2011年9月3日土曜日

私の還暦過去帳(43)

かれこれ46年ほどになりますが、かなり古い話です。しかし私が書か
ないと、この様なインターネットには言葉では残せませんので、書いて
おきます。その話しは私がアルゼンチンのブエノス、アイレスに滞在し
て、農業をしながら普通の生活を郊外の町でしていた時の事です。

バック、パッカーと言われる、放浪者での旅では有りませんでした。
生活を土地と言う大地に根ざして仕事をしていた時代で、現地の人に
色々話しを聞いて、1920年から30年頃の話しの物語を聞く事が
出来ました。その方はアルゼンチンに日本帝国海軍の親善訪問での

航海でブエノスに来た水兵でした。私も覚えが有りますが1965年
頃に同じ戦後の自衛隊の練習艦隊がブエノスに来た時です。多くの
水兵が郊外のチーグレと言う歓楽花街が有る場所に沢山来ていました。
男が要求する生理的な要望として来ていた様です。その帝国海軍の方

もただの一兵卒としての任務として、親善訪問での航海に水兵として参
加していたと思います、幾人かの仲間の水兵と時代も違いますが、郊外
の同じ様な歓楽花街に遊びに来ていた様です、しかし彼は無類の酒好き
でワインをしこたま飲んで、かなりの溺酔状態に近かった様で、慣れな

いワインでかなり悪酔い状態だったと推察されます。仲間に遅れて駅に
たどり着いた所が、運悪く反対側のまったく別方向に行く長距離列車
に乗りこんでしまい、ブエノスの街に戻る汽車と信じて、安心して
乗っていた様で、ブエノスの駅は終点で港の直ぐ側でしたので、酔い

もあって終点に着いたら、歩いても港に帰ることが出来る事から信じて
安心して寝込んでしまったと思われます。しかし彼の悲劇はそこから
始まったのでした。目が覚めて起きた所は見も知らないパンパの大草原
の田舎の駅、言葉も全然分らなくて、金も無く、連絡しようにもその

方法も思い浮かばず、連絡する住所や地名さえまったく知らない所に
水兵服姿のままで放り出されてしまい、その衝撃は計り知れない事と思
ます。しばらくは茫然として放心して、活路を捜して居たようですが、
何しろ言葉が一言も話せず、どちらの方向がブエノスかも分らず、ただ

浮浪者同然にして歩いて居た様です。おそらく空腹とやつれ切った姿で
居た所を、ある婦人が若い水兵姿の東洋人を見つけて自分の農場に連れ
て行き面倒を見て、住居と食事が出来る様にし、仕事も与えて生活が成
りたつ様にした様です。近所には誰も東洋人も居ない場所ですから意思

の疎通も無かった様ですが、しかし彼は救われた恩義と帝国練習親善艦
隊はとうの昔にアルゼンチンを離れ、祖国に帰還してしまい、その事を
考え溺酔して、脱船者として、脱走水兵の汚名を着てしまったと覚悟し
たのか、真面目に農夫としてそこで仕事をして言葉も覚えて、かなりの

年月を過ごしてから日本人と交流する様になって、初めてその事を明か
した様です。その様にして一生をアルゼンチンの大地で過ごした方が居
ると言う事を歴史の中でほんの僅かなページですが、残しておきたいと
思い書いたしだいです。

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