私の還暦過去帳(160)
昔の子供の頃の正月を思い出すと、懐かしい思い出を感じます、その
頃はまだ戦後という時代を引きずっている頃で、やっと物資が出てき
た感じでしたが、欲しい物を買って貰えるのはやはり盆と正月でした。
今では何でも好きなものを買えますが、その当時は庶民が望んで買え
るのは夏と冬のボーナスが出た時でした。子供心にも嬉しくて今度は
何を買ってもらえるか楽しみでした。それからしばらくして東京に出
て来て一人で生活する様になってからは、今度は自分の生活に追われ
て自分が買いたい物は中々、買う事が出来ませんでした。
18歳と三ヶ月の時に郷里の福岡県から上京して、勤労学生として仕事
をしながら学校に通っていましたが、当時は東京オリンピック前でど
こでも工事中でしたが、青山通りにはまだ都電が走って、屋根瓦の商
店が残っていた時代でした。今では青山通りにはそんな家は一軒も残
っては居ませんが、時々自転車で世田谷三丁目から赤阪見付け辺りま
でサイクリングしていました。
日曜日の車が少ない朝の時間に、普通の自転車でえっちらおっちらと
ペタルを漕いで、渋谷の道玄坂は押して登っていました。
随分あちこちと歩いた覚えが有ります、金がない学生ですからこれが
一番の都内見物となりまして、直ぐに都内の地理もだいぶ覚えました。
渋谷の高級住宅街では外国人のメイドが子守りしながら散歩していて、
珍しく感じまして、声を掛けたらどこか東南アジアから来ていた若い
女性でした。発音がまったく分らない英語で何と答えて良いか困りま
したが、直ぐに仲良しになり、何かクッキーらしき物を貰った覚えが
有ります。
それから有名人の邸宅などに突然行き当たると『へー!凄い邸宅』と
驚いていましたが、福岡から上京して来た田舎学生です。見た事もな
い外車の車が車庫に止めてある邸宅など初めて目にして、ぶったまげ
ていました。それからしばらくして、アルバイト先を学生課から紹介
されて植木屋の下働きで町の植木屋さんにアルバイトに正月前に手伝
いに行きました。
これは金になるアルバイトで普通より2割は稼ぎが良い仕事先でした。
それとお昼は必ず何かおソバかカツ丼などを取ってくれ、3時のお茶の
時間などはかなりの豪華なケーキや御菓子が出ました。仕事が終ると
下働きの学生にも必ずお捻りの僅かでしたがこずかいが貰えて、親方
に付いて渋谷あたりから自転車で三茶辺りまで帰って来ました。
雨が降りそうな時は息子がオート3輪で迎えに来てくれ、親方の家で
親方の紋を染めた法被を脱いで着替えていました。
法被を着ると学生でも見た目はいっぱしの職人となり、親方は一人前
に手間賃を貰っていたようでした。
我々学生はそこの親方の家で良く夕食をご馳走になり、お酒も相手さ
せられ、当時20円ぐらいのコロッケやメンチカツなどで、ソースを
ドバー!とかけて、キャベツの千切りを付けて食べされてくれ、お腹
もふくらみ、ほろ酔い機嫌で下宿に帰宅していました。
薄暗くなった道を自転車で下宿まで帰る道すがら、流行歌など歌いな
がら走って帰るのが、親元から自立して生活する最初の一歩でした。
しかし生活費が高い東京では直ぐに追いつかなくなり、映画監督の住
み込み書生として生活する様になりました。庭の手入れと犬の散歩、
夜は必ず家に居る事で用心棒の役目も有りました。犬が三匹居ました
ので夜中に吼えると見に行くぐらいで、合計して四年間ぐらい居た間
に一度も何事も無く無事すごしました。
夜は主人が映画監督の仕事と脚本書きで、かなりの大きな書庫が有り
まして、毎日読書に励みました。脚本もかなり昔からの古い脚本が
有り、それを絵コンテ付きで読むのが楽しみでした。
そんな事で学生生活を過ごして、有意義な時間を持てたと思います。
この続きも書いてみたいと思っています。
0 件のコメント:
コメントを投稿
登録 コメントの投稿 [Atom]
<< ホーム