海面スレスレに編隊でベトナムの
沿岸に進入して行く姿を船上から見ていました。
 
その当時の香港はアメリカ海軍の航空母艦が休暇に寄港していて、
セーラー服姿の軍人が溢れていました。
そんな経験をして帰国しても、平和な日本にどっぷりと浸って、
少し平和ボケしている人達が、戦争反対と叫んでデモをしている
姿を見ると、日本は何んと幸せな国かと感じていました。

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