2012年7月22日日曜日

私の還暦過去帳(273)

昔の事です、
かれこれ46年も前になりますが、私が農業移民で移住した
パラグワイから出て、アルゼンチンに住んでいた頃でした。
その頃は日本から来る食品類で、まだその頃にキッコーマン
の輸出用の樽詰め醤油がブエノスに来ていた時代です。

ブエノスの街中で買える醤油は色は同じでも、香りとその味
はやはりイマイチで、特に刺身醤油となると日本からの輸入
品を探していました。
ワサビは簡単に小さな缶入りの粉ワサビが、いくらでも買えま
したが醤油となると、味噌を作った後に樽からにじみ出る
『溜まり』という醤油を使っている方も居ました。
大抵は山形や福島、岩手県などと言う、冬の季節の永い地方の
方が味噌作りを多くしていました。

日本人には米・味噌・醤油という三種の食品は無くてはならな
い生活用品でした。また、それが昔から、現在まで営々として
続いて居ると感じます。米は比較的に簡単にイタリア米などの
短粒米が南米でも買えた様ですが、日本人の移住地では勿論の
事に日本米が豊富に生産された様です。

私がブラジル移民の、最初の移住者達に会った時に聞いた事が
有ります、当時はかなり高齢でブラジルに移住してから、初めて
里帰りに帰国して、私達が乗船していた移民船でブラジルに戻る
途中でした。
笠戸丸で初めてブラジルのサントス港に到着した時に樽に詰めて
持ってきた醤油と味噌が有ったと話してくれました。

1964年の頃の話ですが、その当時はどこでもブラジルでは
味噌、醤油は買えると話していましたが、今からしたら笠戸丸の
話は百年も前です、貿易での物資流通が少ない時代で、当時やっ
と物流が第一次大戦後のアルゼンチンなどの好景気に、日本から
の輸入品が、雑貨を中心に南米に来ていた時代です。

私がアルゼンチンの田舎の町で、そこで会った老齢の婦人が、私が
日本人と知るといきなり『あの粗雑品を作る国から来た人間か!』
と言われて驚いた事が有ります。
第一次大戦戦中、戦後のヨーロッパから輸入が途絶えて、日本か
らの雑貨などの輸入品が増えた時期に日本製を使用して、ヨーロ
ッパ製品と比較した人だと感じました。

それからしたら味噌、醤油の食品は食べてしまったらそれで終わ
りです。輸入も少ない時代です、使い果たした後は何としても味噌
と醤油は自家製を作ったと話してくれました。私もアルゼンチンで
味噌球を丸めて作っていたのを見た事が有ります。そこの奥さんが
作る味噌は素人離れした味と聞いた事が有ります。

ブラジルの田舎での生活も、祖国日本の味を食べるのには、やはり
味噌と醤油が重要な事であったと思います。ブラジルには沢山の
日本人が、またあらゆる県の出身者が広く、沢山、移住して来たお
かげで、味噌、醤油も比較的たやすく手に入れる事が出来た様でし
た。そして味もその出身地の郷土色の強い味噌、醤油だった様です。

私がパラグワイのポンタ・ポランの町でご馳走になった味噌汁は、
『これはサンパウロから来た味噌だ・・』と聞いた覚えが有ります。
当時はまだ鉄道がサンパウロからその町まで運行されていたからです。
『味噌、醤油の交易ロード』と言うべきルートが有ったと思います。

私がアルゼンチンの北部、ボリビア国境で、そこに住んでいた日本人が
戦中戦後に味噌、醤油が途絶して、日本からの輸入品が無くて、ペルー
にハワイで製造された味噌と醤油が来ていたと聞いたことが有ります。
ペルーには昔に、ハワイからの邦人移住者が来た事で、つながりが有っ
たと感じます。
そこのペルーからアンデスの山脈を越えてアルゼンチンまで僅かな量の
味噌と醤油が来ていたと教えてくれました。
45年も前ですがその当時でも、アンデス山脈を越えてくるトラック便
が有り、私も何度か太平洋の魚を食べた事が有ります。

今ではコンテナー運送で世界中にあらゆる物資が流れていますが、内陸
国の海の無いパラグワイでも河川を利用して、川舟がブエノスからコン
テナー運送をして運んで来ているとは、時代が変化した事を感じます。

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