2013年5月26日日曜日

私の還暦過去帳(375)

かれこれ数日前です、

アラスカからの低気圧がカリフォルニア州北部に、ストームの嵐として吹き
荒れましたが、山岳部では積雪が60cm以上もあり、平地ではかなりの雨
量になりました。
渇水で悩むカリフォルニア州には良き雪と雨でしたがその日、私は朝から
の雨で引退後に、週1日だけ残していた僅かな仕事を休んでいましたが、
夕方、雨が止んでいる時を狙って、オフイスのビルを見回りに行きました。

ガラーンとしたパーキング場は雨で濡れて、誰も居ない大きなビルデング
は静まりかえり、暗くなりかけた時でしたが、自動で点灯した外灯が点い
ていました。

空は暗く、雲は低く飛ぶように流れていましたが、雨もポツポツと落ちて来
て、何か嵐の前の静けさと思いました。

大きなオフイスビルの周りを見て周り、排水口の点検と清掃をして大雨に
備えていました。
風が吹き付けて、落ち葉が舞い、これから来襲する嵐の大きさを見せ付
ける様でした。あらかた終わり頃になると雨も激しく降り出して、慌ててト
ラックに乗り込み、一息付いていました。
その時、ふと頭の中を過ぎった思い出が有りました。どうしてそんな50年
以上前の思い出が私の心に湧いてきたか不思議でした。

当時の私は大学入学して帰郷する帰りに、東京からあちこちの国鉄線路
を乗り継いで郷里の福岡の自宅に帰っていました。
冬休み、春休み、夏休みも半分はアルバイトをして、旅の資金を貯めてか
ら歩いていたのでしたが、当時は東京オリンピック前で、何処でも建設工
事の仕事は幾らでも有りました。
嵐の雨風が吹きすさぶその時の思い出は、冬休みに帰郷する時に奥能
登の突端を廻る旅の思い出でした。

バスで能登町から、海岸線を登って行き、珠洲を経て、最北端の録剛岬
の突端を廻り、椿の展望台に抜け、大崎を経たコースを歩いていたと思
います。
最終は輪島市を目指していたのですが、バスで録剛岬に降りたときはミ
ゾレ混じりの雨風で気温も下がり、防水ヤッケを着て、バックパックを背負
い、顔は殆ど毛糸の帽子で目だけ出して、ヤッケのフードを頭から被って
いました。
泥道の濡れた田舎道です、人影も無く、まさに遠くで聞こえる潮騒の轟音
が響いて心細い感じと、ひしひしと我が身にその轟音を感じていました。
冬の夕暮れは早く、寒く、人里離れた山奥ですから侘しい限りの旅でした。

雲は日本海を低く舐めるように垂れ込めて、痛い様なミゾレが休みなく吹
き付ける様子は、いささか初めての体験で、これが冬の能登半島と体感
していました。
暗くなり、農道の様な道で直ぐ側では、日本海の大波が岸辺に打ち付け
る轟音を響かせていました。
道が分かれ、近くに農家らしき建物が在り、そこを訪ねて玄関を叩くと若
い女性が飛び出して来て、驚いた顔で私を見詰めていたのを忘れません。

当時の能登半島では、冬の農閑期は都会に働き手の多くが出稼ぎに出
ていた頃でした。建設ブームの東京では何処でもオリンピック前の工事で
人手が不足していた頃で、日本海側の豪雪地帯や、冬の仕事が無い所
では殆どの農家の働き手が都会に出ていた様でした。

私が玄関を叩いた家もその様な農家と思いました。
その女性は急げば輪島行きの最終バスが間に合うかもしれないと教え
てくれましたが、まだトンネルも無く、道は海岸線の絶壁の細い道しか無
いと言われました。
泊まる所もその付近には無いというので、輪島市行きの最終バスを目指
して歩く覚悟でいました。

その農家の女性は『主人が出稼ぎ不在で、女子供では男の人は泊めら
れない、』と話して気の毒そうにしていました。
時間が無いので急いで立ち去ろうとすると、トンネル工事で索道が開通
しているので、『海が荒れているのでそこを通過させて貰いなさい』と教え
てくれました。

外は暗くなり、しかし道は一本しかないというので、急いで礼を言うと歩
き出していましたが、道はぬかるみました。
登山靴は防水用のロウソクを塗り廻していたので、靴中は濡れないで助
かりました。
真っ黒い雲と、凄まじい風が横殴りのミゾレ交じりの雨となって吹き付け
ていましたが、最終バスに乗り遅れないように心急いで歩き、トンネル現
場に来たら、発破を掛けたばかりで危険だから今夜の索道は通過出来
ないと言われて困惑していたら、現地の二人の男女が来て、通れないの
だったら海岸線を歩くから、付いて来なさいと言われた時は、ホッとした
感じでした。

男女の二人は大きな荷物を背中に、大きな風呂敷で背負い胸の前で縛
り、両手は自由にして歩き出しましたが、海岸線と言っても日本海の怒涛
の波の飛沫が全身に被ると言う場所も有りました。

暗い中でもはっきりと分かる大波に海水が泡だって、その白い泡の塊が
風で吹き飛ばされ飛んで来るのが見えた時は、いささか驚いて、一人で
はとてもここを通過するのは危険と感じました。

昔には大波にさらわれた人も居ると聞いて、奥能登の冬の厳しさを見た
感じでした。
そこを通過して日本海の荒波を見た時に、どす黒い雲が海に境目が無
い様に低く流れていた様が、私の脳裏に焼きついたと思いました。

その有様が今日の仕事に出て見た空の色と重なり、50年前の思い出と
して突然に、この私の心に飛び出してきたと感じました。

私は海辺の思い出はこれ一つで、その思いが強烈だったので、終生忘
れないと思います。
輪島行きのバスは、昔の小型ボンネット型のバスで、僅かな乗客を乗せ
て発車いたしまたが、輪島駅前に到着して夜遅く駅前で降りたときはホッ
とした気持ちでした

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