2011年9月10日土曜日

私の還暦過去帳(48)

私は終戦で台湾から引き上げて来ました。

九州の福岡に引き上げて来るまで、まず九州弁は話せませんでした。
それから引き上げて来る時に一番高価で、良い物を持って帰りましたの
で、それが物資不足の時に田舎では、ねたみの元でした。
散々いじめられて強くなって行きました。

そんなわけで、ハングリー精神が心に生きています。
「米の飯と、お天道様はついて廻る、」正解ですーー。
現在は帰化もして、パスポートはアメリカです。墓も造りまして、永の
住処としての場所も持っています。何の心の迷いも有りません。
淡々と生活して、悔いの無い時間を過ごしています。

今までの時間と、過去の行き方を振返っても何の悔やみも湧いて来ませ
ん。それだけ自分の人生を一生懸命生きて来たと思います。三人の子供
を連れてアメリカに移住して来て、子供の将来に掛けて頑張って来まし
たが、私はあくまで土台作りです。それも成し遂げたと思います。

2003年5月11日、母の日でしたが、次男から電話が有りまして、18
日の日曜日に、大学と、大学院の卒業式総代で主席スピーチをすると話
してくれました。
ワイフとそれを聞いた時に、「ジーン!」とこみ上げて来るものが有り
ました。

バークレーを出てから、大工の見習いをしながら、奨学金を貰える大学
を二ヵ年捜して、特待生での授業料免除での大学院生活を始めて、生活
費はスクールローンと夏休みでの仕事で賄い、二年目はローンを取らな
かったと言っていました。

夏休みの間、大工の仕事で稼ぎローンの二年目は銀行に返したと話して
いましたが、そんな生活をしていながら、学位の最終、口頭審査での試
験を、四人もの審査官での、二時間の質問にも答え切ったと言った息子
の声に、これまでに積み上げた自分の研究成果が実ったと言う自信が現
れていました。

35年前にサンフランシスコの飛行場で国際線の出口から、オムツを付
けて、ヨチヨチと出てきて、「パパ~!」と声を掛けてくれた次男が目
に焼き付いて忘れられません。
親にも迷惑掛けずに、アメリカ流に自分で仕事をして、これまでたどり
着いた次男を思って、電話の前で涙が込み上げてきました。

私のアンリカーン.ドリームが実現したのです。
私は子供にチャンスのみ与えて、育てました。
子供達は自立心と言う二本の足で立ち、歩いています。
60近くで子供に貰った中古パソコンで始めたインターネットですが、
お祝いのメールを打つ、キーボードにこれまでの苦労が全て消えて行く
様でした。

ひとそれぞれ、行く道は違えどもーー、人間たどり着く所は、皆同じで
す。悔いの無い人生、これこそ自分に一番幸せな生き方では無いかと思
います。
これから眠りに付きますが、明日の朝に永遠に目が覚めなくともこれま
での自分に生き方には何も悔いは有りません。
後わずかになった我人生ですが、好きな有機野菜栽培でもしながら淡々
と過ごして行きたいと思っています。

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