私の還暦過去帳(163)
私が上京して、だいぶ落ちついて来てから遊びに出たのは新宿でし
た。 その頃はまだ書生の住み込みを始めては居ませんでしたので、
小田急の経堂駅から歩いて10分ぐらいの民家の離れを友人と借り
て住んでいました。その頃はバンカラ学生で、学生服で高下駄の
半分ほどに減った感じが下駄のサイズとなったのを履いて、冬は
足袋をはいていました。
田舎の福岡県大牟田でも、田舎カッペも良い所でしたので、それと
炭坑町の『ぬしゃー!なんばいよっちょか~!』と言う感じで、
『ボカー!』と殴られていましたので、見掛けは『借りて来た猫』と
言う感じでしたが、それこそ、カッぺー!のクソ度胸です。『やられ
たらやり返す』反骨精神が生まれ、鍛えられていました。
小学校時代から廻りは炭住街で、近くの炭坑電車の線路で5寸クギを
鉄道線路のレールの上に置いて、平たくして先の尖ったナイフを作り、
ゲタの歯の下に隠していました。絶対に先公には見つかる事は有りま
せんでした。 折りたたみの肥後守のナイフも、いつもポケットに入
れていましたし、それも隠し場所は下駄の歯の間に隠していました。
下駄の鼻緒の中は皮ひもを入れ、その緒は同じく皮ひもを使い、丈夫
で頑丈な下駄でした。下駄の歯にはクギを入れて磨り減らない様にし
てあり、また喧嘩などの時は、鼻緒を握り丈夫な武器となりました。
左手で片方の下駄を構えて盾の役目をして、右手で下駄を上段に構え
て、振り回すと、かなりの武器となります。そんな中学生、高校生の
生活も経ての東京生活でしたからクソ度胸は持っていました。
その頃はまだ東京オリンピックの前で、1964年8月のオリンピック開会
式までにはと、それに合わせてどこでも工事中でした。新宿駅から歩
いて歌舞伎町の映画街に行き、封切映画を見てラーメンでも食べて
帰るのが楽しみでしたが、そんな田舎学生をカツ上げする、ヤーサン
のチンピラが居て『顔を貸しナ!』 と暗がりに連れこまれて、金を巻
き上げられていました。
私もアルバイトで稼いだ小金を懐に、喜んで夕方遅くなり最後の映画
を見ようと歌舞伎町の近くを歩いていたら、いきなり『オイ学生ー!
顔かしな~!』とチンピラが肩で風を切って、顎で路地を示して、
一人が路地の前で見張りに立ち、そこへチンピラに連れこまれまし
た。しかし何と無防備に私の前を肩を怒らして歩いて居るでは有りま
せんか、『馬鹿ジアーあるまいし!』と感じましたが、
そこは田舎での経験が物を言う感じで、直ぐに下駄を脱ぎ、右手に握
りまして、チンピラの後ろ頭を『パカーン!』と殴り、足袋裸足で走
り戻りましたが、路地の入り口に見張りしていたチンピラが、飛び上
がる様に驚いて、ヤラレタ兄貴分に駆けより、慌てて『このやろー!
兄貴をやりやがったな~!』と殴り掛かって来ま した。
『こいつも馬鹿ジアあるまいか~!』と感じる程度で、手に持ってい
た下駄を顔めがけて投げつけると、それを手で避けると、小気持ち良
い音でチンピラの顔の額に『ゴチンー!』と跳ね返り、相手は後ろに
ひっくり返りました。拾い上げた下駄でオマケニもう一度、相手の手
をふんずけると、両手に下駄を持って 足袋で韋駄天に走って逃げま
した。直ぐに表道に出て人混みに入り、バス停に止まっていた都
バスに飛び乗りまして、『ハイーさよなら!』と逃げましたが都会と
田舎ではかなり差があると感じました。
田舎の炭坑町では私などは恐ろしくて、不良チンピラなどと言うと避
けて歩いていましたが、都会では格好だけで肩怒からせているチン
ピラが沢山居る事を知りましたが、その経験から田舎カッペの格好
は止める様にしました。カモになって喧嘩ばかりしなくてはならない
と感じたからです。今では懐かしい思い出です。
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