2012年7月14日土曜日

私の還暦過去帳(269)

かれこれ46年も前になります。
私が南米で農業をしていた時代でした。かなりの数の戦前の1930年代
に移住してきた人たちが、まだ健在で働いていた時代でした。
当時は戦後に、まだ政府計画移住再開がなされていない頃に、親戚や兄弟
を頼って、呼び寄せで移住してきた人達も居ました。

戦後の苦しい生活から逃れて兄弟を頼って来た人の中には、戦争未亡人も
沢山居ました。その頃のアルゼンチンが第二次大戦後の経済的に裕福で、
また、その恩恵で成功者と言われる方が沢山居たからでした。

各世代の、日本とアルゼンチンの格差的な考えと、価値観の相違を対照的
に見る事が出来て、1960年代始めに多くの日本人が戦後の日本に里帰
りして、故郷に錦を飾り、親や兄弟の墓を建て直して、出身校に多額の寄
付をして、オルガンや学用品を揃え、破れた学校の窓ガラスを修理して感
謝されていました。
私が見た人の中で、当時はサルタ州のボリビア国境に近い町で蔬菜栽培を
していた人でした。奥さんは戦後に兄弟を頼ってアルゼンチンに来た戦争
未亡人でした。知人の紹介で白人のワイフと離婚していた戦前の移住者と
結婚して、農場を切り盛りしていた人でしたが、口癖は毎日つぶやく様に、

『こんな所には骨は埋められない・・、早く儲けて日本に帰ろう・・』と
言う事で収穫が終わり、かなりのまとまった現金が出来ると、ブエノス・
アイレスではなく、ボリビアの首都ラパスに一週間程度旅行して、そこで
ドルに交換して一部は日本に送り、他は銀行の貸し金庫に入れて居たよう
です。
日本に帰るということで、家も簡素なもので、全てがその考えに合わせて作
られ、家財道具も殆ど無くて、土地も借地で、ただ『金』と言う主役が人生
の大きな役割と先行きを決めていました。
『故郷に錦を飾る・・』と言う戦前の南米出稼ぎの典型的なタイプでした。

しかし、それと対照的な人も居ました。
かなりサルタ州でも田舎の広大な土地を購入して自分の砦を築いていました。
家の周りはカラタチの生垣で、トゲのある潅木を植えて、日干し煉瓦の土蔵
作りの家はまるで城で、自分の領内に川も流れていました。

自分の理想の農場を作ると言う信念で住んでいる様な方でした。
自分の夢に描いた世界を作ろうと、その地に骨を埋める覚悟で生活されてい
たと思います。
牧場を開いて牛を飼い、果樹のオレンジを植え、トマトを作り、大きな綿畑
を持って、雑貨店を開き、その土地に根ざして、現地人の若い女性と結婚し
て土着化した日本人でした。

その他、ミッショネス州のハルデーン・アメリカと言う町の郊外で、隠遁者
的な生活をしていて、自給自足の生活環境と思います。谷間には家族が食べる
以上の米を植えて、マテ茶を栽培して、現金収入は野菜を栽培して居たよう
でした。
また漂泊の世界漫遊の人生遍歴で居付いた場所がサルタ州のインジオ部落近
くで、そこの女性と同棲して、僅かな畑を耕し、コカの葉に溺れ、昼間から
酒を飲んで、現地人として生きていました。人から聞かれると、
『俺はインジオだ・・、』と答えていたようでした。

『日本などは遠い過去の昔の思い出の地だ・・・』と答えて居たようで、酒
が無い時は絶対に日本人社会には顔を出す事も無く、酔って自尊心など消え
て居る時は、時々、酒場の中で会った日本人には、挨拶ぐらいはしていた様
でした。
46年以上も前です、人様々の生き方と死に方を選択した日本人が、地球の
日本の裏側で住んでいたのです。
事実は奇なり、真実は一つと感じます。

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