2017年10月5日木曜日

私の還暦過去帳(596)

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

人生も76歳になり、20代でアフリカ大陸を旅行した思いや、訪ねた
先でのその地で果てた日本人達の草場の陰に眠る墓を訪ねると、望郷
思いを心に抱いて亡くなられた方々の思いが感じられます。

今でも散歩に出て澄んだ秋空に夕焼け空に暮れて行く夕日を見ている
50年近くも昔のまだ船旅の時代にインド洋の航海する船上から見
た夕日の壮大さ、荘厳さ、色彩の絵の具の筆では画き切れない様な
刻々と変化する色彩の多様さ、その全てが心のカメラに収めて過去を
辿る様に思い出しています。
アフリカ大陸の波状地形のヨハネスブルグに行く道を、友人とレンタ
カーを借りてオペールの新車で、波状地形の頂上から突進して、生ま
れて初めて160kmのスピードを出した時の感激、訪ねた現地人部落
で歓迎のダンスを見せてくれ、その当時、若い踊り子が乳房を出して、
腰ミノだけの姿で踊りの歓迎をしてくれた驚き、その踊り子たちに与
えたコインの貨幣をポケットなど何処にも無い姿の若い踊り子達が、
どこに入れるかと興味深く見ていたら、何と口の中に、ポイ!と入れ
ていたのには驚き、良い隠し場所だと感じていました。

アパルトヘイトの隔離政策で、都市部の繁華街から昼間見た黒人たちの
姿が消え、夜になると人影が消え、黒人達が一人も見当たらなかった驚
き、郊外のかなり離れた黒人住宅地の横を車で走る時に、白人達との格
差に驚き、また憤激したのを思いだします。
公園のベンチで『ヨーロッピアン・オンリー』書かれた看板の下で座
り、監視員が来ても『お前の英語は分からない』とか言って座ってい
た事や、桟橋の埠頭で白人の官吏が黒人の荷役労務者を痛ぶっている
の見て、船の出航前にその男の車を皆でガチにいたずらしておいたこ
とや、モザンビークの首都マプトの港で動乱からの避難民で、16歳の
少女が逃げて来る時に、命と食料の糧を得る為に幾度もレイプされ、
その誰かも分からない赤子を抱いて、魚を釣りながら物乞いしていた
姿を思い出します。
母乳が足らなく、ミルク缶を見せてこの子に飲ますミルクを買う金を恵
んで下さいと言うので、お金を与えると、買ってくるから子供を少しの
間抱いていてくれと言うので、その子を『神様が与えてくれた宝物』と
言って子供にキスして、走って買いに出ていました。
家族は全部殺されて、かろうじて生き残り、今は難民キャンプで暮らす
子供の世話と生きるという16歳の努力を見ると、何と日本は平和で同
じ年齢の子供が,幼稚かと感じましたが、夕方、釣った魚と、背中には
朝市で拾った野菜類などを持って、子供を抱いて難民キャンプに帰ると
話ていましたが、歩いて1時間掛かると言っていました。

私のアフリカの旅は動乱と、社会情勢が混乱した時代で、モザンビーク
もポルトガル植民地軍とモザンビーク解放戦線との戦いで、夜の11時
過ぎは外出禁止令で、そのあとは警告なしで射殺されていたマプトの街
でした。
その街でポルトガルン人に昔にマカオから連れてこられた先祖が広東人
達のチャイニーズが、日本にはどうしたら定住できるかと、ポルトガル
語で聞いて来たのを思い出します。
殆どのチャイニーズが中華レストランを開いて、商店を構えていました
が、逃げ出したいと考えているようでした。
ロンドンから移民してきたカフェー屋の主人、スイスから来ていたレン
タカーの受付の女性、祖先はインドのボンベイだというインド系、南ア
フリカも雑多な移民社会で、酒場に入り、酒を注文して、日本人だと言
うと酒を売ってくれたバーテンダーが、昔、横浜に行った事があると話
して、『日本は人種偏見が無いので良い国だ』とか言っていました。

それぞれの人生を秘めて、人は生きて、また生涯を終わるという事を感
じるのは、インド洋の真ん中にある、モーリシャス島に船が寄港した時
に、1505年にポルトガル人が発見して、オランダ人が入植して、フ
ランスが統治して、それからイギリスが奪い、1966年代に独立する
まで雑多な人種と国とが通り過ぎて、連れてこられた人々の歴史も雑多
で、乗船していたオランダの貨客船に遠洋漁業のマグロ船に働いている
中年過ぎの男性が、マグロの塊を持って遊びに来て、『日本の雑誌か本
でもありませんか・・!』と訪ねて来て、日本語を懐かしむ様に話して
いる姿を見て、2年に1回しか日本に帰国できないマグロ船の話を聞い
ていました。
彼に連れられて訪れた酒場に居た若い女性たちの混血の肌が、その島の
歴史を物語っていると感じていました。
昔に日本のどこからか売られてきた娼婦の墓もあると聞いたのですが、
出航の時にその方角に両手を合わせて祈りましたが、全てが歴史の中に
埋もれて旅人の郷愁を心に残す旅路だったと今では感じます。