2012年4月29日日曜日

私の還暦過去帳(237)

だいぶ前ですが、私が引退を決めていた歳になった時でした。
私が思い、考えて計画していた事は余り沢山では有りませんが、心安ら
かに、自分の残りの人生を有意義に過ごせればと感じて居ました。

私は若い頃から沢山の異国の地を踏み、訪ね、さ迷い、人に会い語らい、
数々の人とすれ違ってきました。
今で言う、バックパッカーと言う感じの方と沢山46年も昔ですが会い
ました。 それぞれの考えで、行動して歩いていた人達です。

昔は飛行機などの移動は金銭的にかなり厳しい時代で、高額な飛行機代
など、とても無銭旅行者には無理な時代でした。汽車と船が主要な交通
手段で旅行していた時代ですが、内陸では長距離バスも、かなり主要な
路線で走っていました。

アルゼンチン奥地の、ボリビア国境から2時間ほど降りてきて、当時の
国際列車と言っても、古ぼけた戦前のイギリスで製造された客車でした。
3等は木のベンチで、1等は革張りで、天井などはかなりの飾りがある
優雅な電球も付いていました。その様な列車を駅で見ました。今では

アルゼンチン国鉄も民間に売却され、廃止され、昔の面影も勢いも全て
無くして、5年前にアルゼンチンを訪ねた時は廃線の如き線路がパンパ
の草原を横切っていました。
現在の長距離列車はツクマンまでしかないと聞きましたが、寂しい限り
ですが、バス路線はかなり田舎の小さな町まで、網の目の様に伸びてい
たのには驚きました。

それと、国道が46年前と同じ対面交通での2車線で5号線の国道も同
じ様な車の流れでした。複線になっていた道路はブエノスの近郊だけで、
私が46年前にボリビア国境から、トラックを運転して来た道と同じで
した。私が拾ったヒッチハイカーは白人のドイツ人だったと思います。

道端のトラック・ストップのレストランとガソリン・スタンドが兼用で
営業していた田舎の店でしたが、ポツーンと道端に立っていました。
2時間ばかり走った町まで乗せてくれと聞いてきましたので、相棒の運
転手の一人は後ろの寝台で寝ていましたので、乗せることにして走り出
しました。

無口な金髪の若い男性でしたが、私が東洋人でしたので、興味があるら
しく話しかけて来て、お互いに下手なスペイン語で会話していました。
彼の両親は戦争で亡くなり、祖父に育てられ、その祖父も亡くなると旅
に出たと話してくれました。パンパの大草原を走りながら、ドイツから
来た若者と言葉を交わす奇遇を感じていました。

私が訪ねた言葉が『旅をしていて、人生が楽しいか?』と言う質問に帰
ってきた答えが、『今は有意義で楽しくて、生きがいを見るが、歳を取
り、老人となっては、悲惨かもしれない』と言う言葉を聞いて、一瞬、
『ドキリー!』とした感じを受けました。
その時、私が思い出した日本人が居たからでした。

その人は旅で漂泊の人生を送り、50歳近くなりインジオの女性と僅か
な畑を耕して、自給自足の様な生活をしていた人を知っていたからでし
た。コカの葉に溺れ、アル中の如く酒を飲み、無気力な生活で満足して
生きている人でした。人それぞれの道行きですが、遠い異国の空に、
自分を見失い生きている人生の人間を、ドイツ人のヒッチハイカーの若
者の言葉で、ギユー!と心に感じ、考えさせられました。

引退時期になって、ふと思い出してその事を思うと、昔の事ながら、お
そらくは今では生きては居ない人と思いながら、人生の選択が自分の人
生の生き方と重ねると、何とも言葉に表す事が出来ない事を感じました。

今の世の中で、現代社会の若者が自分の指針を探す事も無く、フリーター
と言う仕事で、人生を生きなくてはならない考えを持った人が多くなっ
た事は、時代が繰り返すと、思うことが有ります。

私が住んでいる町に、メキシコでも貧しいユカタン半島近くから来たメ
キシコ人の不法労働者が毎朝道端に並んで仕事を探しています。真剣な
眼差しをした若い彼等がバスを乗り継ぎ、アメリカに到達して国境のフ
ェンスを乗り越え、砂漠を歩き、メキシコ国境から800kmは北に上
がったサンフランシスコ郊外の道端で仕事を探し、働き、家族を養う為
に旅した行程はいかなる情熱の人生の旅かふと考えていました。

人生の生きがい、その道行の先を、彼等がいかなる情熱で行動したか一
度、聞きたいと思いました。

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