私の還暦過去帳(167)
越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録の続きです。
ベトナム・ヌードル店で、ベトナム人達と越南米粉麺を熱気と共に
彼等小柄な身体で、洗面器ぐらいの大きさの器に盛られた麺を家族
で『ワイワイ・・、ぺチャーペチャ!』とお椀に取って食べている
姿を見てまた、生春巻きを口一杯にかぶり付くのを見ていると・・、
ふと昔を思い出しました。
1980年頃は、高速道路を走っていると、良く他州のナンバーの
車で、屋根の上まで荷物を積み重ね、まるでスタインベックの小説、
『怒りのブドウ』を思い出すような感じの車が、高速を『ヨタ・ヨ
ター!』と走っていました。
ノーベル文学賞に輝いた作家が昔、見た目と、私が感じた現代の感
じは時が大きく違いますが、何か共通する心があります。
『怒りのブドウ』は映画の巻頭の言葉に有る様に・・・、
―アメリカ中部に砂嵐地帯(Dust Bowl)と呼ぶ乾燥地がある。
―この乾燥と貧困が多くの農民の生活を不能にした。これは自然の
―猛威と経済変動に土地を追われ、安住の地と新しい家を求めて
―長い旅に出る農民一家の物語である。
大陸横断80の高速道路から、680に来てSanJoseに行く道でした。
どこか遠くから走って来た様で、車体もドロに汚れて長旅を感じさせ
る風情でした。中に乗っている東洋人達はどの顔も疲れと憔悴で、
ぐったりとした表情で、『ギュ―!ギュ―!』と積め込まれた人間が、
肩幅を付き合わせる様にして、片手を窓から出して、空間を作って
いる感じで、平行して走っていて、私の小型トラックを見て同じ人種
の東洋人と感じたのか、いきなり『サンノゼ―!サンノゼ????』
と怒鳴る様に尋ねていました。私はそのアクセントから『ベトナム人』
と感じましたが、私が英語で、『あと1時間だよー!』と声を掛ける
と、全員が私を見詰めていたので、
指で『1』のサインをして、ももう一度『あと1時間だよー!』と
怒鳴る様に言うと、見詰めていたやつれて疲れた顔に生気が戻り、
笑顔がこぼれ、子供がバイバイー!と手を振り、『V』のサインを指
で示してサンノゼ方面に消えて行きました。
そして、そのような車を何台も見ました。
あれから30年近く、彼等もカリフォルニアに落ちついて、小さか
った子供達は成人して、今、隣りのテーブルで麺を食べている家族と
なっているかもしれないと感じました。
越南米粉麺を食べる様になってからは、かなり食べ歩きをしました。
ベトナム人の数が多いのと、彼等が日常食べる麺で、他の中国人
広東系、タイ人などの愛好家も沢山居る様でした。
中華麺はどこと無く重たい感じで、食感としても油ぽい感じの麺が
多くて、それからしたら、ベトナム麺は上品な感じを受けます。
スープも辛くもなくて、またしっこくも無くて、澄んだ濃くのある
スープが 日本人の口にも違和感無く味わえる事は、日本人の持つ
『うどん・ソバ』という食文化は、昔から田舎を問わず、都会でも
どこでも手軽に食べられると言う米飯に代わったのが麺食です。
私が子供の頃に、近所のお婆さんが石臼を片手で廻し、左手で臼をひ
きながら、少しずつくず米を上から穴に落として、粉にひいていまし
た。『ゴロゴロ・・・!』と重い石が廻り、少しずつ、粉になった米
が下のゴザに落ちていました。一升の米をひくのは、かなりの時間が
掛かりそれを、カマにお湯を沸して、薄塩水で練ってお湯に落として
団子として、炒った大豆を同じく、石臼でひいて黄粉とした物に砂糖
を混ぜて、団子に掛けてくれたのを覚えています。昔の手間と根気
の居る手作りの食べ物などは、現在の社会では誰も受け入れてく
れません。越南米粉麺を前にしてテーブルに座り、瀬戸物のスプーン
でニョクナム(魚精醤油)を麺に数滴たらします、ベトナム料理には、
かかせない調味料、ニョクマム(ナンプラ-)です。
日本の秋田県などで使う「しょっつる」も同じ仲間です。
小皿にたっぷりと盛られた、モヤシを載せ、シェラント
の葉をちぎってふりかけると、熱いスープに沈めて混ぜ合わせレモン
を垂らすと、先ずスープをスプーンでゆっくりと味合う様にすすり飲
み、それから、やおら箸で麺を『グ―ッ!』と持ち上げて、口に入れ
る時に子供の頃に食べた団子や手打ちうどんの味を『ふっと~!』
思い出します。ベトナムでも昔の田舎では、日本と同じ様に石臼でひ
いた米粉で作る麺は、どのような手法が使われたか、同時に考えなが
ら彼等、ベトナム人と混じって食の歴史と文化を味わう感じと思いま
した。
別皿に注文した生春巻きとパパイヤのサラダも味わいながら、彼等、
ベトナム人が発散する生気を感じる麺の食文化です。
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