2012年4月10日火曜日

私の還暦過去帳(220)


私が子供を連れて、事業の全てを捨てて、完済まじかな自宅も
売り払い、全てを賭けて移住を決心した最大の動機は教育でした。

2ヶ月間、37年前に、もう一度白紙で移住に適する場所探しで
したが、ブラジルもアルゼンチンもカナダも、オーストラリアも
当時の 環境では私の心を満足させる環境では有りませんでした。

家族5人、生まれて間もない次男も含めて、これからの骨を埋め
る場所探しでは『至る所に青山あり・・』しかし、子育ての出来
る良い環境とはどこかと思いました。自分の人生も、これからの
残りの人生を子育てと、我が充実した人生を思うと、気候的に

カリフォルニアと感じまた、これからの永い将来の子供達の生活
環境と教育環境の合致した場所とは・・・?と考えていたら、
やはりアメリカのカリフォルニアが当時は最高と考え、また私が
条件としていた考えが全て重なり合い、日本との時間的な距離、
将来的な経済成長の過去10年間の伸び率などを密かに調べてい
ました。

37年前は住宅価格も安くて、5万ドルも出せばサンフランシスコ
郊外では、250坪で一軒家が購入できました。今では平均が60
万ドルはしますので、若い人達はかなり無理な価格となり、
サンフランシスコ沿岸地帯は伸び率が顕著で、今でも全米一の成長
をしており、近所のAntiochや、Brentwoodなどは
過去5ヵ年で成長が凄まじく、人口も4万4千人もの人口増加とな
りました。

当時のカリフォルニアの教育は、予算的にかなり裕福で、全ての教
材が無料で配布され、知能指数が高い生徒は、飛び級で上のクラス
か、特別優秀な生徒を集めて学習させていました。

日本ではとても認められない学習指導で長男も娘も次男も恩恵に与
りまして、長男は高校生で大学でクラスを取る事が認められて、単
位を修得していました。それは後で大学入学して自分の選考科目の
単位として認定されていたようでした。おかげで大学では自活する
糧を得るために働く時間を沢山取れまして、また、自立心と言う
アメリカでの習いで、学資ローンとアルバイトで自分で稼いで卒業
して行きました。

私が移住したパラグワイで見た、メノニータのドイツ人家族の母国
語での学習を見習いまして、子供達に日本語教育も上手く行き、
高校生となり私の子供達は徴兵登録を自分から進んで登録していま
した。 学校で毎日、クラス全員で唱和する『星条旗に誓う』の言葉
も、英語やスペイン語、日本語でも言える様になっていました。

国旗、国歌と言う、己の心情と相反する移民感情の狭間で、子供が
自分でアメリカの教育の中で悟り、自覚して進んで参加して成長し
て行った過程で、アメリカの教育の原点を知りました。

アメリカの清教徒達が東海岸から西に幌馬車で何ヶ月も掛かり、移動
していた中で、バイブルが子供の教科書で、法律で有り、道徳の指数
で有り、また宗教としての心の癒される聖書で有ったと思います。

30年ほど前に、85歳ぐらいの一人暮らしの女性が、僅かな年金で
暮らしていましたが、私が管理していた貸家の隣でしたので、良く手
助けしていました。彼女の両親が1860年頃のアイルランドからの
移民で、当時のぼろぼろになった聖書を見せてくれました。

彼女の父が、サザン・パシフイック、レールの鉄道会社で仕事をして、
ネバダ州で永く生活していたようでしたが、学校に通うのに馬で5k
mぐらい歩き、皆勤賞で『星条旗と1ドルの銀貨』を貰ったと見せて
くれました。
ある時、彼女が『星条旗と聖書』を私に見せて、これは私の両親が与
えてくれた宝だと話した時に、彼女の精神のバック・ボーンの重さを
知りました。

今でも彼女がクリスマスにプレゼントしてくれた1ドルの小切手を
大事に持っています。夏は冷たいコップ一杯の水、冬は熱い一杯の紅茶
でしたたが、夏の間は私が栽培した有機野菜を喜んでくれた笑顔を忘れ
ません。そして・・、7月4日の独立記念日にコップ一杯の水を持って
来て、アメリカの国歌を唄って聞かしてくれた思い出は、今でも心に
深く残っています。

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