2012年2月29日水曜日

私の還暦過去帳(182)


これは昔、NHK80周年記念番組で制作した作品『ハルとナツ』の物語
の製作過程の批判を書いたものです。

私のお勧め映画の紹介です。

題名は『TSOTSI 』と言う今年度アカデミー外国映画賞受賞作品です。
この映画は南アフリカ社会の縮図を描いた様な感じがします。
かなり暴力やグロテスクな場面も出てきます、我々が普通見ることが
余りないシーンです。

全部黒人貧困社会の底辺の動きをストーリーにはめ込みながら、時に
はジーンと感動のシーンが出て来ます。それと言うのも、ギャングと
して殺人も平気な若い黒人青年が、生まれてまだ間もない赤ちゃんを、
強盗で乗っ取った車の後部座席に見つけてそれから、その若いギャン
グが自分の人生の生い立ちから考えて、覚り、反省して行く物語です。

現在の南アの現状が貧富の差から来る犯罪と社会の混沌とした現状を、
良く適切に映し出していると感じます。私が40年近く前に見た南ア
の状態も思い出した映画で、暴力的描写がリアルで、多いながらも、
誘拐された赤ちゃんの生命力とその希望を強く感じさせる映画である。

特に赤ちゃんがお腹を空かして泣き叫んでギャングの黒人青年が缶の
練乳をミルクビンにも入れる事無く、赤ちゃんの口に含ませて、それ
を飲んでいる赤子に、なぜか活きると言う活力を見た感じです。

南アフリカ社会の混迷と混沌とした社会で、犯罪が横行するする貧民
街のその中でも、人々はたくましく生きており、誘拐した赤ん坊に乳
を与える女性が自分の子供と同じ様に、乳房を赤子の口に含ませる
シーンは主人を亡くして裁縫仕事で自活している困窮に有りながら、

ギャングの黒人青年が犯罪で得た、多額の金の受け取りを拒否して、
拳銃を付きつけられて、強制されて居るのにかかわらず、優しく奪わ
れて来た赤子の世話をしているシーンは、見ていてこの映画が、どこ
か救いのある感動を心に持たせるのは、そのようなシーンが有るから

と感じます。この映画を最後まで見て、一番感動したのは、その撮影
で関係した全ての出演者の名前を、全員書いてあるかと思うくらいに
細かな字でびっしりと二分間以上も長々と画面にゆっくりと流れて、
中年過ぎの観客ばかりが目立つ土曜日の僅かな観客の中で、静かに見
ている人々が居た事も驚きました。

書き連ねた名前は、おそらく貧民街の撮影で協力した一般の人々の名
前と感じました。最後の字幕が終りかける時に、これらの撮影に協力
した人々に感謝すると一言書いて有りました。出演者としてあの群集
役として、チヨイ役で出演した人々もこの作品の、今年度アカデミー
外国映画賞受賞作品の受賞者達と感じます。
この作品の結末は貴方の眼でご覧下さい。それから・・・、

以前に見た映画で、アフガニスタンの動乱終了後に初めてアフガン人
の監督で全ての出演者がアフガン人で、圧政をしていたタリバンの情
勢を演じていたが、その映画もタイトルの中で、これも延々と書かれ
た出演者の名前が作品の感動を、より高めたと感じました。
それからしたら・・・・、

NHKが80周年記念番組で制作した作品『ハルとナツ』の物語のドラ
マの巻頭のタイトルには、ブラジルで撮影に協力した日本人の出演者
などは、どもにも書いては無く、でかでかと最初に大書きされた、
『橋田壽賀子、原作・脚本』とが眼に飛び込み、まさに他の細かな出
演者などの配慮などはどこにも感ずることは出来ませんでした。

わたしが感じたことは、NHKが『おしん』のドラマを念頭に置き、
橋田壽賀子と言う名前での『感激のお涙頂戴』のドラマ制作をしてい
たと感じます、もしこれがブラジルで出演した多くの協力者、後援し
た関係者の名前を網羅して字幕に出して居たら、もっと違った80周
年の記念番組となったと感じます。

それこそ全ての多くの日本人と日系人がブラジルで、これだけ協力し
て祖国に、このハルとナツのドラマを見せんが為に、昔の洋服を引っ
張り出して、時代物のカバンなどを持ち寄り、手弁当で演出に協力し
たことを示す事が、もっと次元の高いドラマとなり、NHKの80年記
念制作とした真意を、日本全国のお茶の間に示したと感じます。

私が個人的な心と思考で思うことは、この様な考えも持たない製作者
は、私が過去に見た映画や昨日鑑賞した『TSOTSI 』の映画からして
も失格と感じました。

2012年2月28日火曜日

私の還暦過去帳(181)


このお話は次男が5年ほど前に、インドに自分を試しに仕事に出か
けた時の様子です。

次男のインドへの旅立ち、

今日、朝早く午前零時30分にインドに旅立ちました。
去年の12月も押し迫った29日に帰宅しましたが、帰宅する少し前
にインドの首都ニユーデリーで、合気道の道場練習中に左腕の筋を切

り手術をして筋を縫い合わせる6時間近い緊急手術を受けて、ギブス
をして、片手で荷物を押して空港の出口から出て来ました。
やつれて、かなり精神的なストレスもあったのか、青白い顔に、頬が
扱けてげっそりしていました。

それと言うのもフルブライト留学終了して、三ヶ月ほどボランテイヤ
で国連のNPO関係の仕事を無給で手伝っていました。医療健康保険
が切れていたので、全部自分の責任で払わなければなりません、医療
費の安いインドでもかなりの高額です、しかしアメリカからしたら

10分の一ぐらいです、しかし奨学資金も終っていましたので、収入
が途絶えて、友人宅に居候してカレーライスだけの食事をしていた様で
す、週10ドル程度の食事では肉などは食べられず、豆のカレーだっ
た様で質素な食事をしていたのか、食べる量も帰宅

した時は少ない量でした。しかし帰宅して自宅の食卓に上る美味しい
日本食を食べだすと、自然にインド式カレーも自分では作らなくなり、
お肉が沢山入った『とろける中辛ビーフカレー』などを食べる様にな
ると、こちらが『ギョッ』とするほど沢山お代りして食べていました。

しばらくして、ステーキとサラダにガーリック・パンなどの食事とな
ると、まるで狼で『ヤンキー食』をガッついて食べていました。美味
しいワインもたらふく飲んで、食後はケーキのクリーム、バターゴッテ
リ超カローリー食をパクリとたいらげ、げそー!

と落ちていた頬もふっくらとしてきて、それと朝は10時頃まで寝て
いて、昔の『小原庄助』さんではないが、朝寝、朝酒(これは無し)、
朝湯が大好きで~!と歌になるような生活でした。しかし有り難い事

に、18歳で家を出て初めて三ヶ月も居てくれましたので、まるで殿
様待遇でした。13年ぶりにしてゆっくりと食事などしながら話も出
来ましたし、しばらく夫婦二人だけの生活でしたので 潤いが出来まし
て、晩酌などを次男と交わす幸せも感じました。

ニユーデリーで合気道の道場に通って居るうちに、そこでインド財閥
の三本指に入る、インドのビル・ゲーツと言われる人物が丁度道場に
練習に来ていて、そこで知合い、声を掛けられたそうです、彼はイギリ

スのオクツフォード大学に在学中に合気道を学び、熱烈な支持者でし
た。そん事で『またインドにおいでー!』と誘われた様でした。彼の
父親は熱心なガンジー翁の支持者で初めて、その当時危険分子とされ
たガンジー翁を支え、支援していた有力者だったそうです。

そんな事で彼の会社が大きなNPOを開いて、インド国民の為に奉仕
活動をしているので、次男はそこで仕事をする様です。あとの余暇は
合気道の普及に力を入れると話していました。
『あと二ヵ年ぐらい自分が何が出来るか試してみたい』と


話して出掛けましたが、少し雨が降る中で、長男も会社を少し早仕舞
いして見送る事になり、長男の家で待ち合わせして、彼の車で飛行場
まで送る事になり、途中で早めの夕食に、サンフランシスコでも三本
指に入る、ベトナム・ラーメンを食べに行く事にしました。

フォーの麺が出て来るまで、話していたら、長男が現在、オーストラ
リアとニユージーランドの二国に一カ月おきにビジネス出張していて、
それで何かを感じたのか、『もしチャンスがあればオーストラリアの
シドニーに移住したい』と話し始めました。

気候もサンフランシスコと同じ感じで、これからの長い将来を賭ける
には面白いと話して、カリフォルニアは物価が高く、住宅も全米一の
高値では、とても大きな家一軒も買えないし、生活をエンジョイ出来

る環境が少なく、特に仕事の需要が多いコンピユーターソフト関係で
は国境が無いと言っていました。パソコンさえあればどこでも仕事が
出来るからと話して、かなり真剣に心に思っている感じを受けました。

次男のインド行きと長男のオーストラリア移住の話しで、それぞれの
夢と、希望と人生の活き様を考えていると思いました。ただひとつし
かない人生、己の夢と希望を海外にぶつけた自分を思い出して、良く
育ってくれたと感じました。

フォー麺がテーブルに並び、親子で食べる味も格別で、見送りの僅か
な時間が格別な親子の対話と心通う場になって、ワイフと幸せな気持
ちでした。食後のコーヒーを飲んで、時間どうりにチックインして、
荷物を入れると、お互いにハグして肩を抱いて記念写真を写して、
次男がチエック・ポイントから消えて見えなくなるまで手を振って別
れを惜しみました。

おそらくあと僅かな時間で子供達が大きく羽ばたいて、二度とは私達
夫婦のもとには戻って来る事はないと思いました。
『子供らよー!飛んで行け、大きな希望と自由な大地にー!』

2012年2月27日月曜日

私の還暦過去帳(180)

これはかなり前に、私の愛車の小型トラックを手放した日の事を書い
てあります。今乗車しているのはアメリカに来て、すでに3代目の
トラックです。そのトラックも15万kmを走っています。

今日は私が慣れ親しんだトラックを手放す日です。
そのトラックは私がかれこれ14年間ほど乗ってから次男に譲りまし
た。彼はそのトラックに自分の荷物を満載して、アメリカ東部の

ピッツバーグの大学院に大陸横断して運転して行きましたが、そこで
三ヵ年間滞在して卒業して、またカリフォルニアのロサンゼルスに来
て、ゲテイーミュージアムでインターンをして、一年間滞在してい
ました。かなり古いトラックです、

トヨタの小型トラックで当時でもそろそろ30万キロ近く走っていま
したので、私が趣味でパーツを良く交換していました。こまめにやり
ましたので、殆ど新品に交換してしまいました。1986年の古いト
ラックですが電気関係は

いつも注意して時間で点検と交換をしていました。アメリカ横断を
二回もして長旅も故障無く出来る車でした。アメリカでは車は自分で
責任を持って整備しなくてはなりません、二年に一度だけ車のスモッ
グテストを受けて、パスしないと車の新しいライセンスを貰えません、

カリフォルニアは自動車保険も加入していないと同じくライセンスが
発行されません、それと事故を良く起す人、飲酒運転などで免許を無
くした人は自動車保険を買えませんので車は運転出来なくなります。
次男はロサンゼルスに一年滞在して、それからインドにまた勉学の為

に行き、私の車庫の置いてありました。毎週エンジンを掛けてテスト
して、バッテリーなどが上がらない様にして、車体もワックスを掛け
て磨いて手入れしていたおかげで良好なコンデションを保っていまし
たので、また次男がインドに行くので、今回は手放すことにしました

ので、インターネットに掲載して売り出しました。写真を撮り、それ
も添付していたので、インターネットに出して15分ぐらいで電話が
ありまして,『買いたいー!』と来ましたが、それは余りに安いオフ
ァーで、お流れとなりました。次男が合気道の練習に出かけて、携帯

に、たてつずけに四回ほど電話があり、その中の二名は近所だったの
で、飛んで来た様でした。一人と直ぐにその場で満額で決まり今日の
週末、土曜日に受け渡しが決まり本日となりました。電車で受け取り
にサンフランシスコから来て、もうしばらくしたら、永年の愛着を持
ったトラックが居なくなります。

次男が今回のインド行きは二年も長くなる可能性ですから、それとか
なり現在では手入れも良くて高値で売れますので、驚く無かれ、20
年も古いトラックが日本円で30万近い値段に売れることは、インド
に行ってもかなりの生活資金となりますので、決めた様です、しかし

良く働いてくれたトラックです、不動産管理で仕事で巡回する為に
使いましたが、たいした故障もありませんでした。今電話が有り、
電車が駅に着いた様です、お別れの時間もあと僅かになりました。
別れにもう一度ハンドルに触りたいと思っています。

2012年2月26日日曜日

私の還暦過去帳(179)

このお話はかなり昔の話ですが、確か1965年頃のブエノス・アイ
レスの町中でした。当時は海外旅行と言っても、旅行者外貨持ち出し
制限がありましたが、しかしどのくらい持ち出せたかは覚えてはいま
せん。しかし移住者にはその制限がありませんでした。

日本の財産を処理して、有り金全財産を南米の移住地に入植するのに
持って来る事が出来ました。しかしお隣りの韓国では南米への移住に
関しても外貨のドルを移住者が自由に持ち出す事が出来ずに、『韓国
海苔』にして、持ちこんでいました。そして日本人の移住地を売り歩

いて元金を回収して資金としていましたが、そのような中で、当時も
数少ない旅行者が居ました。中には今で言う、バックサックを背負っ
たヒッチハイカーです、数も少なく気合が入った方が沢山居たようで

す、私が一番感心して驚いた青年は東大在学中で、1ヵ年休学して世
界中で、『女性の千人切り』を心に志して、当時はブエノス・アイレ
ス市内でレストランの給仕をしていました。

当時の東京大学などは、かなりの頭が良い学生が行く所と聞いていま
したので、チョイ!落ちこぼれかと感じていました。とんでもない、
ただの休学という事でした。『女性の千人切り』と言っても、日本刀

でバッサリ!と言うような物騒な話では有りません、ただ商売女でも、
なんでもかまわずに『セックス』して、その数で千人を達成したいと、
願をかけて、心に持っていた様でした。私が子供の頃に『赤線が廃止』
となり、公娼と言う事も禁止となりましたので、

日本では簡単にそのような事を実行出来る事は無理な様でした。しか
し彼はそれを実行して、南米各地を働きながら経験して廻っていた様
でした。私も友人から聞いた時は、『ヘエー!』と驚きの声を出した
くらいでした。

考えてみても、『千人ですよー!』とにかく数をこなすには大変な事
です、金と体力、それに根気と情熱、その他、性病にも注意しなけれ
ばなりません。ご苦労な願掛けです・・・、その昔は、エイズとか言
う物騒な死の病は有りませんでしたが、そこそこに風土病的な恐ろし
い病があったと思います。

東大と言う名前と、若いハンサムな日本人男性と聞いて私も彼が働い
て居ると言うレストランを外から見に行きました。確かに居ました。
当時はドル持ち出し制限で、限られた金額しか持っては日本から出ら
れませんでした。闇ドルと言うと1ドルが400円近くもする頃で、

普通の交換でも350円から360円程度はしていましたので、大学
卒で初任給が10万もなかった時代、大変な金額です。それと渡航手
段が船の時代で、旅客機などは羽田からブラジルのサンパウロまで、
当時は田舎で家一軒が買える値段でした。

そんな事で今からすると各段に大変で困難な時代でした。友人の話し
ではすでにその東大生は600人近い人数をこなしていたと言う事で
すから、奥の深い、いや、欲の深い人物だったと感じます。私がブエ

ノスにいた時代に女性で、その世界漫遊の女性は金策尽きて、仕事も
なくて、ブエノスに滞在中に世界の裏のアルゼンチンまで来て身体も
具合が悪くなり、心も寂しかった様で彼女が取った行動は、ブエノス
の町中の中央にある噴水の池に、全裸でドボンと飛び込み、目出度く

日本国政府の『国援法』の適用を受けて、飛行機で強制帰国をさせら
れたと聞きました。世の中には雑多な考えで、歩いていた方が昔から
結構沢山居たと感じます。今はもっと簡単で、便利な世になりました。
貴方も世界漫遊はいかがですか?

2012年2月25日土曜日

私の還暦過去帳(178)

私がパラグワイから出て来て、アルゼンチンのブエノス・アイレスに
住んで居た頃でした。
下宿と言っても、安宿の当時、ブエノスではペンションと言っていま
した。ベッドと安物の家具があるだけのガラ―ンとして部屋でしたが、
相部屋の仲間が気さくで、話好きで、親切な男でした。

時々、近所の飲み屋兼、簡易食堂という感じの所を紹介してくれ、暇
な時は誘って食べに行く時も有りました。彼は田舎から来て、仕事も
二ヶ所も持って働いていました。 
将来は田舎で自分の仕事を持ち、アルゼンチンの現地人として故郷の

田舎では、どこにもそのような仕事をしている人が居ないのでベッド
などのマットと寝台のフレームを製造する会社を開きたいと夢見てい
ました。その様な関連企業に働いて居る様でしたが、安い労賃での仕
事の様でした。 彼と暇な時にバーに一緒に行った時に、入り口横の

カウンターの側で、一人の若い女性が座っていまして、我々若い、少
し毛色の変わった男二人を見ていましたので、席に付いて酒を注文し
てから見ると、なんとも可愛いいのですが、それが丸々と肥って、そ
れこそ真白の肌がこんもりと、たわわにヒダとなっている感じでした。
漫画に出てくる豚ちゃんを主題にして書いた漫画を瞬間、思い出した
くらいでした。

顔はまるで小作りの顔形で、目が大きくて髪は長い赤毛の様でした。
まるで人形の様でしたが、足はまるで私の胴ぐらいは有りそうな感じ
がしましたが、それなのに短いスカートをはいているので強烈な感じ
がしました。

彼女には誰も声を掛ける人も居なくて、彼女はポツ―ンと良く一人
で座っているのを見ました。 その食堂で夕食を食べていましたので、
それこそ行く度に会い、会釈をして挨拶をするまでになりました。

段々とそこの店にも慣れて、色々な話も聞く事が出来ました。彼女は
一人娘で両親はすでに亡くなり、遺産のアパートや家なども有り、食
べることには何も困らないで、遊んで暮らしていると聞きました。

しかしながら見ただけで分る、超肥満の身体では、誰も恐れをなして
相手する男は出てこなかった様でした。顔はまるで人形の様に愛くる
しく、可愛いい若い女性です、肌は真白な綺麗な肌で、ポツ―ンとカ
ウンターの横に深くイスに座って、足元にじゃれる猫と遊んでいまし
たが、友人が耳もとでささやきました。

『誘ってみたら!、肥った女性が好きならばー!』私はその言葉を聞
いたとたん、『ヒエー!』と感じました。
誰か話していましたが150kgはあるだろうと、すると日本の相撲
取りと同じ体重では有りませんか、どんなベッドに寝ているのだろう
かと、彼女の裸体を想像するだけで国技館のお相撲さん達のシコを踏
むのを思い出していました。

しかし有る日、とうとう彼女から声を掛けて来ました。私が日本人で
ただ一人の毎日のような利用者だったからでした。話して見ると知性
が有り、世間一般の事も良く新聞などを読んで知っていました。
そして私の下手なスペイン語を訂正して、教えてくれました。そして

彼女が世間で噂するような感じの娼婦的な女性では無い事がはっきり
しましたので、時々はカウンターに座り彼女とバーテンダーと挟んで
会話の練習にもなりますので、一杯のワインを手に遅くまで話す事が
有りました。近くで良く見るとその巨大な乳房と首とが凄く真白で、

ネックレスだけが金で輝いていました。彼女がトイレに離れた時に、
バーテンダーが『彼女は自尊心の高い女性で、自分が好きでなければ、
一瞥も与えない』と話していました。口も聞かないとは恐ろしく自尊

心の高い女性と思いました。私と色々な世間話をして酒代やつまみ代
を払うように財布を出すと、バーテンダーが笑いながら、そのお金を
貰うと私は『首』になると笑っていました。

驚いて聞くと『彼女の父親だった店で、経営権は彼女が所有している』
との事で驚いたことが有りました。彼女が座る場所も他の人は絶対に
座る事は出来ないと話していました。しばらくして、そこの食堂で食

べることも仕事が新しく出来て最後と思っていた時に、彼女と話をし
ていた時に急に彼女が背中が痒くなり、短い肥った両手ではどうする
事も出来なくて、背中を掻いてくれとせがまれて、カウンター横の小
さな事務所の中にヨチヨチと巨体を動かして机に両手を置いて、背中
を見せて真中を掻くようにせがんでいました。

片手を入れて柔らかな肌をカリカリと掻いてやりました。特大のブラ
ジャーのヒモが肌に当たって少しすれていまして、そこが痒いと思い
ました。 彼女はそれを外してくれと言っていましたので、それを外し
てやるとブラジャーを取リ外して出してくれと言われて、どぎまぎし

ていました。彼女は私の手を掴むとシャツの前を開いて、巨大な乳房
を覆っているブラジャーを引っ張って外せと言って頼みますので、巨
大な乳房から剥がす様にして取り出して渡すと、驚く事にポイとゴミ

缶に捨ててしまいました。剥がす時に彼女の乳房に触りましたがまる
で、つきたてのお餅のように柔らかい肌でした。
汗ばんだ肌を思い出します。

彼女も少し顔を赤らめていましたが、ホッとしている感じでした。
ただそれだけの事でしたが、今でもその時の事を思い出しては同じよ
うな体型の女性を見ると、彼女の人形の様な顔を思い出します。

2012年2月24日金曜日

私の還暦過去帳(177)


先日の土曜日に私はシリコン・バレーの中心にあるサンノゼ市を
訪ねました。内々の仲間の集まりで、越南米粉麺の試食とお話で、
その後に全米で一番大きなベトナム系・ショッピングセンターを
見学に行きました。私は初めての訪問でワイフと興味深く見て廻
りましたが、彼等の心安らぐ場所と感じました。

私の住んでいる所から車で一時間かかります、ワイフの知合いの
ベトナム人も良く買物に訪ねるショッピングセンターだと聞きま
した。大きなスーパーも有りまして、かなりの人出があり賑わっ
ていました。

中庭と言う感じの所で、かなりの男達の人だかりがしていました。
覗くと、そこではベトナム将棋が二局ほど開かれて、丸い駒を動か
して真剣な眼差しで駒を進めていましたが、中の一人がかなりの
年配で、少し足が不自由な様でした。

そばには杖もありましたが、時々歓声を上げて駒を進めていました。
私はその時、ふと20年以上も前にアパートの管理で訪れていた
時の事を思い出していました。仕事が終ってランチを食べていた時

にそこを訪ねて来ていた人が、私に高速道路の入り口を聞いて来た
のでしたが、私が東洋人で下手な英語で教えていたので、彼ははじ
めに韓国人かと聞きましたが、私が日本人と答えると、興味がある
のか、私も第2次大戦の後に日本に居たと言っていました。

息子もベトナム戦争の時に日本に居て、日本人の恋人も居た様だと
言ってゆっくりと話していましたので、丁度食事が終り、私も食後
の時間潰しに話しを始めました。

気さくな感じの人でしたが、彼の息子はヘリコプターの操縦士で
ベトナム戦争中は救出専門のヘリを操縦していた様でした。
ある日、彼の息子は孤立した偵察部隊の救出を命令され、二機

のヘリで出掛けた時に、二機は着陸する場所がなくて、一機のみ
着陸して部隊の救出をしていた時に、彼の息子は上空で待機して
廻りのジャングルを監視して居た時に、地上からの攻撃で機体が

破損して、ジャングルに不時着して負傷した様でした。
一機のみでは全員は救助出来ないので、かなりの南ベトナム兵が
ジャングルに残り、助けに来てくれたそうで、彼の息子を支えて
安全な場所に移動して隠れたと言っていました。

救助に来て、彼等に逆に助けられたと言っていましたが、アメリ
カ兵の軍事顧問の将校と南ベトナム軍兵士で彼の息子を守って、
逃げて安全な場所まで逃れられたそうです、それはヘリが持って
きた弾薬と食料があったからと話して居ましたが、当時の南ベト
ナム兵が現在はアメリカに移住して来て、再会してその内の二名
とサンノゼで会った様でした。

息子はこのアパートに住んで居ると言っていましたが、戦場からの
長い付き合いの固さを感じました。沢山のベトナム人の姿を見て、
その中には昔、戦場で苦しい戦いをして来た人も居ることを感じて
何か今の世界が、平和な将棋の盤での戦いで歓声を上げている世界
を見ていると、不思議な感じがしました。

2012年2月23日木曜日

私の還暦過去帳(176)

私もこれまで南北アメリカ各地で生活して来ましたが、そこでは現地
の色々な面白い話がありました。今日の話は神様が人間に与へられた
本能の生命を維持すると言う、2っの性と食の本能の話しです。これ

は人が教えて貰わなくとも、習わなくても生まれて直ぐに母親の乳房
を吸うという本能的行動をしますが、性は年頃となって初めてホルモ
ン的な刺激で行動を起すものですが、私が今でも聞いた時に驚いて、

『ウワー!』と驚きの声を出した覚えが有ります。それは私が47年
前に パラグワイに単身移住して、アルゼンチンから汽車でポサダに
着き、渡し 船でエンカルに着いた時でした。移住地から出て来てい
た日本人達が何か話していましたので、何事かと聞き耳を立てていま

したら、話し声が聞えて来ました。『パラグワイ人の12歳の女の子
が双子を生んだ』と話していました。それを聞いて一瞬びっくりして
『ほんとかね~!』と耳を疑いましたが、どうやら中の一人は実際に
見てきた様でした。そんな事で陽気の良い、亜熱帯では人間の成長す
るのが早いものかと思いました。

しかし、その当時では、かなり早く結婚をする事は珍しいことでは有
りませんでした。
私がアルゼンチンのサルタ州で農場で仕事をしていた時、インジオの
若夫婦が居ましたが、16歳と14歳の夫婦でした。結婚適齢期が
16から19歳頃が若い女性では一番結婚する事が多いと聞きました。

その年齢は原住民のインジオなどの結婚でした。普通はもっと平均が
高いと感じましたが、白人のポーランド人で、14歳で子供を産んで
誰も相手にしてくれなくて、その女性が22歳ぐらいの時に、独身の
日本人男性でしたが、75歳は過ぎていたと思います、ミッショネス

州の田舎町で長い事、雑貨店を開いていましたが、一度、心臓発作を
起して、亡くなっても身寄りがないので財産を政府が持って行くだけ
と、親に話してその女性と結婚して一緒に住んで居るのを見ました。

死んだら財産は全部その親子に譲ると話していました。そしたら一生
涯生活には困らないと話して居ましたが、カトリック教の世界ですか
ら、あちこちでそのような話を聞きました。

しかし、私の友人はアルゼンチンで一度見たと話してくれましたが、
若い女の堕胎する所を見たと話していました。まだ子供で親がその子
供の将来を考えて金を使い堕胎させていたようでした。しばらくして
からもその時の子供の泣き声と叫び声を忘れられないと友人が話して
いました。パラグワイでも当時はかなりの女性が一人もので子供を抱

えて生活しているのを見ました。現在もかなり多い様だと聞きました
が、当時、エンカルに開いていたペンション滝本というホテルで働い
ていたパラグワイ人の女中さんが二人とも妊娠して辞めて行ったと聞
いた事が有ります。後で辞めた女性は私も泊まって知っていましたの
で驚いた事があります。若いドイツ系の血が混じるパラグワイ人
でした。
あちこちと歩いて、ブラジルの友人の家で泊まった時に聞いた話です
が、そこで仕事をしていた使用人の娘が14歳で結婚すると話して居
た事を覚えています。ブラジルを旅行していた時、バス停でお腹の大
きな子供としか見えない年齢の若い女性が、ジッと店に並べてある食
べ物を見ていたので、話をすると、『田舎の実家に帰る所だーー』と

聞きましたので、サンドイッチを買って食べさせた事があります、ど
んな事情か知りませんが美味しそうに食べる姿を見て、余分の食料を
持たせてバスに乗せ、別れ際に窓から手を出して私の手を握り、
『ムイト・オブリガードーー!』と笑顔でしたが、涙声で言ったのを
忘れることは出来ません。昔の事ですが僅かな小銭を手に握らせた覚
えが有ります。

2012年2月22日水曜日

私の還暦過去帳(175)

カリフォルニアも春の陽気となり、若葉が伸びて来ていますが、
二月の終わり頃に良く遅霜が降りる事がありまして、油断は
出来ません。先日もTVで今年の冬で一番の大霜が降りると
予報していましたので、オレンジの実を全部収穫してしまいま
した。

私が42年前にパラグワイからアルゼンチンのブエノス・アイレス州
に出て来て、友人と160kmぐらい首都のブエノスから離れた
町で蔬菜栽培を始めていた時です、チビリコイと言う田舎町で

その町がイタリア人達の入植者で開かれ、建設されたのはまだ日
が浅い1900年の頃で、当時やっと町の中央に有る公園に植え
てあった並木が10cmぐらいの木に育っている頃でした。

1964年で、公園の隣りの街角に建っていた銀行に警備の警察官
が旧式なレバー・アクションの西部劇映画に出てくるライフルを構
えて入り口に立っていた時代です。その町はペロン大統領の奥さん

となった、エバ・ペロン(エビ―タ)と呼ばれた彼女が幼年期に一時
期過ごした町でも有ります。戦前の侘しい田舎町では鉄道が唯一の
首都からの交通機関でしたが、私が住み始めた頃はバス交通が全盛
を迎える時代でした。

その頃は牧畜産業が唯一の町の基幹産業で春先の小麦生産と
合わせてトウモロコシや食料油生産に利用されるヒマワリ、大豆など
の農業も盛んでした。雨が降るとカンポと言う牧場地帯からは、馬車
のみが走って出て来れると言う状態でした。

田舎道を馬一頭で引く馬車が、ぬかるみの道をゆっくりと歩いて来る
様は牧歌的でした。わだちの跡がくっきりと残り、どこまでも田舎道
にレールの様に残っていました。大抵はそのような馬車は牛乳の缶を

沢山後ろの荷台に載せて、町外れの牛乳処理工場に運んでいま
した。そんな雨降り後に農作業が出来ずに、近くの小さな池がある所
に狩猟に歩いて出掛けていました。すれ違った乗馬の人が四匹ぐらい

のグレーハウンド種の足の長い犬を連れて歩いていました。アメリカ
ではバスの有名な看板犬としてバスの両側を飾っています。
何しろ犬の中で一番早く走る事が出来る犬です、ウサギ狩に使います

私は持参していた狩猟用の双眼鏡でジットその後を覗いていました。
先頭の犬がウサギを発見すると、先ずその犬だけが全速で追跡します、
他の三匹は後から付いて走り、遅れて乗馬でその犬達を追っていまし
た。

緊張した数分が過ぎ、先頭の犬が疲れて速力が落ちると、次ぎの犬が
交替で全速でウサギを追跡しています、ウサギは休む事も出来ずに、
広いパンパの草原をひたすら追跡され疲れはてて最後は三匹目の犬
辺りに追い付かれて、それで終りでした。

私も生まれて初めて見たグレーハウンド犬の狩猟でした。アルゼンチ
ンのパンパ草原での狩猟と感じましたが、その頃はパンパの大草原も
余り植林されていなくて、広々とした地平線までの広がりが望めまし
た。

今ではそのような事は望めませんが、二年前に訪ねた時に町の公園に
植えられていた並木が一抱えもある大木に成長していたのには驚き
ました。そしてどこにも馬車などは走ってはいませんでした。

2012年2月20日月曜日

私の還暦過去帳(174)

先日から二泊三日でバケーションで家族で出かけていました。
モントレーと言う日本人にも馴染みがある場所です。

今日のお話はSalinasとMonterey、その他
Carmelの町の歴史のお話です。

近くのサリーナスと言う町はノーベル文学賞を貰った文豪の
スタインベック氏の出身地です、彼が書いた『エデンの東』や
『怒りの葡萄』などの著作の原典となった農村地帯が連なり
戦前から多くの日本人が蔬菜栽培をしていました。

現在ではお花の栽培が盛んで、温室が全米での有数の中に入る
農家も居ます、それからイチゴの生産は戦前から日本人が草分け
的な存在で活躍していました。

モントレーには戦時中は米軍の語学学校が開設されて日系二世達
がそこで専門的な日本語を習い、南太平洋戦線で活躍しました。
今でもその学校は有りまして、夕方の5時に微かにラッパの音が
町中まで聞こえて来ます。

モントレーの町は昔、海岸には缶詰工場が並んで居ました。それ
はモントレー湾一帯がイワシの魚場で西海岸では有数の漁獲を
記録していたからでした。そこには沢山の日本人の漁師が仕事を
していました。

それと、そこの缶詰工場で働く日本人も居たからです、
一時は海岸でアワビの潜水収穫をしてかなりの大きな加工工場も
開いて居た日本人も居ました。
今では戦前の歴史として記念のメモリアルが残っているだけです。

カメールの町はお金持ちの引退者が住んで居る所で有名です、
特にマカロニ・ウエスタンで有名になったハリウッド・スターが
市長となった事で全米で有名になりました。

彼の名前は俳優と監督で最近高く評価された作品は「ミリオン・
ダラー・ベイビー」。作品賞はもちろん、 監督賞もクリント・
イストウッド氏が受賞しています。その彼が市長をしていた町で
す。
綺麗でこじんまりとした町で海岸の砂が特に細かく綺麗です。
そんな事で海鮮レストランが有名です、一度訪ねて下さい。
イカと貝類が現在ではかなりの漁獲量を上げていますが、イワシ
は現在では少なくなったそうです。

私の還暦過去帳(173)

越南米粉麺を食べ歩いて、かなりのお店を訪ねました。
一度、バークレー大学の近所に新規に麺の専門店が開店したと広告が
新聞に出ていました。早速に偵察に行く事にしました。

店は大学から近い場所で、かなり若い人達で混んでいました。
麺は各種ありまして、日本のうどんソバも有りました。
ベトナム風の麺もあり、勿論中華麺も有りました。

店は若い白人の夫婦ものがオーナー・シェフとして仕事をしている
感じで、ちょっと心配になりましたが、どうせ来たのですから、試食
してみる事にしました。私は興味がありました。日本のソバがあると
言う事で、その海鮮ソバを試してみる事にしました。

出てきたソバは我々が期待するものではなくて、先ず出し汁が全然
似ても居ない感じの出し汁を使い、ソバ独特の醤油味でツ―ンと来る
濃いソバの出し汁の香りが有りませんので、「あれー!」と感じて
いました。それはまったくの創作アメリカ・ソバで、我々が食べるべ
き麺では有りませんでした。確かにソバを使ってありましたが・・、

海鮮ソバと言っても、ただ鮮度が落ちた桜エビが四匹ばかり皮を剥い
て生で載せてあると言うだけで、かけソバを食べているのがまだ益し
と感じられました。値段だけは倍ぐらいしていたと思います。
ガッカリして、鮮度の落ちたエビですから、変な匂いもして、すぐに
食べるのを止めて、突き返しました。

オナーが満足しないなら、代金は返すと言う事で、それで店を出まし
た。色々な店を歩きました。しかし今まで、外れた店は 越南米粉麺
では有りませんでした。どこも美味しい麺を出して、かなり競争が激
しいのでどこも味には気を付けて居ると感じました。

一番驚いたのは、サンフランシスコでトップを争う店でしたがモヤシ
はこれ、『根っ切り』と言うホルモン処理して根を出していない、ず
んぐりモヤシではありません、根がついて昔、良く食べたモヤシです、
近頃は滅多に食べられませんので、『ムム・・!』と感じました。

それからそこの店使用する牛肉は全部アメリカで、『ブラック・アン
ガス』と言うオルガニックの飼料で肥育された肉で、その認定の額も
店に飾って有りました。

その牛肉で採ったスープは絶品でした。澄んで味濃くて、なるほどと
感じまして、これまでこだわる店ですから、パパイヤ・サラダ一品で
もドレッシングの味がこれ『ア―!美味い!』と感じました。サラダ
の上に乗っかった肉の味付けもこれまた『ヤルナー!この味!』と感
じた味でした。

麺も固くなく、かつ柔らか過ぎず、ツルリー!とスープに箸で泳ぎま
した。 ボテー!と固まって、鉢の中でとぐろを巻いて居るような麺
では有りません、ふんわりと、軽く、麺も多すぎず、少な過ぎず、
丁度の量で満腹できましてこれこそ満足の『 越南米粉麺』でした。

美味しい物を沢山食べて、ベトナムコーヒーでも飲んで、マンゴー
プリンでも食後のデザートに食べれば、あー!言うことなしの満足と
いう感じでした。
貴方もひとつ食べ歩きして、美味しい越南米粉麺の店を探して下さい。
おわり。
     『我が妻と手取り合い食べ歩く仲の幸せよ、』

2012年2月19日日曜日

私の還暦過去帳(172)

この時期はアメリカでも納税のシーズンとなります。
私達夫婦が老齢年金を貰う前の事でしたが、この様な事がありました。

それにしてもアメリカでは国の健康保険などがありませんので、個人で
会社の健康保険を買い、契約する事になります。
会社勤めの人は会社が負担して、保険に団体加入する事になります。

毎度のことですが、申告用紙に整理して数字を書き出したら
『ぎょー!』として見直していました。

ショックでした。医療費関係がポン!と突出しているからです。
アメリカは政府の健康保険が有りませんので、個人で医療保険を契約
する事になります。夫婦二人で加入しますが、高齢だとかなり高額と
まります。

カイザー医療費保険が年に8、784ドルで、それにカイザー保険
には歯の保険は含まれてはいませんので、その他、歯と薬代、メガネ
なども自己負担ですから全部自分のポケットからお金が出て行きます
ので、この年齢となるとかなり痛烈なパンチとして軽い財布を直撃し
て来ます。2、612ドルが加算されまして、目を白黒していました。

ワイフと二人でぶったまげていましたが、しばらくはショック状態
で、ナ・・・・、なんとー! 11、396ドルが医療費関係で吹
き飛んでいました。これだからアメリカの豊かさも吹き飛んでしまう
感じです。 先日、私の知り合いが6週間も入院していたら125万
ドル請求書が来たと話していました。

それから、近所の日本人が話していましたが、軽い転倒で奥さん
は日本人の小柄な人で、白人のご主人を起こせなかったので救急車を
呼んで、病院に連れて行き、一晩様子を見るので入院したら、驚くな
かれ5000ドルも請求書が来たと嘆いていました。

どちらも保険がカバーすると言うことで、事無きを得ましたが、まるで
聞いただけでドキ―ンとするショックが有ります。ある日本人は保険
が心臓手術をカバーしないと言うことで、それでは一生仕事をして
貯めた老後の資金が一瞬で吹き飛ぶと感じて、日本に戻り手術して、

アメリカには戻らないと決めたと聞きました。彼はロスに以前は住んで
いました。保険会社は掛金が安い代りに、カバーしない項目が沢山あり
まして、いざと言う時にはトラブルが起きることが有ります。

今朝、メールで申告書類を送り、私の申告整理は全部済みましたが、
ワイフと茫然と用紙の数字を見ていました。

今年末は政府の老齢医療保険が申請出来ますので、半分ぐらいは節約
出来ると思い、ホッとしています。
それにしても、アメリカとは考えさせられる国です。

2012年2月18日土曜日

私の還暦過去帳(171)

越南米粉麺を食べ歩きまして感じた事は、彼等の移民して来た
数がとても多いと言うことでした。東部のボストンで昔、娘夫妻が
ハーバート大学の招待客員研究員として滞在していた時でした。

イタリア人街に近い港の広場に沢山のベトナム人が集合してサイゴン
陥落の記念に何か集会を開いていました。旧ベトナム国旗をなびかせ
て、マイクで祖国の共産政権の圧制を非難していましたが、アオザイ
のきらびやかな女性の姿が印象的でした。

こんなボストンの町に住み付いて、祖国を案じる彼等の心を思いまた、
西部のカリフォルニアにもそれ以上の数のベトナム移民達が住み付き、
生活して、活動して、伸びて行き、繁栄の象徴と言うショッピング・

センターも造り、今ではどこでも手軽に食べられる様な越南米粉麺の
レストランをフランチャイズで見かけるようにもなり、もはや日本の
ラーメン店などは影をひそめてしまいました。

先日も前に食べた事がある、日本のラーメン店に行ったらすでに閉店
していました。時代の流れです、東洋人達が好む食の変化が、もはや
アメリカを巻き込んで、今では寿司と、この越南米粉麺の流れが定着

したと感じます。中華レストランも近所で2ヶ所も閉店しました。
それは中華レストランのバフェー・タイプにお客を取られたからでし
た。安くて早く、豪華な店で一度に沢山の家族でもテーブルが囲める

店が、メキシコ系の大家族でも彼等が好む料理を合わせて作り、彼等
に歓迎される料理を出して、集客したと感じます。
今ではヒスパニック系をカリフォルニアでは無視出来ません。
我々がベトナム麺と言うレストランは、中年過ぎのアメリカ人が沢山

食べに来ている事は、やはりベトナム戦争経験者がアメリカには沢山
居るからと感じました。先日も少し頭が禿げかかった初老の男性が
一人で麺の鉢の前で、器用に箸を使い、生春巻きを口に入れ、麺の
スープを美味そうに口にしている男性を見ていると、かなり慣れた
感じで越南米粉麺を味わっていると感じました。

アメリカに定着して、アメリカ人にも喜んで賞味される感じの麺なら
ば、日本人でも病み付きとなるのはあたり前と感じました。
ご飯類も昔、学生食堂で食べた感じの盛りつけで、大皿に盛りつけた
ご飯とチキンが懐かしい感じでした。何も抵抗感がない、食べている

多くの人種も東洋人が9割は居ますので、どこかの日本の都会の食堂
の感じでテーブルに座る事が出来る事は、こんなアメリカのカリフォ
ルニアに住んで安らぎが出来る場所でもあります。

そして麺を箸でつまみ上げて、ツルリと口に走る感覚がこれまた、た
まらない心地であります。ありがたやーー!

2012年2月17日金曜日

私の還暦過去帳(170)

私が越南米粉麺を食べる様になって、かなりの店を歩きました。
去年の夏でしたが、娘が住んで居るロスから2時間ほど車で
北に101線を上った所のにあるサンタ・バーバラに行きました。

そこはロスの奥座敷と感じる海岸のリゾート的雰囲気がある町
で、海岸線には高級住宅が並んでいますし、山手の太平洋が
展望出来る場所には、そこも高級住宅の大きな邸宅が有ります。

大学も有りまして、若い人が沢山町中を歩いています。週末の
繁華街は大変に混雑と言う感じで、活気がありますし、レストラン
も色々な店が並んで楽しめます。
そんな所の町中で、娘が2ヶ所もベトナム麺の店に連れて行って
くれました。初めに行った店は開店して余り時間が経ってはいなく

店内は綺麗で、どこと無くそこの店の主人の気性が出ている感じで
した。味は娘が太鼓判を押すだけに、間違いは有りませんでした。
食器も驚くなかれ、全部が創作と感じる個性があり、レストラン用
の食器では有りませんでした。

お皿もデザインが個性的で、初めて見る感じでした。始めにパパイヤ
サラダを注文して、生春巻きを前菜として、麺が出て来るのを待って
いました。お皿の綺麗な絵を見ていて、どこと無く店の主人の気性を
感じる事が出来ましたが、麺もスープも上品な感じで、丹念に調理
して作った感じの料理でした。

麺を食べ終えて、そのあとの食後のデザートのマンゴープリンを注文
して、独特のベトナムコーヒーを自分で作り、娘は飲んでいました。
コーヒー粉を上の容器に入れて、そこから『ぽたー、ぽたー!』と落
ちるコーヒーを受けて、それをアイス入りコップに注いで、アイス・

コーヒーを自分で作ります。そのコ―ヒーを前にして娘夫妻と並んで
世間話をして、そんな事でゆっくり話しながらテーブルで、食後の
一時を楽しんでいたら、そこの主人がエプロンを外して、私達のテー
ブルに来て挨拶をしました。

そして味の感想を聞いていました。品の良い感じのオ―ナーシェフで
した。午後遅く店に入り、お客も一段落して途切れていましたので、
挨拶に出て来たと感じました。

今まで初めての経験でした。私達夫婦はかなり、あちこちを食べてい
ますので、良く比較しての越南米粉麺の違いが分ります。
私は『店の内装や飾りの絵、観葉植物の種類までどこと無く他の店と
は違う感じと』話しました。モダンな現代的なベトナム麺の店です。

オークランドの中華街にあるベトナム麺の店はまるで中華料理屋のご
とく商売の神様を正面に祭り、ドギー、ドギー!の飾りで私達、日本
人的な視野からすると、とてもベトナム人とは感じられない店が有り
ました。 そこは後で聞いたのですが、広東系のベトナム華僑の店だと
聞きました。

同じベトナム麺の店でも、純粋なベトナム人の店は同じ故郷のサイゴ
ンから来ていても、店構えがずいぶんと違う事に気が付きました。
そしてスープもどこと無く微妙に違いが有る事に気が付きました。
日本でも同じうどんの出し汁でも、地域ではかなりの異差がある感じ
と思います。

2012年2月16日木曜日

私の還暦過去帳(169)

私達夫婦が食べ歩きをして、近所に新しく開店した店が、かなり
ベトナム人達の社会でも評判が良くて、早速に出かけて行きました。
私のワイフはパートで学校の公務員をしていますので、そこの用務員
がベトナム人で、ベトナムから1970年の半ばに移民してきた人でした。

去年初めて、サイゴンとの直行便の飛行機乗り入れで里帰りしたと
言っていましたが、家族そろっての郷里訪問はいかがな感激だったか
と想像しました。その方の紹介での店でした。
彼等の口での、味覚での評価ですから、まずまずの店と思いまして
その越南米粉麺店を訪ねました。

店は綺麗で、全部新品で設備も近代化して見ただけで清潔感があり、
対応も若いベトナム人達がきびきびとして、対応する接客態度は他の
店とは少し差がありました。先ず初めての試食ですから、そこの店の
味の基本スープを見る為に、麺も米粉のありふれたベトナム麺を頼み、
スープも普通の海鮮麺に入っているスープで試しました。

まずまずの合格で、あっさり味で癖も有りません、何種類かの出汁を
ミックスした感じでした。麺もワイフは平たい麺、私は細い麺を頼ん
で食べ比べました。どちらも合格で、食感も舌触りも程よく食べる事
ができました。ゆっくりと食事を楽しんでいる隣りのテーブルに中年

の男性が座り、注文したのは生の牛肉を麺のスープに『しゃぶしゃぶ』
の様に浸して食べる麺でした。見ていると皿に薄切りされた牛肉が丸
く並んでそれを箸でつまんで、スープに泳がす様にして、『レンゲ』
のスプーンに垂らした、少量のニョクナムとカラシに、チョン~!と
浸すと、パクリと美味しそうに口に入れました。

見ていると霜降りの牛肉が美味しそうです。食べている顔も幸せな感
じを受ける、食の幸福感に浸っているような感じがしました。
それから麺を箸で摘み上げて、すする様に食べています。見ていても
直にその雰囲気が感じられ、長い麺を持ち上げて口に入れる動作も
慣れて、すばやく感じられ、本物の麺を、本当のベトナム人が食して
いると思いました。

町中のありふれたベトナム麺の店ですが、人間模様の食の世界を心に
感じる場所でした。

2012年2月14日火曜日

私の還暦過去帳(168)

1月29日は旧暦の正月です。
福岡県人会の新年会に出掛けて行きました。
私は戦前の台湾生まれですが、父の本籍が福岡ですから、県人会に参
加しています。

毎年参加人員が少なくなり、今年は25名ぐらいでしたので寂しい感
じでしたが、会場のレストランがオークランドのチャイナ・タウンで
したので、今日は混雑が最高の時で、近所にある仏教会駐車場から、
そこから歩いて中華レストランに行きました。

かなりの距離ですが賑やかな中華街を歩きますので、旧正月の真中を
歩く感じです、どこも豚の丸焼きや北京ダックやチキンのローストな
どを山と積んで販売しています。ベトナム人達も同じ旧正月を祝う様
で、特にオークランドのチャイナ・タウンでは広東系のベトナム人が
沢山に来ていた様でした。

勿論にベトナム人達も多く見かけました。沢山買物を持ち、声高く話
しながら肩を連ねて『 越南米粉麺』の看板の店にランチタイムで入っ
ていました。中は普段着の大勢の買物途中の人達が、麺を食べていま
した。

どこから来たのか大勢の東洋人がゾロゾロと歩いています、また白人
と結婚した東洋人が家族で店を覗きながら歩いていて、見るとかなり
の歳から推察すると、ベトナム戦争で出征して現地で結婚したベトナ
ム人と感じるカップルが、ひっそりとテーブルに向き合って、けん騒
の街中から遊離したかの様に、無心に食事の空間を二人で作り出して
いる感じがしました。

少し開いている食堂のドアから中が見えます、太平洋を隔てたベトナ
ムから移民して来て、カリフォルニアのこのチャイナ・タウンで
『越南米粉麺』の鉢を囲む東洋人と西洋人のカップルの姿が、現在の
麺の姿ではないかと感じます。

福岡県人会でハーモニカの伴奏で歌う新年の歌『歳の初め』を歌う老
齢の姿を見て、中で一番若いのが私であると言われて、皆はいったい
どのくらい歳かとふと感じたしだいで、同じテーブルに座っていた知
合いの女性が驚くなかれ、90歳でまだ車を運転して、今日の新年会
に来ていたとは、県知事からの表彰状を貰う姿を見て驚きと、その若
さに驚嘆しました。

いまだに戦前、アメリカに来る時に同船だった88歳の女性を誘って
来る姿は、到底は日本では見られないと感じました。今でも一年に何
回もネバダ州のリノの賭博場にカードをしに行くとは『おそれ入りま
したと~!』平伏しました。

運転はして行かないがバスで出掛けるそうです。
そして、還暦などとはまだ赤子だとのことでした。
それにも恐れ入りまして、ダンスに誘うと冗談で話していました。
彼女は『ボケ無し!、耳完全に聞こえ!カードをプレイして稼ぐそう
で、目も完全で支障無し!、車を運転してチャイナ・タウンのベトナ
ムうどんも食べに来るそうで・・・・、   
『これ・・・アー!と絶句!』

昨日の日曜日、私達家族は二年ぶりに全員が再会致しました。
子供三人は全部育ってしまい、結婚した娘は当地から500kmは離
れた所に住んで居ますし、他の男兄弟二名はそれぞれ違った道を歩い
ていますので、中々全員での再会は有りませんでした。

昨日の日曜日も長男はロスに行っていましたが、12時の飛行機で
サンフランシスコに戻って来ました。丁度、コルマ日本人墓地に墓参
りを娘と次男を連れて、久々にお花を供える為に出かけていました。
そこに携帯に到着した事を知らせてきましたので、一同揃う事になり
ランチも簡単な軽い物を食べる事にしました。

バークレー大学に近い、かなり場末に近いところにある、日本の酒造
会社のすぐ近い所の、インド軽食の店に家族で行きましたが、そこは
倉庫を改造したような、中はかなり広い場所で、沢山の家族連れの
インド人達が来ていました。

隣りはインド食品店でかなり沢山のインド食材が並べて有る店でした。
まるでニユーデリーの首都のどこか西洋人が多く住んで居た場所と何
か雰囲気が似ています。去年、インドを訪問した時の事で覚えていま
した。インドに留学していた次男が、先月の歳も押し迫った12月
29日にアメリカに戻って来ました。

またインドに二ヵ年ぐらい行く計画で、その準備をしていますが、
インドの食べ物には一年半ぐらい居たのでかなり詳しくて、色々な軽
食を各種の皿を取り、家族で少しずつ食べて試食していました。
朝が遅くてまだお腹も空いてはいなくて、丁度良いぐらいの食べ物で
した。

そこで食事を済ますと、次男の発案で、サンフランシスコの美術館に
行く事になり、また橋を渡って戻りました。家族で美術館を訪れる事
などは久しぶりの事です、長男の車に全員が乗りまして、娘もそのま
まSFから自宅に戻る事無く、帰ると言う事で、小さなカバンも積み込
んで出発しました。

楽しい美術館見学も家族全員でのそぞろ歩きで話しも弾みましたが、
8時の娘の飛行機の時間に合わせて、夕食はそこから近い所にある
ベトナム料理の『越南米粉麺』を家族で食べる事にしました。
少し時間が早目で、駐車も簡単に出来ましたので、ラストランでは家族
団欒の食事が出来ました。

料理の種類はサンフランシスコでも五本指に入る、ベトナム麺を出す店
です、前菜はパパイヤ・チキンサラダ、牛肉とキャベツサラダ、揚げた
春巻き、それぞれ麺は違った種類の鉢を注文して、家族で箸を伸ばして
皿を囲み、前菜を楽しんでいました。パリパリ、しゃきしゃきと歯ごた
えのある良い油で揚げた春巻きを、レタスで包んでニョクマム味のタレ
に付けて食べます。

麺が出て来るまで、話しが弾み、二年ぶりの家族再会の楽しい時間と
なりました。湯気の出ている麺がテーブルの上に並べられると、それ
ぞれお互いに注文した麺の鉢を見せ合って、モヤシを入れるもの、香葉
をちぎって入れるもの、カラシを出して小皿に注ぐもの、家族中で興奮

と麺好きの子供達の笑顔が前に並んで、箸を持ってすくい揚げる麺の
長さに驚き、笑顔でそれを口に入れる、おどけた動作、全てが楽しい
夕食の一時となり、普段二人で食べることを考えると、家族の幸せを
身体に感じる夕食となりました。ワイフと私は海鮮麺、長男は牛スープ
の麺、次男はニョクマムのソースを掛けて食べる麺、娘はチキンのスー
プの麺をそれぞれ食べて、満足して、お腹一杯となり、幸せな気分で
食事が終りました。

近所でコーヒーを食後に飲み、娘を飛行場までサンセットの海岸道路
を走って家族でドライブして、太平洋に沈む夕日の輝きに歓声を上げ
て走り、娘を飛行場まで送り別れました。
お互いにハグして、手を振りまたの全員再会を約束して見送りました。

2012年2月13日月曜日

私の還暦過去帳(167)

越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録の続きです。

ベトナム・ヌードル店で、ベトナム人達と越南米粉麺を熱気と共に
彼等小柄な身体で、洗面器ぐらいの大きさの器に盛られた麺を家族
で『ワイワイ・・、ぺチャーペチャ!』とお椀に取って食べている
姿を見てまた、生春巻きを口一杯にかぶり付くのを見ていると・・、
ふと昔を思い出しました。

1980年頃は、高速道路を走っていると、良く他州のナンバーの
車で、屋根の上まで荷物を積み重ね、まるでスタインベックの小説、
『怒りのブドウ』を思い出すような感じの車が、高速を『ヨタ・ヨ
ター!』と走っていました。
ノーベル文学賞に輝いた作家が昔、見た目と、私が感じた現代の感
じは時が大きく違いますが、何か共通する心があります。

『怒りのブドウ』は映画の巻頭の言葉に有る様に・・・、
―アメリカ中部に砂嵐地帯(Dust Bowl)と呼ぶ乾燥地がある。
―この乾燥と貧困が多くの農民の生活を不能にした。これは自然の
―猛威と経済変動に土地を追われ、安住の地と新しい家を求めて
―長い旅に出る農民一家の物語である。

大陸横断80の高速道路から、680に来てSanJoseに行く道でした。
どこか遠くから走って来た様で、車体もドロに汚れて長旅を感じさせ
る風情でした。中に乗っている東洋人達はどの顔も疲れと憔悴で、

ぐったりとした表情で、『ギュ―!ギュ―!』と積め込まれた人間が、
肩幅を付き合わせる様にして、片手を窓から出して、空間を作って
いる感じで、平行して走っていて、私の小型トラックを見て同じ人種

の東洋人と感じたのか、いきなり『サンノゼ―!サンノゼ????』
と怒鳴る様に尋ねていました。私はそのアクセントから『ベトナム人』
と感じましたが、私が英語で、『あと1時間だよー!』と声を掛ける
と、全員が私を見詰めていたので、

指で『1』のサインをして、ももう一度『あと1時間だよー!』と
怒鳴る様に言うと、見詰めていたやつれて疲れた顔に生気が戻り、
笑顔がこぼれ、子供がバイバイー!と手を振り、『V』のサインを指
で示してサンノゼ方面に消えて行きました。
そして、そのような車を何台も見ました。

あれから30年近く、彼等もカリフォルニアに落ちついて、小さか
った子供達は成人して、今、隣りのテーブルで麺を食べている家族と
なっているかもしれないと感じました。

越南米粉麺を食べる様になってからは、かなり食べ歩きをしました。
ベトナム人の数が多いのと、彼等が日常食べる麺で、他の中国人
広東系、タイ人などの愛好家も沢山居る様でした。

中華麺はどこと無く重たい感じで、食感としても油ぽい感じの麺が
多くて、それからしたら、ベトナム麺は上品な感じを受けます。
スープも辛くもなくて、またしっこくも無くて、澄んだ濃くのある
スープが 日本人の口にも違和感無く味わえる事は、日本人の持つ
『うどん・ソバ』という食文化は、昔から田舎を問わず、都会でも
どこでも手軽に食べられると言う米飯に代わったのが麺食です。

私が子供の頃に、近所のお婆さんが石臼を片手で廻し、左手で臼をひ
きながら、少しずつくず米を上から穴に落として、粉にひいていまし
た。『ゴロゴロ・・・!』と重い石が廻り、少しずつ、粉になった米
が下のゴザに落ちていました。一升の米をひくのは、かなりの時間が

掛かりそれを、カマにお湯を沸して、薄塩水で練ってお湯に落として
団子として、炒った大豆を同じく、石臼でひいて黄粉とした物に砂糖
を混ぜて、団子に掛けてくれたのを覚えています。昔の手間と根気

の居る手作りの食べ物などは、現在の社会では誰も受け入れてく
れません。越南米粉麺を前にしてテーブルに座り、瀬戸物のスプーン
でニョクナム(魚精醤油)を麺に数滴たらします、ベトナム料理には、
かかせない調味料、ニョクマム(ナンプラ-)です。
日本の秋田県などで使う「しょっつる」も同じ仲間です。

小皿にたっぷりと盛られた、モヤシを載せ、シェラント
の葉をちぎってふりかけると、熱いスープに沈めて混ぜ合わせレモン
を垂らすと、先ずスープをスプーンでゆっくりと味合う様にすすり飲
み、それから、やおら箸で麺を『グ―ッ!』と持ち上げて、口に入れ
る時に子供の頃に食べた団子や手打ちうどんの味を『ふっと~!』

思い出します。ベトナムでも昔の田舎では、日本と同じ様に石臼でひ
いた米粉で作る麺は、どのような手法が使われたか、同時に考えなが
ら彼等、ベトナム人と混じって食の歴史と文化を味わう感じと思いま
した。
別皿に注文した生春巻きとパパイヤのサラダも味わいながら、彼等、
ベトナム人が発散する生気を感じる麺の食文化です。

2012年2月12日日曜日

私の還暦過去帳(166)

越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録の続きー!

ベトナム麺の呼び方は『フォー』か『ホー』か・・・?
答えは最後を読めば分りますー!

アメリカに来て、オークランドのチャイナ・タウンに良く買物に出か
けましたが、何でもござれで・・・嬉しくなって来ました。

30年前はサンフランシスコの日本町に行かないと日本食は揃いませ
んでしたが、オークランドのチャイナ・タウンでは野菜などは殆どが
買えますので助かりました。魚も活きの良い品物が有り、その場で開
いて切り身にしてくれますので、日本の魚屋と同じ感じですが、残念
ながら刺身は置いてはいません、その代わり活きた魚を生け簀で泳が
していますのでそれを指差して買う事が出来ました。

買物して・・・、さー!ランチタイムとなり、何か美味しい物は無い
かと『きょろきょろーー!』と探していたら、あったー!中華麺類専
門店とあり『これこれーー!』と舌を長くしてお店に入りました。

初めは当地で『エッグ・ヌードル』という、しこしこ麺で少し色付き
の、日本で食べるラーメンの麺と同じ感じの食感と太さでした。
それに何と~!北京ダックの、色よく、こんがりとローストしたぶつ
切りがこれ、ドバー!と載っているのを私が注文して、ワイフは何か
澄ましスープで、麺は『そうめん』に感じが似た麺で、海鮮麺でした。

麺の上にはエビやイカ、貝柱などが適当に載せてあり、スープも鶏が
らの匂いもする感じで、濃くのある香りでした。
はてーー!側にモヤシやチャイニーズパセリなど、それにレモンなど
の切り身が付いた皿が有り、私が『じゃ―ん!』と感じたのは、これ
ぞまさしく見覚え有る!『越南米粉麺』でした。

適当に食べた後は、交換して試食しましたが、どちらも合格でした。
『あー!美味しかったーー!』と大きくなったお腹をさすりながら
・・・中華街をさまよう内に、あらー!なつかしや・・・・台湾生ま
れの私達夫婦は戦後日本に台湾からの引き揚げ者でした。

たいした記憶も未練も有りませんが、お互いに両親が台湾生活が長か
ったので中華料理にはかなりの熟練者でした。私は『ちまき』に似た
『バーチャン』と呼んでいた『台湾ちまき』を発見して、ニタリ~!
です、早速にお買い上げで、ワイフと喜んでいました。

あちこちと買物して、米粉麺のことを聞きますと『フォー』と言います、
昔のオランダ船でのおばサン達が『ホー』と言ったのはなぜ――?
と思いました。
それは・・・!

―これは何と言う麺なの・・?
―『フォー』だよ!

―ほんと~!『フォーー』なの・・?
 (私の聞き間違いかも知れないと何度も繰り返して)

―ほんと!ホント!  『ホー』と言うの?????
 (これがいけなかった様ですーー!忙しい商売時間帯ですから、)

―『ホー』だよ~!
 (おばサン連中が笑いながら答えてくれました)
―ホ~!そうか・・・やはり『ホー』と言うのかー!
(まあー!そう言う事で・・!私は今でも『ホー』と書いています。)
 (笑)

さて・・・!カリフォルニアに腰を据えて、ここで生活する様になっ
て、やはり毎日の食生活は簡単には変える事は出来ません、あたり
前ですが、一番困ったのが魚でした。そろそろ30年も前です・・、

私が住み始めた町は魚屋と言うのは一軒しかなく、当時のスーパー
などは冷凍の魚は置いて有りましたが、生は有りませんでした。
そんなことで週末は良くチャイナ・タウンに出掛けていました。

サンフランシスコは駐車場が無くて、直ぐに駐車違反でやられて懲り
まして、オークランドに行く様にしました。橋代も掛からず、30分
も節約出来ますし、一番良かったのは駐車場が目の前にあったからで
した。

しかし現在では、そこの大きな駐車場はホテルが建設されて、有り
ませんので近所の店がだいぶ廃れました。

それと言うのも、香港系の大資本がそこから10分ぐらい高速で走っ
た場所に、かなり大きなショッピングセンターを作り、スーパーから
商店、ドクターオフイスなど、またレストランも選り取りみどりです
から、自然と人の流れが、駐車料金も無いレストランも広東系、台湾
系、北京系、ベトナム系、ごちゃまぜ中華系、などなどーー!

それにパン屋さんもこれまた、日本人もOKです、乾物屋も有り、東洋
雑貨も衣料品も、小柄な東洋人向けが沢山置いて有りますから、我々
日本人でも嬉しく、先ずは韓国人、フィリピン人、インド人がぞろぞ
ろ歩いています。おかげで買物や食事も同時にして、駐車料金も気に
ならないと感じるショッピングセンターですから、どうしょうも有り
ません・・・・・、

スーパーは魚はドーン!とこいで、それこそ活きた蟹からナマズ、
ミル貝など生牡蠣も有り、東洋人なら、『うはうはーー!』と嬉しく
なる場所です。

売れる量が桁外れですから、いつも新鮮です。そんな所にベトナム麺
の店がオープンして、それこそベトナム人が押すなー!押すな!の盛
況で立ち見ではなく、立ち待ちですーー!ドド・・・!と押し寄せた
お客で人気が分ろうと言うもので『越南米粉麺』にはまった感じにな
りました。
それと言うのも、前はラーメンを食べ歩いていましたが、外ればかり
で少し腹が立っていました。手前勝手に『美味しい~!』などと宣伝
して、食べてみれば『良く言うョね~!美味しいなどと』一度切りの

店がかなりあったからで、酷い店はラーメンにキムチ食べ放題など
と、『ドッキリ店』があったからでした。
そこの味噌ラーメンは赤味噌のからい事で、『ぺぺ・・・・!』と
吐き出す様でした。学生崩れが開いた感じの店でしたが!
そんな事で余り外れも無い、『越南米粉麺』に病み付きとなりました。

西に開店したと言えば100里をとわず、あそこが美味しいと言えば
ワイフと仲良く出掛けていました。

2012年2月11日土曜日

私の還暦過去帳(165)


『越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録』を少し書いて
みますが・・・・・!

先ず題の解説から・・・、解り易く現代日本語で書きますと!
越南米粉麺=ベトナム・ラーメン(ホー)
加州桑港湾東沿岸地帯=カリフォルニア州サンフランシスコ湾東沿岸
           地帯。
美食探求味見録=美味しい物の食べ歩き録。

先ずこのような感じでありますが、若い人は漢字では苦手と思います。
サンフランシスコ沿岸では現在ではSanJoseなどはベトナム人が全米
でも一番の数と言われる様になりました。

ベトナム町と言うショッピングセンターも出来ましたので、ますます
繁栄してまた、ベトナム人が集中して来ていると感じます。
1976年頃は、かなりのベトナム戦争で難民となったベトナム人が
アメリカに移住して来ていました。

組織的、かつ集団的にアメリカ政府の援助のもとに入国していました
ので、アメリカ各州でベトナム移民との摩擦が、かなり出て来た時期
でした。

その様にベトナム人が持ち込む習慣、彼らの日常食生活、食文化など、
かなりアメリカからベトナム戦争に従軍したアメリカ人が沢山居まし
たし、そこで食べたベトナム料理と、食習慣がアメリカ本土に上陸し
ても、違和感がなく、ベトナム料理という味が急激に浸透して迎えら
れたと感じます。

ベトナムは以前、フランスの植民地でしたので、かなりフランス的な
ベトナム料理が有ります。驚くなかれ、ベトナム風フランス料理も有
るそうです。
私が思うに、きっと美味しい味の料理にまとめてあると感じます。

私が一番初めにベトナム人達に直接会ったのは、南米から日本に帰国
する時に、シンガポールから乗り込んできた人達の中に、沢山乗船し
ていたからです、私達が通称、華僑という広東系のベトナム人でした。

彼等は香港まで乗船していましたが、驚いた事に鍋・カマ、コンロな
ども持ちこみ甲板で炊飯して居た事です。三等船客もまだ下の、四等
船客達です。オランダ船はケチと聞いていましたが、まさに肌で感じ
ましたが、見れば甲板でアンペラひいてごろ寝している御仁も居ます。

我々日本人からしたら、各段の生活力がタフと言う感じです。おば
サン達がお昼となると甲板で商売しています、何かと見ると、お茶碗
に麺を入れて、スープを掛けて、まるで日本の『かけうどん』的な物
体を食べさしているでは有りませんかー!

―これはなんであるか?
―これは「ホー」という麺であるー!
―いくらか?
―25セントだよー!
―ほんとかね~!
―うまいよー!
―ほんまかいな~!
―食べるかネ~!
―食べたいが・・・・?
―ためしてみてよー!
―じゃ~!一杯ちょうだいナ~!
・・・・・・とか何とか言って食べたのが初めてでした。

バケツの水で洗うお茶碗ではあまり衛生的では有りませんでしたが、
『何でも食ってみようー!』の特攻精神は、いっも持っていました。
それにしても、オランダ船には驚きでした。

寛容精神があるかと思えば、そうではなく『袖の下での黙認』と聞い
てもっとびっくり・・・!でした。
食後のデザートには、甘いお汁粉もどきの『あずき豆とピーナツ』が
入った甘煮ごった煮?と言う感じの物でしたが、日本人の口にも合う
感じで満足していました。

時代は代わり、あれから幾年月か・・・、アメリカに来て、またあの麺
に再会しました。
今度はれっきとした中華街のレストランでした。
次回に続く。

2012年2月10日金曜日

私の還暦過去帳(164)

私の東京生活も直ぐに慣れまして、アルバイトと学生生活が成り立っ
ていましたが、当時は東京オリンピック前で、かなり東京は活気が有
り、古い町並みが壊されて、建て替えられていました。
そんな中で新宿西口はまだかなりの終戦後からの、バラック建ての店
が残っていました。一部は戦後の闇市を連想させる建物でした。

今ではどこを見ても、西口からの展望は近代的な建物だけです、私も
当時のバンカラ田舎カッペから、少し都会の水にも慣れて、それと不良
チンピラとのトラブル防止の為に、スタイルも変えていました。
それは都会風にジャンパーなどを着て、皮靴を履いていました。

有る時、新宿西口から出て中央線のガード下近くにあった鯨肉のカ
ツを食べさしてくれる店が有り、良く通っていました。安くてボリュ
ーム一杯で九州の田舎で良く食べた鯨肉料理が懐かしかったからでし
た。改札口を出ると前に、中年の男性がカバンを小脇に抱えて、何か
5時の疲れの影を背負っている感じで、歩いていました。

その人はバラック街に入り、私の前を歩いていましたので、付いて行
きました。その中は大抵は飲み屋街で、沢山の勤め帰りのサラリーマ
ンが、焼き鳥屋の前でコップ酒などを飲んでいました。焼き鳥の匂い
がたちこめ、どこと無く騒々しい感じで、その中で特に騒がしい店が
有りました。
その名は『軍隊酒場』という、酒場の入り口は帝国陸軍の二等兵の制
服姿の衛兵が立ち、模擬小銃を構えて立っていました。

当時は浅草や下町などにも沢山有りました。軍隊に出征した人が昔を
思って軍歌などを組んで歌って賑やかな酒場でした。私の前を歩いて
いた中年の男性は酒場から軍歌が聞えてくると、今まで疲れた足取り
がシャキンとなり、背筋を伸ばして、5時の暗い影もどこかに吹き飛ん
でいました。

後ろから見ていると、少し頭が薄くなって、どこと無くサラリーマン
の生活に疲れた感じが滲んでいましたが、軍隊酒場の前に居た少し若
い男性がその方に走り寄ると『隊長殿ー!お待ち致しておりました』
と言うと、カバンを取り先を案内する様に歩いていました。『軍曹も
ご苦労ー!』と声を返すとまるで先ほどとは全然、人が変わった様に
なり、入り口の衛兵が捧げ筒の構えをすると、軽く敬礼を返して酒
場に入って行きました。

当時の『軍隊酒場』の入り口は土嚢を積んで有り、まるで戦地の中で
の雰囲気を作り出してありました。その頃はまだ戦地からの復員兵が
祖国日本に外地から戻り、やっと落ちついて、日本の復興がなされ
て居た時代で、当時の東京オリンピックをバネに日本と言う国が飛躍

することを模索していた時代でした。私はその軍隊酒場の近くの焼き
鳥屋に入り、梅割りのチュウハイを飲みながら眺めていました。中か
らは軍歌の『同期の桜』が声高く響き、外まで聞えていました。先ほ
ど軍曹と呼ばれた男性は、まだ酒場の前で誰かを待っている様でした。

そこに杖をついて足が不自由な感じの男性が来ると、酒場の中へ大声
で『OOが来てくれたー!』と声を掛けると、6~7名の人達が飛び出
して来て、中の先ほど『隊長』と呼ばれた人が、抱き付く様に飛び付
き、抱きかかえる様にして皆に囲まれて酒場に入って行きました。

中には涙している人も居ました。感激の再会だったと感じます、私の
若い頃の1960年始めの、ほんの一こまの記憶ですが深く心に残ってい
ます。その当時の方々は、すでの沢山の方がこの世から姿を消してい
ますが、これを書いている時に、私が最初に移住した南米パラグワイ
の移住地で、うっそうと茂るジャングルを前に、焚き火の炎に照らさ
れて、火酒のグラスを片手に軍歌を歌っていた人を覚えています。

『ここはお国から何千里、遠く離れたパラグワイ』と歌詞は変えて歌
った居ましたが、何かジーンと来るものがあった事を覚えています。

2012年2月9日木曜日

私の還暦過去帳(163)

私が上京して、だいぶ落ちついて来てから遊びに出たのは新宿でし
た。 その頃はまだ書生の住み込みを始めては居ませんでしたので、
小田急の経堂駅から歩いて10分ぐらいの民家の離れを友人と借り
て住んでいました。その頃はバンカラ学生で、学生服で高下駄の
半分ほどに減った感じが下駄のサイズとなったのを履いて、冬は
足袋をはいていました。

田舎の福岡県大牟田でも、田舎カッペも良い所でしたので、それと
炭坑町の『ぬしゃー!なんばいよっちょか~!』と言う感じで、
『ボカー!』と殴られていましたので、見掛けは『借りて来た猫』と
言う感じでしたが、それこそ、カッぺー!のクソ度胸です。『やられ
たらやり返す』反骨精神が生まれ、鍛えられていました。

小学校時代から廻りは炭住街で、近くの炭坑電車の線路で5寸クギを
鉄道線路のレールの上に置いて、平たくして先の尖ったナイフを作り、
ゲタの歯の下に隠していました。絶対に先公には見つかる事は有りま
せんでした。 折りたたみの肥後守のナイフも、いつもポケットに入
れていましたし、それも隠し場所は下駄の歯の間に隠していました。

下駄の鼻緒の中は皮ひもを入れ、その緒は同じく皮ひもを使い、丈夫
で頑丈な下駄でした。下駄の歯にはクギを入れて磨り減らない様にし
てあり、また喧嘩などの時は、鼻緒を握り丈夫な武器となりました。
左手で片方の下駄を構えて盾の役目をして、右手で下駄を上段に構え
て、振り回すと、かなりの武器となります。そんな中学生、高校生の
生活も経ての東京生活でしたからクソ度胸は持っていました。

その頃はまだ東京オリンピックの前で、1964年8月のオリンピック開会
式までにはと、それに合わせてどこでも工事中でした。新宿駅から歩
いて歌舞伎町の映画街に行き、封切映画を見てラーメンでも食べて
帰るのが楽しみでしたが、そんな田舎学生をカツ上げする、ヤーサン
のチンピラが居て『顔を貸しナ!』 と暗がりに連れこまれて、金を巻
き上げられていました。

私もアルバイトで稼いだ小金を懐に、喜んで夕方遅くなり最後の映画
を見ようと歌舞伎町の近くを歩いていたら、いきなり『オイ学生ー!
顔かしな~!』とチンピラが肩で風を切って、顎で路地を示して、
一人が路地の前で見張りに立ち、そこへチンピラに連れこまれまし
た。しかし何と無防備に私の前を肩を怒らして歩いて居るでは有りま
せんか、『馬鹿ジアーあるまいし!』と感じましたが、

そこは田舎での経験が物を言う感じで、直ぐに下駄を脱ぎ、右手に握
りまして、チンピラの後ろ頭を『パカーン!』と殴り、足袋裸足で走
り戻りましたが、路地の入り口に見張りしていたチンピラが、飛び上
がる様に驚いて、ヤラレタ兄貴分に駆けより、慌てて『このやろー!
兄貴をやりやがったな~!』と殴り掛かって来ま した。

『こいつも馬鹿ジアあるまいか~!』と感じる程度で、手に持ってい
た下駄を顔めがけて投げつけると、それを手で避けると、小気持ち良
い音でチンピラの顔の額に『ゴチンー!』と跳ね返り、相手は後ろに
ひっくり返りました。拾い上げた下駄でオマケニもう一度、相手の手
をふんずけると、両手に下駄を持って 足袋で韋駄天に走って逃げま
した。直ぐに表道に出て人混みに入り、バス停に止まっていた都
バスに飛び乗りまして、『ハイーさよなら!』と逃げましたが都会と
田舎ではかなり差があると感じました。

田舎の炭坑町では私などは恐ろしくて、不良チンピラなどと言うと避
けて歩いていましたが、都会では格好だけで肩怒からせているチン
ピラが沢山居る事を知りましたが、その経験から田舎カッペの格好
は止める様にしました。カモになって喧嘩ばかりしなくてはならない
と感じたからです。今では懐かしい思い出です。

2012年2月8日水曜日

私の還暦過去帳(162)

私が上京して勤労学生としてスタートしてから稼いだお金で買った
最初の物は電気ガマでした。当時の3合炊きという小型の電気ガマ
でしたが、どんなに便利だったか助かりました。それと言うのも自炊
を始めたばかりで焦げ、半煮え、ごっちんおこわなどと失敗が多くて
こまっていました。

電気ガマを買ってからはピッタリとそれが無くなり、随分と便利でい
つも一度に3合を炊いて一日それを食べていました。少しばかり外食
もしていましたが、毎食がかなりの経費となり、量も少なく18歳の
食べ盛りでは、寂しい思いでしたから、自炊では腹一杯食べることが
出来ますので自分で買物して、自炊する事は歓迎でした。

直ぐに特売日などを覚えて、どこで安く買えるかなども覚えてしまい
ましてスーパーの惣菜屋で閉店間際に、夕食の惣菜物や特にメンチや
コロッケ、天婦羅のかき揚などの残り物を学生だからと、また値引き
して、おまけを付けてくれて、おかげで貧乏学生には助かりました。
ソースもドバーと掛けてくれ、包みを開けたら直ぐに食べる事が出来
ました。

学校の授業が終ってから、近所に有った鉄鋼所で夜勤の仕事を見つけ
て、当時は景気が良くて残業が多すぎて工員達が悲鳴を上げてい
た頃でしたので、夜の9時頃まで仕事が有り、夜食と風呂を貰って帰
宅していました。そこの職人さんが溶接、旋盤、ボーリングの穴あけ、

工具の使い方などを『おい~!学生!もたもたするなーー!』と怒鳴
りながら親切に教えてくれ、特にヤスリ掛けの仕事などは万力に挟
んだ物を丁寧に削る事を教えてくれました。おかげでこの年になって
も覚えていますし、かなりの仕事も出来ます。夜もふけて十時頃に風
呂も貰い、握り飯を口にしながら歩いて下宿まで帰ることは、やはり
寂しい思いでした。

田舎の自宅では母親がいつもお腹が満腹まで食べさしてくれ、食べる
と言う事は一度も心配などした事は有りませんでしたから、お袋の有
り難さを感じていました。おかげで南米に移住してからも、自炊が出
来ましたので、だいぶ役にたちましたから、今では懐かしく思い出し
ます。

書生の仕事さがして住み込みで働く様になるまでは、土曜、日曜も休
まずに働いていました。色々なアルバイトをしてして、一番良かった
のはやはり植木屋さんで、ここも色々な仕事を親方が手取り足取りで
教えてくれ、ここでは職人さんが・・・
『おい~!学生!もたもたするなーー!』と怒鳴っても、
帰りはコップ酒を『飲め~!』と言って勧めてくれ
『夕食を食べて帰れーー!』と、言ってくれました。

色々な植木屋の仕事を覚えまして、今でもどんなにか役にたって庭仕
事も出来ますし、私の今の仕事でも役に立っています。

2012年2月6日月曜日

私の還暦過去帳(161)

このお話はだいぶ前です、かれこれ30年ほどになると思います。
私がアメリカでコンデミニアムと言う集合住宅の管理をしていた
頃です、そこではかなりの大きなプールも有りまして、最低週
四回は行って見廻りをしていました。

私がいつもトラックを駐車していた所は、大きな松の木が有り、
夏でも涼しい風が通過して、直ぐ近くには小川も有りました。
行くと必ずランチはそこで食べていました。
直ぐ側の家にはお婆ちゃんがバニーと言う子犬と住んで居ました。

近所に娘が結婚して住んで居まして、時々見に来ていました。
バニーと言う子犬も娘からの贈り物でした。
可愛いい子犬で、毎日散歩に近所をお婆ちゃんと歩いていました
が、私がランチを食べていて、その時、丁度弁当に卵焼きが有り、

それを食べる途中で、ポロリと一切れ落として、捨て様と思い
弁当の蓋に置いていました。
丁度、バニーが歩いていて、私のランチの匂いに誘われてクン
クンと私のトラックの下に来て見上げていました。

私はこれ幸いに卵焼きの一切れを小さく切って、先ず試しに食べ
させました。バニーは尻尾を猛烈に振って、『もっと頂戴~!』
と騒いでいました。その強烈なジェスチャーで、私はそれそれと
次ぎを、三ッぐらいに分けて与えました。

お婆ちゃんが後ろからバニーに追い付いて来て、直ぐ側の家に
入ろうと誘いますが、拒否ですーー!
見ていると、バニーは『もっと呉れ~!』と騒いでいました。
丁度お腹も空いていたと感じます。バニーは首輪にヒモを付けら

れ、しぶしぶ家にひきずられて帰って行きました。
しかし翌日です、同じ時間帯に散歩に出ますので、私のランチ
時間と丁度同じ時間となり、バニーが家を出ると私のトラック
に飛んで来ます。お婆ちゃんはびっくりして見ていました。

『ワンワン』と吼えて、『卵焼きを呉れ~!』と騒いでいます。
私が食べていまして、その匂いを覚えている様でした。
ランチのオカズには必ず卵焼きが入れて有りましたので、その時
は食べかけを『チョン~!』とあげましたら『もっと呉れ』と、
いくつかの芸を自分から見せてくれました。

クルクルと回転する、上手な芸には驚いてしまいました。
その日も芸を見せて貰ったご褒美に一切れの大きな卵焼きを
プレゼントしました。多分それが悪かった様でした。
それから毎日です、私のランチ時間を覚えてしまい、何時もその
時間帯、散歩が無いと、『ワンワン~!』と外に出るまで
吼えていました。

私もついつい、その吼え声を聞いて、直ぐ側の家で、塀の中に居
るバニーに卵焼きを配達していました。すっかり仲良くなり
必ず、色々な芸をして見せてくれました。
特にネギとシラス干しが入った卵焼きは、目を細くして犬でも
美味しそうに食べていました。

しかし有る日、私が朝早くトラックを駐車させると、娘が泣き
ながらバニーを抱いて家の前に居ます、何事かと聞きますと、
『昨夜、心筋梗塞で急死した』と話してくれました。
そしてその翌日、近くの教会でお葬式が有りました。

私はこれがバニーと最後の別れとなると感じて、ワイフに卵焼き
の特大を作ってもらい、サンドイッチの袋に入れて持参して、
娘に卵焼きの作り方を書いたメモを入れて置きました。
お婆ちゃんのお葬式ですが、バニーは娘の膝で私が渡した包み
の匂いを知り、目を輝かせていました。

その姿がバニーを見た最後でした。その年のクリスマスにカード
が娘から来て、バニーの可愛いリボンを首に巻いて写った写真
が同封されていました。今も私の机の引出しの中に、大切に仕舞
って有ります。
お婆ちゃんが急死してから、ランチ時間となるといつもバニーが
転がる様に走って来た事を思い出していました。

私の還暦過去帳(160)

昔の子供の頃の正月を思い出すと、懐かしい思い出を感じます、その
頃はまだ戦後という時代を引きずっている頃で、やっと物資が出てき
た感じでしたが、欲しい物を買って貰えるのはやはり盆と正月でした。

今では何でも好きなものを買えますが、その当時は庶民が望んで買え
るのは夏と冬のボーナスが出た時でした。子供心にも嬉しくて今度は
何を買ってもらえるか楽しみでした。それからしばらくして東京に出
て来て一人で生活する様になってからは、今度は自分の生活に追われ
て自分が買いたい物は中々、買う事が出来ませんでした。

18歳と三ヶ月の時に郷里の福岡県から上京して、勤労学生として仕事
をしながら学校に通っていましたが、当時は東京オリンピック前でど
こでも工事中でしたが、青山通りにはまだ都電が走って、屋根瓦の商
店が残っていた時代でした。今では青山通りにはそんな家は一軒も残
っては居ませんが、時々自転車で世田谷三丁目から赤阪見付け辺りま
でサイクリングしていました。

日曜日の車が少ない朝の時間に、普通の自転車でえっちらおっちらと
ペタルを漕いで、渋谷の道玄坂は押して登っていました。
随分あちこちと歩いた覚えが有ります、金がない学生ですからこれが
一番の都内見物となりまして、直ぐに都内の地理もだいぶ覚えました。

渋谷の高級住宅街では外国人のメイドが子守りしながら散歩していて、
珍しく感じまして、声を掛けたらどこか東南アジアから来ていた若い
女性でした。発音がまったく分らない英語で何と答えて良いか困りま
したが、直ぐに仲良しになり、何かクッキーらしき物を貰った覚えが
有ります。
それから有名人の邸宅などに突然行き当たると『へー!凄い邸宅』と
驚いていましたが、福岡から上京して来た田舎学生です。見た事もな
い外車の車が車庫に止めてある邸宅など初めて目にして、ぶったまげ
ていました。それからしばらくして、アルバイト先を学生課から紹介
されて植木屋の下働きで町の植木屋さんにアルバイトに正月前に手伝
いに行きました。

これは金になるアルバイトで普通より2割は稼ぎが良い仕事先でした。
それとお昼は必ず何かおソバかカツ丼などを取ってくれ、3時のお茶の
時間などはかなりの豪華なケーキや御菓子が出ました。仕事が終ると
下働きの学生にも必ずお捻りの僅かでしたがこずかいが貰えて、親方
に付いて渋谷あたりから自転車で三茶辺りまで帰って来ました。

雨が降りそうな時は息子がオート3輪で迎えに来てくれ、親方の家で
親方の紋を染めた法被を脱いで着替えていました。
法被を着ると学生でも見た目はいっぱしの職人となり、親方は一人前
に手間賃を貰っていたようでした。

我々学生はそこの親方の家で良く夕食をご馳走になり、お酒も相手さ
せられ、当時20円ぐらいのコロッケやメンチカツなどで、ソースを
ドバー!とかけて、キャベツの千切りを付けて食べされてくれ、お腹
もふくらみ、ほろ酔い機嫌で下宿に帰宅していました。
薄暗くなった道を自転車で下宿まで帰る道すがら、流行歌など歌いな
がら走って帰るのが、親元から自立して生活する最初の一歩でした。

しかし生活費が高い東京では直ぐに追いつかなくなり、映画監督の住
み込み書生として生活する様になりました。庭の手入れと犬の散歩、
夜は必ず家に居る事で用心棒の役目も有りました。犬が三匹居ました
ので夜中に吼えると見に行くぐらいで、合計して四年間ぐらい居た間
に一度も何事も無く無事すごしました。

夜は主人が映画監督の仕事と脚本書きで、かなりの大きな書庫が有り
まして、毎日読書に励みました。脚本もかなり昔からの古い脚本が
有り、それを絵コンテ付きで読むのが楽しみでした。
そんな事で学生生活を過ごして、有意義な時間を持てたと思います。
この続きも書いてみたいと思っています。

2012年2月5日日曜日

私の還暦過去帳(159)

だいぶ昔になります、私がアルゼンチンのサルタ州で農場支配人の仕事
をしていた時期です、かれこれ46年ほど前になります。
当時のアルゼンチンとボリビア国境は、ゲバラのゲリラ活動でかなりの
緊張がありました。私が住んで居た河岸の対岸では農場の売店が

襲われて、かなりの物資が盗まれたと聞きましたがその時、一人の農場
関係者が後ろから1発撃たれましたが命は助かりました。
そん事で田舎の余り人の行き来がない場所でしたので、用心していまし
て、銃器類もかなり揃えていました。

雨が降ると道は泥土で、馬も人間も、まして車などは走行困難でした。
降ってから2日ぐらいすると馬や人間は歩いては町まで行けましたが、
荷物などは少量しか町から持ち返る事が出来ずに、肉などは直ぐに貯蔵
して居る冷蔵庫が灯油の貧弱な冷凍機能しかなくて腐りますので、僅か
な量しか買って来れませんでした。

泊まり込みの現地人が仕事で居ますので、毎日の食事に肉は欠かせませ
んので、雨が降ると食べる肉も無くなり、山ハトを撃ちに行きました。
かなりの肉がとれ、から揚げなどは美味しい料理でした。
ある日、何も肉類が無くなり仕方なくライフルを持って山ハトを撃ちに
出掛けると、ジャングルの中でオオムが片羽根を傷めて木の枝に止まっ
ていました。

物陰から見ていると、つがいの夫婦の様で、仲良く並んで一羽が羽根を
くちばしでつくろっていました。少し垂れた羽根を癒す様にしてくちば
しで優しく押し上げているのを見ていると、人間の夫婦のような感じが
します。 しばらく見ていて騒がせない様にして、他の場所に移動して、
山ハトを食べる数を狩猟すると帰りにまた見に行きました。

今度はなにか食べ物をくわえて来ていて、仲良く食べていました。
夕方の灌漑用水の見回り時間にも見に行きましたが、集団で暮らす オ
オムとしてはめずらしく、つがいだけで仲良く寄り添って木陰の夜露が
濡れない場所でジッと動きません、山猫などに襲われないように注意し
て見ましたが安全の様で安心しました。

翌日も同じ場所でつがいが居ました。子供がゴムのパチンコでオオムを
打ち落とさない様に、当時仲良くしていた子供にキャンデーとこずかい
を渡して、見張りと子供の仲間達に注意させる様に頼みました。
パチンコで使う玉は、粘土をパチンコ玉ぐらいに丸めて影干して固い弾
になり、かなり威力が有りました。

一度粘土で弾を作る所を見ましたが、粘土を鉛筆の様に細く長くして、
それを1cmぐらいに切り取り、一度に沢山の粘土を軽く板に挟んでコ
ロコロと廻して丸めます、簡単に丸い玉が出来ましてそれを並べて陰干
ししていました。それを首から下げた袋に入れていまして、使っている
様でした。忙しいので毎日は見に行けませんでしたが、夜になると子供

が私に状況を知らせてくれましたので、その日の状態は知ることが出来
ました。 それから2日ばかりして、私が畑でトラックターで土起こし
をして居たら、子供が走って来ましたので、何事かと聞くと『オオムが
見えないので近所を捜したら、かなり離れた溜池の近くの木に仲良く止
まっていた』と話して

『直ぐに飛んで居なくなるから見に来い』と言ってくれました。
私は仕事を中止して、エンジン止め子供と連れ立って見に行きました。
溜池の柵の上で仲良く止まっていまして、水を飲んで居たようでした。
オオムの片羽根はもう垂れてはいなく、元気な様子で安心しました。

傷が治った様でこれから彼等の住家のある山まで帰ると思いました。
それからしばらくは、毎朝早い時間、エサ場に集団で飛んで行くオオム
の鳴声がすると、あの中に傷が治ったオオムが居ると思い見ていました。
朝焼けの空に、まだ大陸性の冷え込みが激しい朝の冷気に鳴声を響
かせて飛ぶ姿を今でも思い出します。

2012年2月4日土曜日

私の還暦過去帳(158)

ここカリフォルニアも雨が良く降る様になりました。
今までは例年と比べて雨量は少ない様でしたが、ここ12月に入りかな
り降る様になりました。今日は気温も低目で一日、コタツに入っていま
した。これは金曜日の午後遅くから崩れてきて、土曜日は朝から降り出
して、とうとう日曜日も一日中、日本の梅雨時の様に大雨で、降ったり
やんだりの天気でした。

乾燥の激しい所に住んでみると分りますが、熱帯性気候でも乾燥地帯と
高温多湿の熱帯雨林の場所が有ります。一度、私が旅行した所で飛行機
から見たアマゾンのジャングルの凄さを見て、同乗していた2世のブラ
ジル日系人に聞いたら、ここはアマゾンの上流でペルー国境に近い世界
で一番雨量が多い所と話を聞きました。

うっそうと茂る原始林の緑濃い、密生したジャングルを眼下に見た時に
感じたのは、ここがあのアマゾン河の河口で、対岸が見えないくらいの
川幅の大河水源として雨が降り注ぐ大地と、目を皿の様にして窓から眺
めていましたが、その時写した写真を見ると、今でもその凄さを思い出
します。

私が南米で農業をしていた時代は、まだ肥沃な開発可能な土地がかなり
有りました。今ではそれも無くなり、過度の開発で環境の激変を憂いて
います。人間が自分達の生活の手段として開発して、自然を破壊してい
る事の自覚も無く、ただ利益追求の手段として、利用されていると感じ
ます。

37年前にアマゾン河中流のマナオスからベレンに夜間飛行で飛んだ時
に真っ暗な下界のジャングルの中が、鬼火が燃える様にチラチラと赤く
瞬いていた事を覚えています、それが延々と続いていたことは、いかに
多くのジャングルを焼き払っていたかと言う事です。それも食肉用に牧
場を切り開く為に開墾されていたのです。

ブラジルは現在では世界でも有数な食肉輸出国になっています。それと
大豆生産の為に切り開かれ1500万トンの大豆生産が行なわれ輸出さ
れています。中国はそのブラジル一国の全生産量を輸入しています。
世界は変わりつつ有ります、それも激変の変わりを予測することが出来
ます。

小さなパイを巨人が二人、世界の人口の半分を占めるインドと中国が食
いちぎる勢いで伸びています。日本は人口減少とそれに自国の自給生産
を28%以下に落とし、鉱物資源、石油資源の無さに加えて、穀物資源
の先細りも見えて来ました。1960年には75%近くあった自給率が

日本の産業の繁栄と正比例して落ちに落ち、下がりに下がった農業生産
率を思い、食として日本人の生命維持機構を他国に任せて、活きなけれ
ばならない政治と、その官僚が握る将来のプランを見て、日本のこれか
らの生きる源を憂い、悲しみ、悲観してばかりでは、これからは生きて
行けません。

牛肉の食肉として消費される日本国内の需要の20%近い数がアメリカ
産です。これまで50年近くの日本の農業の歴史を見て憂いだけが湧い
て来ます、50年近い昔ですが、その当時でも農業をすると言うだけ
で、変わり者扱いを受け、軽蔑された覚えが有ります。私が百姓をして
いる言うだけで『ゲラゲラ』と笑い出した友人も居ます。

『お前は彼女も恋人もつくれないぞ』と忠告してくれた人も居ます。
私が一番感じ、心に今でも思うのは、その様な思考をする人間を育てた
教育、家庭、社会環境に激しい、いきどうりを感じます。これからの
世界で日本が生き残るのは、また生き残れるのは、科学者を育てること
も大切ですが、土に命を賭けて生きる人間、その報いがある社会を作ら
ないと、日本と言う国が滅んでしまうと感じるこの頃です。

2012年2月3日金曜日

私の還暦過去帳(157)

私がアメリカに来てからの隣人で、大変にお世話になったジグと言う
名前の友達が亡くなりました。彼は今年でちょうど87歳でしたが、今年
の始め頃からはかなり衰弱していました。夏に一度、倒れてからはます
ます酷くなっていた様でした。
先日近所の病院でひっそりと亡くなりましたが、子供が居なくて少し寂
しいお別れでした。彼の話しは前に書きましたがそれを載せて、その後
の様子を今日は書いてみたいと思います。

以下は前回のお話です
私がアメリカに移住して来て、一番初めに住んだ所の
家の前に、第二次大戦で日本軍の捕虜となり、終戦まで八幡製鉄
の工場で働かされた、私が「ジグ」と呼んでいる87歳になる老人が
居ますが、彼は一切そんな差別のそぶりはしません、親切で何も
アメリカ生活を知らない、私達家族を助けてくれました。

日本海軍が真珠湾を攻撃した日、彼が乗船した居た潜水艦は湾外
に出ていて、損害は免れたそうですが、攻撃後しばらくして湾に帰航
すると、黒煙と火災で大混乱の最中だったそうです、それから二ヶ月
ほどして真珠湾から、南下する日本軍の輸送船団を攻撃しに出撃して
行ったと話してくれました。

オーストラリアのシドニーからインド洋に出て、最後のオーストラリア
のどこかの港で補給をすると、ヒリッピン近海で作戦行動をしていて、
日本の二隻の輸送船を撃沈して、次ぎの目標を探して航海していた
時にゼロ戦の襲撃を受けて急速潜航をしたが、爆弾を投下されて、
その爆弾の被害で、彼が居たソナーの船室の天井の鉄板は30センチ
ぐらい凹んだそうですが、水漏れはするが沈没は免れて、電気も消えて

衝撃で破壊された蓄電池の動力も動かず、有毒ガスも発生してやっと
非常灯だけの灯りでソナーの探知をしていたそうですが、かなりの時間
が経った時に遠くで、駆逐艦のスクリューウの音が探知されて、動けな
い海底に鎮座している潜水艦などは、爆雷で直ぐに破壊されてしまう事
は間違いないので、船長に報告すると直ぐに最後の動力のジイゼル・エ
ンジンを動かして浮上して、日本軍に降伏したと話していました。

その後、日本の八幡製鉄所近くの捕虜収容所に送られて、そこで
製鉄所の仕事をさせられていたと言う事です、冬は寒くて火鉢しかな
く、お腹が空いて悲しかったと話していました。
辛い事が沢山有ったそうですが、親切な通訳が居て色々な事を助けて
くれたと話していましたが、だいぶ昔に黄色く変色した、ざら紙の
ノートに書いた住所を見せてくれ、この人のおかげで生き延びたと言
っていました。

八幡製鉄所に三年半も居て、終戦の日に天皇の降伏のラジオ放送が
有って、それからは仕事もしないで収容所に居たそうですが、翌日に
沖縄から飛来した飛行機が無線機と医薬品を投下して連絡が取れて
沖縄の基地と収容所を結ぶ無線連絡が定期的に取れ、直ぐに
輸送機がパラシュートで沢山の食料や医療品を投下してきて、
余りの正確な投下で収容所の屋根に沢山の荷物が落下して来て、

危うく命の危険を感じたそうです、空中で荷物が分解して、缶詰めな
どがバラバラと落ちて来て、負傷者も出たと話してくれました。
その夜、収容所の便所は長い列が出来ていたそうです、突然の大量の
食事と高蛋白のコンビーフなど肉類の接収で、皆が下痢を起していた
そうで慣れるのに、かなりの時間が掛かったと言っていました。

沖縄からの指令でアメリカ軍が進駐して来るまで、そこに滞在して待っ
ている様に命令されたそうですが、横浜にはその頃にはアメリカ軍の
先発隊が来ていて、その情報をラジオでキャッチすると、持てるだけ
の食料とタバコを持って仲間三人と、製鉄所で支給された国民服を着
たまま東京行きの列車に乗車して小倉駅を出発したと言っていました。

広島あたりまではデッキにぶら下がって居たそうで、それ以降は座れ
たと話してくれました、食べ物は沢山のタバコと、缶詰めを持ってい
たので、どうしてもお腹の調子が悪くて、おにぎりと缶詰を交換して
それから良くなってきたそうで、タバコがお金の役をして、何でも交
換出来た様です、ミカンもお芋も食べたと言っていました。

途中から乗車して来た将校が腰に差していた軍刀を土産に上げると
言ってくれたが、断ると窓を開けて捨ててしまったそうです、そして降
りる時に英語で「これからは両国民は仲良くしよう!」と言うと敬礼し
てホームに消えて行ったと言っていましたが、横浜駅が近くなって駅に

アメリカ兵が警備で立っているのを見て、あの感激は忘れられないと
話していました、直ぐに横浜駅に到着して、ホームに出て、警備の
アメリカ兵を探して、三人で大声でわめきながら抱き付いて行ったら
兵隊が仰天して、薄汚れた国民服を着たアメリカ兵など見た事も
なかった様で、カービン銃を付きつけて「俺にちかずくなーーー!」
と怒鳴っていたそうです、でも直ぐに気が付いて、泣きじゃくる三人
を連れて、ジープで基地まで運んでくれたと話してくれました。

彼は戦争とは国と国が起したもの、一人の人間同士は同じ人間だ
と言って、私の家族に親切にしてくれました。
「私も親切な日本人の助けがなければ、命を永らえる事は出来な
 かつた、偏見や人種差別はその人の生まれた生活環境や
 教育で決まると思う、しかし憎しみや憎悪を偏見や差別の心で
 育ててしまう人も沢山居る様だがーー」と話していました。

私はアメリカに来て、一番感謝して、ありがたく思ったのは良き人に
巡り会った事と思います、彼がパールハーバーデーの日に掲げる
星条旗は、日本軍の真珠湾攻撃で戦死した仲間と、捕虜時代に病気で
亡くなった潜水艦の乗組員の霊を慰める為です。
しかし彼も歳を取り、アルツハイマーの進行でそれもしなくなり、
いっも窓際に座ってTVを見ています、私が訪ねると必ず手を振って
くれ、そして「Hello~!」と声を掛けてくれます。
終り、

今日はその続です。
彼は横浜にしばらく滞在して健康診断などを受けて、厚木基地から
グワムまでは輸送機で飛んで、そこから輸送船でカリフォルニアの南
に在る、サンデイエゴの軍港まで行き、そこで解散となり、捕虜時代の
労賃として一日、一ドルの報酬をアメリカ政府より日本政府が支払

うべき賃金を代わりに貰い、軍隊時代の給料と合わせてかなりの、当
時としてはまとまった金額を掴んで、オハイオ州の実家に帰宅したそ
うです。しかし、そこでは一週間も居ると、死んだような静かな田舎
の生活に耐えられず、ロサンゼルスに出て昔の仲間と楽しく、懐の豊
かなお金に任して酒と女でしばらくは遊びほうけていたと話していま
した。

その金も尽きると、当時、兄が住んで居たサンフランシスコ郊外に移り
住み、タクシーの運転手をしていたが、日本での捕虜時代に八幡製鉄
での経歴が買われて、直ぐにアメリカ鉄鋼の製鉄所に勤務を始めて、
62歳で引退するまでそこで仕事をしていました。

引退してからは、狩猟クラブに参加して、クラブハウスを作り良く狩猟
と魚釣に行っていました。平凡で静かな生活を楽しんでいました。
アメリカの典型的な引退後の生活を過ごしていまして、毎週に綺麗に刈
り込まれる前庭の芝生を手入れして、裏庭にはバラのお花を植えて自分
の子供のように猟犬を可愛がり、私の三人の子供達も色々と世話をして
くれました。

一度彼とTVで記録映画のフイルムを見ていたら、戦時中に南太平洋
トラック諸島で沈没した日本海軍の潜水艦の引き揚げ記録を見ていて、
引き揚げられた潜水艦から遺骨が収拾され、家族がその骨を積み上げて

荼毘にする場面を見ていた彼がメガネを外して、泣きながら見ていた
事を覚えています。そして『自分もあと僅かに爆弾が炸裂するのが早
かったら、あの様にして、死んでいただろう・・』と涙だながらに話
してくれました。
その彼もサンフランシスコ湾の39番桟橋に係留されている同じ第二次
大戦で活躍した潜水艦を訪れた時に、暗い非常灯の下で、同じソナー
探査装置の机の前でジッとたたずんで動かなかったのを思い出します。

彼の任務がソナーの係だったからです。それは戦後初めてでそれが最後
でした。潜水艦から下りて、桟橋で艦が全部見渡せる場所に来ると、
はためく星条旗に背筋を伸ばして敬礼すると、後も振り返る事無く歩き
去りました。
その彼も今度は彼の昔の仲間が待っている天国に旅立ちました。

2012年2月2日木曜日

私の還暦過去帳(156)

今日のお話もヘビが出てきます、それと言うのもこの話は思い
出すと今でも冷やりとして、心臓がドキドキする時が有るから
です。確かにあの時ぐらいヘビで緊張して、生アセを垂らして
ぞー!っと心冷やした思いは初めてでした。

それはアルゼンチン奥地での農場で仕事をしていた頃でした。
水掛の作業で水路を流している農業灌漑用水の流れを見て
廻っていた時でした。河岸から最終時点までは約2kmは有り、
かなり複雑な水路の流れを、農場の高低に合わせて流してい
たからでした。

一人で犬も付けずに歩いていました。しばらく歩いて畑が切れ
藪も有る所に来て、歩き出した時でした。
突然にガラガラヘビの尻尾の鈴が一番の危険信号の『ビーー!』
と言う連続の乾いた音を真近に聞いたからでした。
『しゃら!しゃら!』と言う音は警戒信号ではCクラスであまり接近

はしていませんので、噛まれる事は有りませんでした。しかし今日
の『ビーー!』と言う音は聞いただけでキモを潰す音です、幸いに
ニッカズボンの様に、鳶職がはいて居るようなズボンをはいていま
したし、靴は半長靴で一応はヘビに注意して用心をしていました。

だぶだぶのズボンは噛まれてもヘビは当たった瞬間を噛みますので
ズボンがだぶだぶの、すそが広がったズボンでしたら、当たった瞬間を
噛まれてもズボンの布地を噛む事が大きくて、大事には到りません
ので安心でした。それにしても音が全ての私の筋肉を硬直させ、身
が凍るとは、その事かと思いました。

私はインジオから教えられていた様に、ジッと動きを止めてピクリ
ともしないで足元を探して、見回りましたがなんと、40cmぐら
いの近所の足元で鳴らしていました。しかし見るとすでに誰かが、
棒かなにかで骨が折れるくらい叩いていましたので、飛びつかれな
かったのでした。

見つけると、私はゆっくりと腰に挿していた拳銃を引き抜き、ヘビ
撃ち用の散弾が装填されている事を確認すると、確実に狙い定めて
頭を撃ち飛ばしていました。瞬間、私の足がガクガクして来ました。
それと言うのもかなりの大きさで、毒牙の凄さを目の前に見てびっ
くりしていました。

どうしてインジオが生半可で殺すとはと考えていました。しかし、
助かりました。畑の奥で仕事をしていたインジオに聞くと、理由
は簡単でした。叩いた棒が折れてそれ以上は出来なかったそうです。
二度叩いたそうですが三度目に叩いた時に折れ、廻りに手頃な棒が
なく、ヘビも動かなかったのでそのままにしておいたと話てくれまし

たので、ひとまず安心でした。その時ぐらい犬を飼っていないと、と
んだ事になると感じました。近所の友人は利口な犬を持っていたので、
ヘビなどはすぐに見つけ出して殺していました。ぐるぐるとヘビのま
わりを廻り、そのすばやい行動と機敏な動作で瞬時に飛びついて噛み
殺していました。

くわえると物凄い速さで地面に犬の首を振って叩き付けていまして、
時間にしたら、一分も掛からない早業でした。
犬も良く知っていて毒蛇は必ず首根を噛んでいましたが、毒が無いと
胴の真中あたりをくわえて、気持ち良い音を立てて『パンパン!』と

軽い音を響かせて地面に何度も叩き付け、犬も得意になって、人間に
見せ付けていました。そのあとしばらくはガラガラヘビの鈴の音を聞
くと、思い出してはジト―!と冷や汗を流していたのを覚えています。

2012年2月1日水曜日

私の還暦過去帳(155)

早くも12月に入り、秋深しの感じとなりましたが、すっかり
冬篭りと言う感じで、葉が落ちた木にリスの巣がポツンと
剥き出しになって見えています。来春の3月までは剥き出し
になったままで風に吹かれて居る様です。

今日の話しは私が経験したヘビの話です、蛇が好きな方は
余り居ないと思いますが、私は苦手なくちで、どうも好きに
はなれません、私が子供の頃は農薬の集団散布もまだなかっ
た時代はカエルが沢山いまして、またヘビも沢山住んでいた
と思います。

それと言うのも良くザリガニを採りに行ってカエルが蛇にくわ
えられて、『ギー!』と悲鳴をあげているのを何度も見ました
が、シマヘビが多かった様でした。蓮根を植えてある池に行く
と池の中を蛇が、スイースイーと身体をくねらせて泳いでいる
のを見て、その泳ぎの早さに驚いていました。

しかし農薬の集団散布がおこなわれる様になってからは余り見
なくなりました。それと言うのもカエルが極端に少なくなった
からです、田んぼの中に沢山のカエル達がお腹を白くむき出
して沢山死んでいました。どこも一斉に散布をしますので逃げ

場が無くなった様です、オタマジャクシの子供も見られ無くな
り、それにつれてヘビが急に少なくなった感じがしました。
あれほど夏の夜長を『ゲロゲロ』と大合唱をしていたカエル達
が居なくなるとすぐに、多くの小動物も居なくなりました。

昔の農薬散布前はかなりの、マムシという毒蛇も居ましたが、そ
れも見なくなりました。子供の頃にマムシを見ると震え上がって
逃げていましたが、大きな三角の頭とずんぐりとした胴体がいか
にも凶悪な感じがして、子供でもすぐに見分けがつき皆でそろっ
て『それ!出た!』と叫んで注意して走って逃げたのを覚えてい
ます。

近所に有った屑屋さんに良く遊びに行っていましたが、そこには
田舎の農家を廻って廃品や紙屑などをリヤカーで集めて来る人が
戦後まだ沢山いた時代でした。その様な人が田舎で買ってくるマムシ
の乾燥干物を日に乾してありました。必ずマムシと分る様に頭が
付いていて鋭い毒牙も有りましたので、ぶら下げて乾してあるマムシ

を見て、気持ちが悪い感じがしていましたが、それを3本ばかり焼酎
に漬けて有る物を、マムシ酒と言って飲んでいる人がいて、それにも
子供心に恐ろしく感じていました。秋も深まり丁度今ごろでしたが、
正月前の漬物用半生干し大根を、屑屋さんがリヤカーに沢山載せ

廃品や紙くずなどの代わりに田舎から運んで来ていました。時には
干し柿を串に刺した物を沢山載せてきていましたが、もち米なども
注文しておくとすぐに配達してくれていました。のどかな田舎の風景
でしたが、子供心に夏の季節に田舎から生きたマムシを袋に入れて
持ってきて、コンロで岡ウナギと言って調理して食べていた人からは

富裕柿をあげるからと言われても、中々手を出して貰うことが出来
なかった思い出が有ります。焼酎を片手に一日仕事を終ってコンロ
の廻りでコップ酒を飲んで話していた人達が、時にはスルメを焼い
たりメザシの串刺しを火にあぶって、沢庵を切り白菜の漬物をお鉢
に山の様に盛って肴としていた、なっかしい場面を思い出します。