2012年10月21日日曜日

第3話、伝説の黄金物語、(21)

旅の出会い、

私は6月12日から3週間ほどアメリカ各地の旅をしていました。

私が伝説の黄金物語の題材を話してくれた人も私が45年前に旅をしてい
た時に出会い、一夜の宿を提供してくれたその日の夜に聞いた話でした。

私も南米各地を歩いて、戦前の1920年から1935年当時の南米奥地に
住み着いた人達に会いましたが、1908年ブラジル最初の移民船笠戸丸
以前に南米ペルーの砂糖キビ農園に、ハワイから転住して来た人とアル
ゼンチンのサルタ州で出会いました。

アンデス山脈を徒歩で越えてきたと聞きましたが、アルゼンチン国境警備
兵が引く荷駄のラバにつかまり、雪が残る山道を歩いて越して来たと聞き
ました。

アメリカでもアリゾナ州の銀鉱山があるトゥームストーンで、1879年頃に
起きたワイアット・アープの兄弟とクラントン兄弟をはじめとするカウボーイ
達と撃ち合った『OK牧場の決闘』を物陰から目撃した日本人が居た事を
33年前にアメリカに来た当時に聞いた事が有ります。

彼は最初、金や銀の採掘を考えていた様ですが、彼が掘り当てたものは
良質の水でした。それを飲料水として、砂漠地帯の鉱山採掘現場にタル
に入れて馬車で配達していたようでしたが、それがビジネスとして成り立ち、
当時トゥームストーンで起きた『OK牧場の決闘』を目撃した日本人として
唯一の人物だったようです。
事実は奇なりという事ですが、富蔵の運命も同じ様に奇遇な道をたどり、
そしてまた過去に消えていったと思います。

今回、車の旅でネバダ州の広大な死の谷の横を通過いたしましたが、こ
の谷に迷い込んだ幌馬車隊が悲惨な運命をたどった事を思いながら車を
走らせていました。

ネバダ砂漠の荒れ果てた大地に今でも僅かに残る当時の建物を目にす
ると、富蔵が活躍した時代を思い出します。

話はブラジルのリオベールデに戻りますが、アマンダ兄弟の成功は町の
勢力地図も塗り替えてしまった。
地主や金持ち達の雇用者として、一介の労務者であった者が土地を持
ち、建物を構え、トラックを持ち、会社を開いて旧支配階級を倒して、権力
の代わりに自分らの集団力を町に定着させた事は大きな時代の前進で
あった。

街中の雰囲気も変化して来た。今までは彼等、地主達が主張する土地
と地域では一切、砂金の採掘が出来なかった。
それが公有地では僅かな契約金と税金を払えば採掘が出来る様になり、
多くの人達が集まり、町に活気と発展の波が押し寄せて来た。

アマンダ兄弟の倉庫と貸し金庫の横に田舎の銀行が支店を開きたいと
話を持って来たのをアマンダが富蔵に相談に来た。
富蔵は兄弟と話をして銀行と設計相談すると、『建物を自分達で建設し
て、それを銀行に5年契約で貸す』という話でまとめた。

その資金は富蔵が出資すると決まり、銀行も厳重な貸し金庫の隣で、
建物の建設資金も必要なく開店出来る話に、直ぐに5年の契約のサイン
をした。

話がまとまるとアマンダの親戚や友人達の建築の腕がある人間が直ぐ
に集まり、工事が始まった。
大きな看板が工事現場に掲げられ、その名前が『サンパウロ銀行支店
工事現場、開店まで2ヶ月』と書かれていた。

アマンダ兄弟の事業に大きな箔が付き、事業は転がり出したら止める
事は出来なかった。
砂金の採掘現場も増えた富蔵達も、邪魔が入る事も無く順調に事業が
進んでいた。砂金は定期的に、サムの飛行機でサンパウロに運び出し
ていた。

ある日、賞金稼ぎの男が足を負傷して採掘現場の小屋に助けを求め
て来た。親子の様で、足を酷く切り裂いていた。
息子が父親の足を介抱していたが、富蔵が見た瞬間、医者の診察を感
じていた。

折り良くサムの水上飛行機が到着して資材を降ろし、砂金の袋を積み
込んだ時に、富蔵がサムに声を掛けて、賞金稼ぎの男をサンパウロの
病院に運ぶ様に頼んだ。

サムも驚いて男を飛行機に抱え込むと息子も同乗して飛び立った。
富蔵はサムに車の手配と病院までの世話を頼んでいた。
後で聞いたが、緊急に病院に運んだのが良くて、足を切り取る事は無
かった様だ。

富蔵がサンパウロに戻り、その病院を訪ねると父親が感謝して息子と
二人で何度もお礼の言葉を述べていた。
退院してしばらは食堂の空き部屋に親子を泊めていたが、歩けるよう
になってリオ・ベールデに戻るトラックで戻って行った。

その親子の世話で富蔵がそれから何度も、その親子に命の危険から
助けられた。
土地の古い地主や金持ち達が妬みと反感を抱いていたからであった。

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