私の還暦過去帳(157)
私がアメリカに来てからの隣人で、大変にお世話になったジグと言う
名前の友達が亡くなりました。彼は今年でちょうど87歳でしたが、今年
の始め頃からはかなり衰弱していました。夏に一度、倒れてからはます
ます酷くなっていた様でした。
先日近所の病院でひっそりと亡くなりましたが、子供が居なくて少し寂
しいお別れでした。彼の話しは前に書きましたがそれを載せて、その後
の様子を今日は書いてみたいと思います。
以下は前回のお話です
私がアメリカに移住して来て、一番初めに住んだ所の
家の前に、第二次大戦で日本軍の捕虜となり、終戦まで八幡製鉄
の工場で働かされた、私が「ジグ」と呼んでいる87歳になる老人が
居ますが、彼は一切そんな差別のそぶりはしません、親切で何も
アメリカ生活を知らない、私達家族を助けてくれました。
日本海軍が真珠湾を攻撃した日、彼が乗船した居た潜水艦は湾外
に出ていて、損害は免れたそうですが、攻撃後しばらくして湾に帰航
すると、黒煙と火災で大混乱の最中だったそうです、それから二ヶ月
ほどして真珠湾から、南下する日本軍の輸送船団を攻撃しに出撃して
行ったと話してくれました。
オーストラリアのシドニーからインド洋に出て、最後のオーストラリア
のどこかの港で補給をすると、ヒリッピン近海で作戦行動をしていて、
日本の二隻の輸送船を撃沈して、次ぎの目標を探して航海していた
時にゼロ戦の襲撃を受けて急速潜航をしたが、爆弾を投下されて、
その爆弾の被害で、彼が居たソナーの船室の天井の鉄板は30センチ
ぐらい凹んだそうですが、水漏れはするが沈没は免れて、電気も消えて
衝撃で破壊された蓄電池の動力も動かず、有毒ガスも発生してやっと
非常灯だけの灯りでソナーの探知をしていたそうですが、かなりの時間
が経った時に遠くで、駆逐艦のスクリューウの音が探知されて、動けな
い海底に鎮座している潜水艦などは、爆雷で直ぐに破壊されてしまう事
は間違いないので、船長に報告すると直ぐに最後の動力のジイゼル・エ
ンジンを動かして浮上して、日本軍に降伏したと話していました。
その後、日本の八幡製鉄所近くの捕虜収容所に送られて、そこで
製鉄所の仕事をさせられていたと言う事です、冬は寒くて火鉢しかな
く、お腹が空いて悲しかったと話していました。
辛い事が沢山有ったそうですが、親切な通訳が居て色々な事を助けて
くれたと話していましたが、だいぶ昔に黄色く変色した、ざら紙の
ノートに書いた住所を見せてくれ、この人のおかげで生き延びたと言
っていました。
八幡製鉄所に三年半も居て、終戦の日に天皇の降伏のラジオ放送が
有って、それからは仕事もしないで収容所に居たそうですが、翌日に
沖縄から飛来した飛行機が無線機と医薬品を投下して連絡が取れて
沖縄の基地と収容所を結ぶ無線連絡が定期的に取れ、直ぐに
輸送機がパラシュートで沢山の食料や医療品を投下してきて、
余りの正確な投下で収容所の屋根に沢山の荷物が落下して来て、
危うく命の危険を感じたそうです、空中で荷物が分解して、缶詰めな
どがバラバラと落ちて来て、負傷者も出たと話してくれました。
その夜、収容所の便所は長い列が出来ていたそうです、突然の大量の
食事と高蛋白のコンビーフなど肉類の接収で、皆が下痢を起していた
そうで慣れるのに、かなりの時間が掛かったと言っていました。
沖縄からの指令でアメリカ軍が進駐して来るまで、そこに滞在して待っ
ている様に命令されたそうですが、横浜にはその頃にはアメリカ軍の
先発隊が来ていて、その情報をラジオでキャッチすると、持てるだけ
の食料とタバコを持って仲間三人と、製鉄所で支給された国民服を着
たまま東京行きの列車に乗車して小倉駅を出発したと言っていました。
広島あたりまではデッキにぶら下がって居たそうで、それ以降は座れ
たと話してくれました、食べ物は沢山のタバコと、缶詰めを持ってい
たので、どうしてもお腹の調子が悪くて、おにぎりと缶詰を交換して
それから良くなってきたそうで、タバコがお金の役をして、何でも交
換出来た様です、ミカンもお芋も食べたと言っていました。
途中から乗車して来た将校が腰に差していた軍刀を土産に上げると
言ってくれたが、断ると窓を開けて捨ててしまったそうです、そして降
りる時に英語で「これからは両国民は仲良くしよう!」と言うと敬礼し
てホームに消えて行ったと言っていましたが、横浜駅が近くなって駅に
アメリカ兵が警備で立っているのを見て、あの感激は忘れられないと
話していました、直ぐに横浜駅に到着して、ホームに出て、警備の
アメリカ兵を探して、三人で大声でわめきながら抱き付いて行ったら
兵隊が仰天して、薄汚れた国民服を着たアメリカ兵など見た事も
なかった様で、カービン銃を付きつけて「俺にちかずくなーーー!」
と怒鳴っていたそうです、でも直ぐに気が付いて、泣きじゃくる三人
を連れて、ジープで基地まで運んでくれたと話してくれました。
彼は戦争とは国と国が起したもの、一人の人間同士は同じ人間だ
と言って、私の家族に親切にしてくれました。
「私も親切な日本人の助けがなければ、命を永らえる事は出来な
かつた、偏見や人種差別はその人の生まれた生活環境や
教育で決まると思う、しかし憎しみや憎悪を偏見や差別の心で
育ててしまう人も沢山居る様だがーー」と話していました。
私はアメリカに来て、一番感謝して、ありがたく思ったのは良き人に
巡り会った事と思います、彼がパールハーバーデーの日に掲げる
星条旗は、日本軍の真珠湾攻撃で戦死した仲間と、捕虜時代に病気で
亡くなった潜水艦の乗組員の霊を慰める為です。
しかし彼も歳を取り、アルツハイマーの進行でそれもしなくなり、
いっも窓際に座ってTVを見ています、私が訪ねると必ず手を振って
くれ、そして「Hello~!」と声を掛けてくれます。
終り、
今日はその続です。
彼は横浜にしばらく滞在して健康診断などを受けて、厚木基地から
グワムまでは輸送機で飛んで、そこから輸送船でカリフォルニアの南
に在る、サンデイエゴの軍港まで行き、そこで解散となり、捕虜時代の
労賃として一日、一ドルの報酬をアメリカ政府より日本政府が支払
うべき賃金を代わりに貰い、軍隊時代の給料と合わせてかなりの、当
時としてはまとまった金額を掴んで、オハイオ州の実家に帰宅したそ
うです。しかし、そこでは一週間も居ると、死んだような静かな田舎
の生活に耐えられず、ロサンゼルスに出て昔の仲間と楽しく、懐の豊
かなお金に任して酒と女でしばらくは遊びほうけていたと話していま
した。
その金も尽きると、当時、兄が住んで居たサンフランシスコ郊外に移り
住み、タクシーの運転手をしていたが、日本での捕虜時代に八幡製鉄
での経歴が買われて、直ぐにアメリカ鉄鋼の製鉄所に勤務を始めて、
62歳で引退するまでそこで仕事をしていました。
引退してからは、狩猟クラブに参加して、クラブハウスを作り良く狩猟
と魚釣に行っていました。平凡で静かな生活を楽しんでいました。
アメリカの典型的な引退後の生活を過ごしていまして、毎週に綺麗に刈
り込まれる前庭の芝生を手入れして、裏庭にはバラのお花を植えて自分
の子供のように猟犬を可愛がり、私の三人の子供達も色々と世話をして
くれました。
一度彼とTVで記録映画のフイルムを見ていたら、戦時中に南太平洋
トラック諸島で沈没した日本海軍の潜水艦の引き揚げ記録を見ていて、
引き揚げられた潜水艦から遺骨が収拾され、家族がその骨を積み上げて
荼毘にする場面を見ていた彼がメガネを外して、泣きながら見ていた
事を覚えています。そして『自分もあと僅かに爆弾が炸裂するのが早
かったら、あの様にして、死んでいただろう・・』と涙だながらに話
してくれました。
その彼もサンフランシスコ湾の39番桟橋に係留されている同じ第二次
大戦で活躍した潜水艦を訪れた時に、暗い非常灯の下で、同じソナー
探査装置の机の前でジッとたたずんで動かなかったのを思い出します。
彼の任務がソナーの係だったからです。それは戦後初めてでそれが最後
でした。潜水艦から下りて、桟橋で艦が全部見渡せる場所に来ると、
はためく星条旗に背筋を伸ばして敬礼すると、後も振り返る事無く歩き
去りました。
その彼も今度は彼の昔の仲間が待っている天国に旅立ちました。
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