私の還暦過去帳(48)
私は終戦で台湾から引き上げて来ました。
九州の福岡に引き上げて来るまで、まず九州弁は話せませんでした。
それから引き上げて来る時に一番高価で、良い物を持って帰りましたの
で、それが物資不足の時に田舎では、ねたみの元でした。
散々いじめられて強くなって行きました。
そんなわけで、ハングリー精神が心に生きています。
「米の飯と、お天道様はついて廻る、」正解ですーー。
現在は帰化もして、パスポートはアメリカです。墓も造りまして、永の
住処としての場所も持っています。何の心の迷いも有りません。
淡々と生活して、悔いの無い時間を過ごしています。
今までの時間と、過去の行き方を振返っても何の悔やみも湧いて来ませ
ん。それだけ自分の人生を一生懸命生きて来たと思います。三人の子供
を連れてアメリカに移住して来て、子供の将来に掛けて頑張って来まし
たが、私はあくまで土台作りです。それも成し遂げたと思います。
2003年5月11日、母の日でしたが、次男から電話が有りまして、18
日の日曜日に、大学と、大学院の卒業式総代で主席スピーチをすると話
してくれました。
ワイフとそれを聞いた時に、「ジーン!」とこみ上げて来るものが有り
ました。
バークレーを出てから、大工の見習いをしながら、奨学金を貰える大学
を二ヵ年捜して、特待生での授業料免除での大学院生活を始めて、生活
費はスクールローンと夏休みでの仕事で賄い、二年目はローンを取らな
かったと言っていました。
夏休みの間、大工の仕事で稼ぎローンの二年目は銀行に返したと話して
いましたが、そんな生活をしていながら、学位の最終、口頭審査での試
験を、四人もの審査官での、二時間の質問にも答え切ったと言った息子
の声に、これまでに積み上げた自分の研究成果が実ったと言う自信が現
れていました。
35年前にサンフランシスコの飛行場で国際線の出口から、オムツを付
けて、ヨチヨチと出てきて、「パパ~!」と声を掛けてくれた次男が目
に焼き付いて忘れられません。
親にも迷惑掛けずに、アメリカ流に自分で仕事をして、これまでたどり
着いた次男を思って、電話の前で涙が込み上げてきました。
私のアンリカーン.ドリームが実現したのです。
私は子供にチャンスのみ与えて、育てました。
子供達は自立心と言う二本の足で立ち、歩いています。
60近くで子供に貰った中古パソコンで始めたインターネットですが、
お祝いのメールを打つ、キーボードにこれまでの苦労が全て消えて行く
様でした。
ひとそれぞれ、行く道は違えどもーー、人間たどり着く所は、皆同じで
す。悔いの無い人生、これこそ自分に一番幸せな生き方では無いかと思
います。
これから眠りに付きますが、明日の朝に永遠に目が覚めなくともこれま
での自分に生き方には何も悔いは有りません。
後わずかになった我人生ですが、好きな有機野菜栽培でもしながら淡々
と過ごして行きたいと思っています。
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