2013年8月11日日曜日

私の還暦過去帳(406)


メキシコのカボと日本人、

休暇でメキシコのカボに毎年出かけますが、この狭い町で日本人の歴
史と過去を見ることが出来ます。
メキシコ最初の日本人移民の末裔がホテルの受付で働いていたのです。
名前は日本人の姓ですが、顔形は殆どメキシコ人の特徴ばかりです。

4世と言うことでしたが、何代もここのメキシコ人と結婚して顔形もすっ
かり無くなっていると思います。30歳過ぎの女性でした。
まったく日本語などは話すことが出来ませんが、自分に日系の血が流
れていることに誇りを持っている感じでした。

それからレセプションの席で会った男性は、かなりの年齢でしたが、日
本人とコマンチ族のアメリカインデアンの女性との混血と話していました。
何処と無く日本人の風貌が残って、背が高い男性でした。
ネームの名札は日本人姓が書いてあり、日本語は話せないと言ってい
ました。

何かアメリカの歴史をその男性に感じる様でした。第二次大戦で西海岸
から強制退去させられ、強制収容所から希望して奥地の拘束されない
農場に移り住んだ日本人達がいたようでした。
そこでは強制労働ではなく給料も出て、比較的に自由に行動も出来たか
らでした。

私もアメリカに来て、強制収容所を出て農場で働いていた日系人を何人
も知っているので、その時にローカルの住人と結婚した人も居ると聞いた
事がありますので、その様な事情で生い立ちを刻んでいると思います。

その様な方がメキシコまで移り住んで生活しているという事は、アリゾナ
か、ネバダ州 で育ち、メキシコ人の女性とアメリカで結婚して、メキシコ
に移り住んだと感じます。

先日、町を歩いて道を聞いたメキシコ人の女性が、日本語をペラペラ話
して道を教えてくれたのには驚きました。

彼女は大阪に日本人男性と結婚して8年間住んで、12年前にメキシ
コ、カボの郷里に戻って来たと話していましたが、20歳になる娘が居て、
大学で勉強していると話していました。
まったく奇遇な出会いでした。お土産屋のマネージャーをして居ると話し
ていましたが、 近頃はJALパック・ツワーがカボから撤退したので、日本
人観光客も来なくなり寂しく なったと話していました。

狭いカボの下町です、数年前は日本人のインターネットカフェー屋があり、
日本人の 寿司職人も居たと聞いていましたが、それも現地人やアメリカ
人が寿司の技術を学んで独立して行ったと、知り合いのメキシコ人が話し
ていました。

今では日本人の店も無くなり、アメリカ人達が溢れる町に変貌しています。
毎日の様にカボの港に寄航する、大型クルーズ船が吐き出す観光客が、
一隻から1500名もの人を町に送り出すのですから、それは様変わりする
のも当たり前と感じます。

アメリカの巨大な資本が投資して、メキシコもトップの不動産投資会社が
土地を買い 占めて、ホテルやゴルフ場、コンドなどの開発するのですか
ら、日本人の個人などが 競争できる力は無いと感じました。

ハワイと同じ緯度で、もっと気候が良く、乾燥した爽やかな空気と、殆ど
3時間程度で アメリカから来れる距離と物価的な安さと言うのは、アメリカ
人には魅力的な場所と感じると思います。

ハワイは西海岸から5時間半程度も掛かり、アメリカといっても距離がか
なりある場所 よりも、カボはロスやコロラド州デンバーからでも2時間半程
度の距離は車でも走って来れる場所です。
人の流れまで変えてしまった町と感じます、昨日、部屋を掃除に来ている
メイドに聞いたら アカプルコから転住して来たと話していました。

ご主人は近くのホテルで働いていると話していましたが、10年で10倍も人
口が増えた 町が納得できますが、カボの町でダイビング潜水の仕事をし
ていた日本人女性が先月、 離婚して子供を連れて日本に帰国してしまっ
たので、今では誰も日本人で働いている 人は居なくなったと聞いています。

私が知っている過去10年で、時は流れ、変化して人の代わり様も激し
いと思う感じです。

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