2013年8月8日木曜日

私の還暦過去帳(405)


通信今昔物語、

現代の情報伝達の速さと、その変わり様の速さは驚くばかりです。 
昔の旧式な携帯電話はアナログで、大きさも弁当箱ぐらいの大きさで、
中には普通の受話器が付いているタイプも見られました。

簡易型と言っても、軍隊で使用したハンデ・トーキー型を少し小型に
した様な感じの電話も有りましたが、どれも型はかなり大きな感じが致
しました。
取り付けも車のトランクに本体の装置が置かれ、運転席はマイクとス
ピーカーが在るという感じでした。

それもいつの間にか、簡単に取り外しが出来る型になり、車両から他
の車両に移動出来るコンパクトな型になりましたが、まだその当時は、
アナログで音声も余り良く聞く事が出来ませんでした。

チョイと郊外に出ると、プッンー!と切れて話しが出来なくなりましたが、
まだ都会だけの携帯電話でした。
当時は通話料もかなり高く、少し話し過ぎるとびっくりする様な請求が
来て驚く事が有りましたが、近頃の宣伝を聞いていると、40ドルで、
通話時間無制限、メールも自由で、税込で40ドルと宣伝していました。

昔からしたら格段の安さです、それがデジタル通信となり、雑音や途
切れなどが極端に少なくなりました。 すでに現代の携帯電話通信は格
段の進歩と発展により、小型化、高出力、画像、ビデオなども簡単に
通信出来て、インターネットにアクセスしてE-Mailなども見る事が出来
ます。
便利な世の中になったと思います。 写真をパチンと写して直ぐにそれ
をメールに添付して送信出来ます。昔の事を考えると、月とスッポンの
差がある様に感じますが、まさに時代の変化です。

前回南米を旅した時に、インターネットのスカイプ電話で、ペルーの
プーノと言うチチカカ湖の側で泊まったホテルから、ベッドに寝転がっ
て娘と話していました。
それもインターネットは無料接続で使い放題のサービスでした。
おかげでネットで次の観光地を探したり、情報を得たりしていましたが、
時代の変化が、この現在の通信手段を根本から変化させていると感じ
ます。
私が今でも忘れられない光景を覚えています。それはアルゼンチンの
ブエノスから隣国のパラグワイに行く列車で、途中機関車の故障で小雨
の降る中、広大なパンパの大草原の真ん中に停車していましたが、
線路の側には電柱があり、通信線と思われる2本の電線が通ってい
ました。
車掌が降りて来て、竹ざおを先ず組み立てて、その先に電線に取り付
ける金具があり、先ず、一本目が電線に取り付けられました。
それから残りのもう一本も同じく金具を使い電線に取り付けられました。
それが済むと、手回しの電話機にコードを取り付けて、ボックスの横に
有るハンドルを、グルグル廻してどこか呼び出して居ました。
なんと悠長で、のんびりとした緊急連絡方法かと感心して見ていました。

でも連絡が取れて救援機関車がこちらに来ると言う事でした。
それを各客車に車掌が廻って知らせている姿を見ていましたが、50年も
前です、通信手段がそれしか無かった時代ですから、それと列車放送
などと言うシステムが無かった時代で、各車両を車掌が廻って知らせて
いたと思います。
客車も戦前の昔、イギリス製造の客車でしたが、アルゼンチンの古き
良き時代を走った列車と思いましたが、線路の路盤は悪く揺れて、窓
から見ていると雨水をバシャー!と飛ばして走って居ました。

私が居た農場も雨が降れば町と孤立して、通信手段も無く、車も走る
事が出来ずに馬でしか町まで出る事が出来ませんでした。
トラックターなどの部品が必要な時は、先ず注文をするのに町まで、
紙に部品番号などを書いて、サンプルを持たせて、知り合いの自動車
整備工場に頼んで注文をしてもらいましたが、手間の掛かる方法でした。

馬を操るのが上手な若いインジオが、近道だと増水した河を巧みに馬
を操り、50mばかり最後は馬が泳いで河を渡っていました。
対岸に馬が到着して若いインジオが河岸を上手く馬で登るとホットして
いました。
そんなに50年も前は僻地でしたが、数年前、サルタ州を訪ねて同じ町
を訪ねると、何処でも携帯が話せて、若い女の子がバイクに乗り、片
手で携帯で話しながら舗装道路の田舎道を走っているのを見て、昔は
なんと時間の無駄と、多くの労力を使っていたかと感慨に耽っていまし
た。

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