2013年1月2日水曜日

私の還暦過去帳(334)

旅に出て、
時過ぎて無情の過去との出会いかな・・、

今年も8月が訪れて祖国日本からの横浜の港を出港して48年が経ちました。
日本を出て48年の道筋を歩いてきましたが、途中日本で生活して子育てを
した時期もあります。

蚕棚の移民船のベットでは当時は冷房装置も無く、甲板にキャンバスの大
きな覆いの下で日中は話したり、夜涼しくなって甲板でごろ寝していた思い
出があります、当時から南米に渡る移民船にはかなりの呼び寄せ花嫁達が
乗船していました。

南米のボリビアとアルゼンチン国境の奥地で戦前の移住者で戦後北海道
から呼び寄せられた若い素敵な女性が花嫁で来ていました。
47年前のあるときその農場を訪ねて、お茶を接待され話をした事が有りま
した。
今でも印象に残っていますが小高い農場を見渡せる丘の上の住宅で使用人
に囲まれて優雅に暮らすような感じでしたが、何か歳の離れたハズバンドと
暮すその女性には充たされない何かがある感じでした。

4年前の7月に44年ぶりにそのアルゼンチン、サルタ州のエンバルカシ
ョンの町を訪れて、44年の歳月を経てからの消息を私が過去に世話にな
った人や知人や親友達の話しを聞きましたが、3分の1は亡くなり数少ない
当時の日本人達は四散して、一家族しか残ってはいませんでした。

北海道から呼び寄せられて来ていた若い女性の花嫁は、私がエンバルカシ
ョンの町を離れてしばらくして若い男と逃げたと聞き、姉に連れられて来てい
た若い女性も、結婚すると話していた男性とは結婚する事無く、連れて来た
姉が事故死すると、年上のかなり年齢の離れた姉のハズバンドと結婚して、
その地を離れて行ったと聞きました。

時は廻り、時代は進み、止まる事無くこの世は変化しています。

亡くなった友を訪ねて墓地を訪れた時に、落ち葉に埋もれ墓標を落ち葉をか
き分けて刻まれた碑銘を読んだ時、何か不思議に涙がこぼれました。若くし
て戦後まもなくペルーから父親の事故死で日本に母親に連れられて帰国して、
2世で日本語も余り話せず、苦労したことからアルゼンチンに居た叔父を頼
ってサルタ州の田舎に来ていたのでした。

4人の子供達を残して34年も前に若くして病気で亡くなった彼を思うと昔、
魚釣りや狩猟に行った思い出と、苦労した妻の話が混同しての涙だったと思
います。町に5家族居た日本人も、すでに一家族だけで、その子供達も 残
るは一番下の娘だけでした。

その叔父も60年近くも一度も日本に帰国する事無く、85歳でまだ農場を
維持していて、24年近く前に雨で家の周りに伸びた草を仕事が終わり、ト
ラクターで倒して綺麗にして家に入り、蛇避けの皮の長靴を脱ぎ、スリッパに

履き替えて、裏のドアを『暗くなったから家に蛇が入り込まないように』と閉
めに行き、そこで不幸にも家に進入している毒蛇と遭遇して足のくるぶし下を
噛まれ、その毒蛇もガラガラ蛇よりもっと猛毒の毒蛇で、インジオ達が昔、
毒矢の先に塗ったという猛毒を持つ蛇でした。

私も一度遭遇して肝がチジミ上がった事が有ります。ガラガラ蛇は警告に尾
の鈴を鳴らして脅しますが、その毒蛇は大きな三角の頭で胴が短く、飛び掛
るように襲って来ます。

昔、私は農場見回りの時は必ず拳銃に蛇撃ち様の散弾を詰めた弾を込めて
いました。そして皮の長靴を履いて左手に懐中電灯を右手に1mぐらいの杖
を持って夜は歩いて居ました。用水路など蛇が寄って来る場所の見回りで、
いつも用心していたのでした。
しかし、私のボスでもあった彼は85歳と言う生涯を毒蛇に噛まれて生涯を
終えたのでした。
ボスは1991年に85歳で 居住の家の周りの草をトラクターで倒して家に
戻り、毒蛇に足のくるぶしの 血管部分を噛まれ、農場に働いていたインジオ
に手紙を持たせて血清注射を至急持って来るように頼みました。

その時、雨が降り出していて、しとしと降る雨が道路を閉鎖して、 トラックも
馬も動く事が出来なかったのでした。
それも運命と娘は話していましたが、インジオが6時間掛かってぬかるみの
どろどろ道を歩いて連絡したのです。

町に住んでいた娘に手紙を渡して、町では救援隊を出す事になり 四輪駆動
の大型トラックターが用意され、看護士が血清を持って 4名の援護でぬかる
みの泥道を走り、雨降る中を10時間も掛かって 到着したそうですが、すでに
毒が身体中に周り、血清は効かなかったようでした。

昏睡状態で運搬途中、坂のクルーネグロと言う所で息絶えたと言う事でした
が、ワイフもその騒ぎで心臓麻痺の症状で入院して、しばらく農場は放置さ
れ、その間に農場の施設は全て持ち去られ、家の屋根まではがされて、
窓枠、便器、洗面台、タンスまでトラックで来て盗み去られたという事でした。

その後は全て火をつけて焼き払われ、今では土台とレンガの枠が あるだけ
で、何も残ってはいないという事でした。

それを聞いた時は、呆然として涙が出てきました。

一度も祖国日本に帰国することなく、サルタの山奥で毒蛇に噛まれて亡くな
ったのです。農場に行く道も放置され四輪駆動の大型車か、大型トラクター
でしか通過することが出来ないという事でした。
無残に荒らされた農場を見たくは無く、訪ねる事はありませんでした。

今ではその土地は貸し出され、カボチャが植えられていると言う事でしたが、
僅かにバナナが残っていると言う事でした。

今ではGoogleマップでのインターネットで 現場を鮮明に見る事が出来ます。

『ポインタ・23” 11’58、51”S 64 09’48,93”W
 高度314mから見ると農場の全景とベルメッホ河がボリビアから
 流れ出している事が目視できます』

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