2013年4月28日日曜日

私の還暦過去帳(368)


  訪日雑感(20)

翌日は朝早く起きて、熊本からの旅立ちの用意をしていました。
大きな荷物が無いので、簡単に済んでしまい、朝食前に仏壇に手を合わ
せてお別れをしていました。

朝早い出発で、これで行くと今夜の池袋でのオフ会にゆっくりと間に合い
ます。朝食は簡単に済ませて家を出ましたが、駅にはいとこが送ってくれ
ました。

来年の再会をを約して駅前で別れましたが、特急電車で博多駅で新幹
線乗換えで東京まで行くコースでした。
レールパスがあるので、これが一番便利で安価な行動方法です。
比較的に空いている車内はのんびりとした感じで、駅弁などを食べなが
ら乗車していました。

小倉を通過する時に、窓際から母が居る方角に、『また来るから・・・』と
心の中で声を掛けていました。元気な間は、通って来ると思いますが、
後どれだけ続くか心配になりました。
日々に時が経つ事が早いので、何か自分と時間が競争をしていると思
います。

それは私が昔、住んでいた家の道路を隔てた向かいに住んでいたロ
バーツ氏はアメリカ海軍で第2次大戦中は潜水艦の乗組員でした。

ハワイの基地から、オーストラリアに行き、そこで最後の補給をすると
最前線のフイリッピン近海に日本軍の輸送船団を攻撃に出て、輸送船
2隻を撃沈して3隻目を攻撃中に船団護衛の日本軍ゼロ戦に発見され
爆弾投下で多大な被害を受け降伏後、捕虜となり、八幡製鉄の工場で
終戦まで捕虜収容所で働かされていたと言う人でした。

小倉駅から横浜まで終戦後、アメリカ軍の進駐の遅れから満員列車
にぶら下がり横浜まで、仲間3人と乗車したと話していました。

八幡からの引き込み線の機関車に乗り、米軍が飛行機で投下した食
料やタバコなどを、持てるだけ手にして乗車したと話して居ました。
タバコが現金代わりで、お握りでもミカンでも、何でも食べ物には困ら
なかった様です。
その彼が、一度死ぬ前に訪ねてみたいと話していたことを思い出し
ます。
『一度元気な内に・・・』と彼が話していた時を思い出して、なんと時間
が過ぎて行くのが早いかと感じていました。
八幡と小倉を訪ねたいという彼の願望も、昔の過去に消えて行きまし
たが、私が彼を連れて同行すれば安全に何も心配なく旅が出来ると
考えていました。

それも彼が病に倒れて、計画の全てが砕けましたが、今度は私がい
つの日に小倉に来れるかと言う事です、新幹線のスピードは一瞬に
小倉の景色を吹き飛ばすように消えて行きます。
心のカメラにパチリと写した光景だけが目に焼きついていますが、
消えないでいつまでも心の余韻にある私の思いです。

博多駅で乗り換えに時に買った駅弁を食べて、ぼんやりと、こっくり
と居眠りをしている間に横浜と言う声を聞いて、途中の景色も余り思
い出せませんでした。
東京駅から直ぐに山手線に乗り換えて、友人が日暮里駅近くで、お
風呂屋さんをしている銭湯で汗を流してから、池袋の友達のオフ会
に参加を考えていました。
十分に時間が有りますので、銭湯を訪ねてお土産を渡して、お茶を
ご馳走になり開店した一番風呂に飛び込みました。

手足を伸ばして、暖かい湯にのんびりと浸かる事は極楽です、しば
らくは開店して間もない人もまばらな湯に浸かりボーっとしていまし
た。
湯上りに番台にいる主人に挨拶して、裏の奥さんにも声を掛けてお
礼を言ってそこを出ました。ポカポカの湯上りが気持ちよく、日暮里
駅まで足取りも軽く歩いて行きました。

池袋では余りの人の流れで田舎者は、どこかさっぱり分からない待
合場所を探してウロウロしていました。何とか携帯で連絡し合って集
合場所にたどり着きましたが、この人の流れは、我々アメリカ田舎
者からしたら、目玉がまん丸となる凄まじさです。

さて・・、今夜はこれから皆と一杯、キュー!と湯上りに飲めると言
う事ですが、それは無理で、今では乾杯程度の付き合いですから、
お酒は余り縁がありませんが、楽しく話など出来ればと喜んでいま
した。

幹事さんの案内で近所の宴会場に皆と歩いて行きました。

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