2011年9月5日月曜日

私の還暦過去帳(44)

だいぶ昔の事でした。

アメリカには沢山の難民が住んでいます。サンフランシスコの近くフリ
モントの近くには、アフガン難民が2万人以上も集団で住んでいます。
アメリカで一番多くまとまって住んで居る所と言われて居ます。日本で
は年間数えるだけの難民しか受け入れてはいません。それだけアメリカ
では寛大な移民政策が取られているからです。私はアフガンの友人の結
婚式にも招待されて行った事が有ります。

レーガン大統領が政権を持って居た頃に、難民でアメリカに入国した沢
山のアジアからの難民達が、英語を覚えなければ生活保護を切られてし
まう法律が出来て、英語を学び、職業訓練を受けてアメリカ社会に入っ
て行きました。

私の仕事は不動産管理の仕事です。お客の不動産のレントハウス、アパ
ート、オフイスビルなど、それからお歳寄りの家の管理もしています。
何でも屋です。直ぐやる課の課長ですがーー、器用な性質で何でもこな
します。中国人のレントハウスでの仕事でした。

テナントが出ていき、残した家財の不用品や、ゴミのかたずけを頼んだ
所が、カンボジア人の夫婦が仕事でやって来ました。家主との契約で私
が管理しているので、全てを私が見ていました。使える物と、捨てる物
に分けて、トラックに積み込み家の中をかたずけ行きました。

お昼のランチになって、私は夫婦とお昼ご飯の弁当を食べる事になりま
したが、弁当を開いて、手を合わせて、「イタダキマス~!」と声を出
して食べ始めると、彼等も同じく手を合わせて、何か言って食べ始めま
した。

同じお米のお昼ご飯の弁当です。彼等はスプーンで、丸い重ねた弁当入
れを広げて食べ始めましたが、何か美味しい匂いがします。鳥肉をカレ
ーで煮たような感じの食べ物でした。それをご飯と食べていました。あ
らかた食事が終ってから、お互いに下手な英語で話しに夢中になってい
ました。

お互いに仏教徒で、そんな話しから、「仏陀を信じているかーー、」と
聞いて来ました。私が「少しはーー!」と話すと、彼は「私は心から信
じている、」と言うと、小さな石のカケラを見せてくれました。真中に
穴が開けられて、皮ひもで首に掛けていましたが、両手で挿むと、それ
を拝む様にして見せてくれました。

それから彼がどうして、この石を身に付ける様になったか話してくれま
した。夫妻はカンボジアを、ポルポト政府の兵士に追われてタイまで逃
げて来たと話してくれました。

途中で沢山の人が国境を越えられず捕まって殺されていったと、話して
いましたが、奥さんがタイ語が上手く話せて、前に木材をタイに運んで
いた事で知り合いが沢山いて、逃げる手引きをしてくれた様です。しか
し全ての全財産をドルと貴金属に換えてわずかな食料を持って国境近く
まで逃れて来たそうですが、すでにその時は、ポルポト兵士が、逃げ道

に地雷を敷設して、安全な抜け道は無くなって、夫婦と二歳の子供は先
に逃げた人の足跡を探しながら、奥さんが子供を、主人が荷物を背負っ
て一歩、一歩とジャングルを歩いて来たそうですが、途中でポルポト兵
士に捕まり、後ろ手に縛られて頭からビニールの袋をかぶせられて、窒
息死している無残な死骸を沢山見たそうです。中には、首を切り落とさ
れたり、激しい拷問を加えた死体も見たと涙ながらに話してくれました。

逃げてくる人々の財産が目的と、それと知的なインテリー達が死の迫害
を逃れて来るのを摘発する為に、ポルポト兵士は情け容赦無く殺して居
たそうで、彼等もあとわずかな距離で国境に近くなった時にポルポト兵
士に発見されて、追跡を受ける様になり、死を覚悟して地雷の埋まった
場所を歩いて行ったと言う事でした。

この話しの続きは次回に致します。
壮絶な話しでしたーー。

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