2014年10月29日水曜日

私の還暦過去帳(560)


私は過去に二人のロシア人と中国人広東系の女性の移住の
遍歴を見ました。

今日はロシア人の女性の遍歴を書いてみます。
ロシア人の女性は両親がロシア革命からの亡命者で、シベリア
鉄道で満州に逃げ、それから朝鮮半島に下りて、日本海側の
港町で定住して、昔は段ボール箱が無かったので、木箱のお酒
のワインやウイスキーなどを入れる小箱を作り、主にアメリカ
に輸出していた様でした。


かなり有名な醸造所に納入していたと話していました。
地元の韓国人を使いビジネスも上手く行って、彼女は日本の治世
時代が一番幸せで、落ち着いて家族で生活出来たと話していまし
たが、 終戦でソ連の赤軍が侵入してくるとロシア革命の難民や
避難者達は見つけ次第に逮捕され本国に送り返されるか、その
ままシベリアに流刑されていた様でした。

重要なロシア革命からの逃亡者で指名手配されていた人物は逮捕
され、身元が分れば銃殺にされていた様でした。

両親達は彼女を連れて上海に逃げ、そこのロシア人社会にもぐり
込んで、そこでビジネスを開いて生活していた様でしたが、アメリ
カ軍が戦後進駐して来て、そこのパーティーに招待されて行き、
中国軍に協力していた、アメリカの義勇軍フライング・タイガー
の操縦士だった若いアメリカ人と知り合い、結婚してアメリカに
渡ったと話していました。
両親達はアメリカに親戚も居たので、アメリカ移住を考えて一人
娘には英語を上海に来てからは教育して、読み書きも出来ていた
と話していました。彼女はロシア語と少しばかりの日本語に、
英語も話せて、ロシア貴族の末裔としての教養がありました。

アメリカに移住して来て、両親達もアメリカ在住の親戚を頼り東部
のペンシルバニア州に住んで居たと聞きましたが、ハズバンドが
アメリカに帰郷してカリフォルニア州の空軍基地で働いて居た時に、
交通事故で亡くなり、再婚した新しい夫もベトナム戦争で空爆に行
きベトナム軍に撃墜されて、ヘリコプターで救助されたのですが、
その後遺症で後で亡くなり、彼女はフイリッピン基地など各地を
転々として居たのですが、私と会った時は一番下の次女とご主人
の軍人恩給でサンフランシスコ郊外のアパートに住んでいました。

彼女は政府の恩典で未だに軍のPXでの買い物が無税で出来ると
話していましたが、次女が大学を出るまで、学費も政府が出してく
れるので、それまでは頑張らなくてはと話していました。
その当時には両親達も亡くなり、次女も卒業間じかには家を出て、
一人暮らしをしていた彼女が、ご主人の遺品のアメリカ義勇軍
フライング・タイガーの空軍飛行服の皮ジャンバーを出して来て、
それを抱き締めて、『私はここまで人生を歩いて来たが、皆は
私を一人置いて、どこかに遠くに旅立ってしまった』と嘆いてい
ました。
私の人生はモスクワが出発点で、ここカリフォルニアのサンフ
ランシスコが終点になりそうだと言っていました。

彼女がいつも思い出話に話してくれた事は、新婚間じかな時代に
上海から台湾の台北まで、DC3双発飛行機の貨物機でバナナや
砂糖などを取りに行き、台湾海峡の晴れた空を助手席に座らせて
貰い、のんびりと二人で飛んだ事が今でも忘れられないと話して
いました。
人生を歴史に翻弄されて各地を歩いて来た彼女の奇遇な運命を
私は感じていました。

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