2012年2月10日金曜日

私の還暦過去帳(164)

私の東京生活も直ぐに慣れまして、アルバイトと学生生活が成り立っ
ていましたが、当時は東京オリンピック前で、かなり東京は活気が有
り、古い町並みが壊されて、建て替えられていました。
そんな中で新宿西口はまだかなりの終戦後からの、バラック建ての店
が残っていました。一部は戦後の闇市を連想させる建物でした。

今ではどこを見ても、西口からの展望は近代的な建物だけです、私も
当時のバンカラ田舎カッペから、少し都会の水にも慣れて、それと不良
チンピラとのトラブル防止の為に、スタイルも変えていました。
それは都会風にジャンパーなどを着て、皮靴を履いていました。

有る時、新宿西口から出て中央線のガード下近くにあった鯨肉のカ
ツを食べさしてくれる店が有り、良く通っていました。安くてボリュ
ーム一杯で九州の田舎で良く食べた鯨肉料理が懐かしかったからでし
た。改札口を出ると前に、中年の男性がカバンを小脇に抱えて、何か
5時の疲れの影を背負っている感じで、歩いていました。

その人はバラック街に入り、私の前を歩いていましたので、付いて行
きました。その中は大抵は飲み屋街で、沢山の勤め帰りのサラリーマ
ンが、焼き鳥屋の前でコップ酒などを飲んでいました。焼き鳥の匂い
がたちこめ、どこと無く騒々しい感じで、その中で特に騒がしい店が
有りました。
その名は『軍隊酒場』という、酒場の入り口は帝国陸軍の二等兵の制
服姿の衛兵が立ち、模擬小銃を構えて立っていました。

当時は浅草や下町などにも沢山有りました。軍隊に出征した人が昔を
思って軍歌などを組んで歌って賑やかな酒場でした。私の前を歩いて
いた中年の男性は酒場から軍歌が聞えてくると、今まで疲れた足取り
がシャキンとなり、背筋を伸ばして、5時の暗い影もどこかに吹き飛ん
でいました。

後ろから見ていると、少し頭が薄くなって、どこと無くサラリーマン
の生活に疲れた感じが滲んでいましたが、軍隊酒場の前に居た少し若
い男性がその方に走り寄ると『隊長殿ー!お待ち致しておりました』
と言うと、カバンを取り先を案内する様に歩いていました。『軍曹も
ご苦労ー!』と声を返すとまるで先ほどとは全然、人が変わった様に
なり、入り口の衛兵が捧げ筒の構えをすると、軽く敬礼を返して酒
場に入って行きました。

当時の『軍隊酒場』の入り口は土嚢を積んで有り、まるで戦地の中で
の雰囲気を作り出してありました。その頃はまだ戦地からの復員兵が
祖国日本に外地から戻り、やっと落ちついて、日本の復興がなされ
て居た時代で、当時の東京オリンピックをバネに日本と言う国が飛躍

することを模索していた時代でした。私はその軍隊酒場の近くの焼き
鳥屋に入り、梅割りのチュウハイを飲みながら眺めていました。中か
らは軍歌の『同期の桜』が声高く響き、外まで聞えていました。先ほ
ど軍曹と呼ばれた男性は、まだ酒場の前で誰かを待っている様でした。

そこに杖をついて足が不自由な感じの男性が来ると、酒場の中へ大声
で『OOが来てくれたー!』と声を掛けると、6~7名の人達が飛び出
して来て、中の先ほど『隊長』と呼ばれた人が、抱き付く様に飛び付
き、抱きかかえる様にして皆に囲まれて酒場に入って行きました。

中には涙している人も居ました。感激の再会だったと感じます、私の
若い頃の1960年始めの、ほんの一こまの記憶ですが深く心に残ってい
ます。その当時の方々は、すでの沢山の方がこの世から姿を消してい
ますが、これを書いている時に、私が最初に移住した南米パラグワイ
の移住地で、うっそうと茂るジャングルを前に、焚き火の炎に照らさ
れて、火酒のグラスを片手に軍歌を歌っていた人を覚えています。

『ここはお国から何千里、遠く離れたパラグワイ』と歌詞は変えて歌
った居ましたが、何かジーンと来るものがあった事を覚えています。

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