2012年2月26日日曜日

私の還暦過去帳(179)

このお話はかなり昔の話ですが、確か1965年頃のブエノス・アイ
レスの町中でした。当時は海外旅行と言っても、旅行者外貨持ち出し
制限がありましたが、しかしどのくらい持ち出せたかは覚えてはいま
せん。しかし移住者にはその制限がありませんでした。

日本の財産を処理して、有り金全財産を南米の移住地に入植するのに
持って来る事が出来ました。しかしお隣りの韓国では南米への移住に
関しても外貨のドルを移住者が自由に持ち出す事が出来ずに、『韓国
海苔』にして、持ちこんでいました。そして日本人の移住地を売り歩

いて元金を回収して資金としていましたが、そのような中で、当時も
数少ない旅行者が居ました。中には今で言う、バックサックを背負っ
たヒッチハイカーです、数も少なく気合が入った方が沢山居たようで

す、私が一番感心して驚いた青年は東大在学中で、1ヵ年休学して世
界中で、『女性の千人切り』を心に志して、当時はブエノス・アイレ
ス市内でレストランの給仕をしていました。

当時の東京大学などは、かなりの頭が良い学生が行く所と聞いていま
したので、チョイ!落ちこぼれかと感じていました。とんでもない、
ただの休学という事でした。『女性の千人切り』と言っても、日本刀

でバッサリ!と言うような物騒な話では有りません、ただ商売女でも、
なんでもかまわずに『セックス』して、その数で千人を達成したいと、
願をかけて、心に持っていた様でした。私が子供の頃に『赤線が廃止』
となり、公娼と言う事も禁止となりましたので、

日本では簡単にそのような事を実行出来る事は無理な様でした。しか
し彼はそれを実行して、南米各地を働きながら経験して廻っていた様
でした。私も友人から聞いた時は、『ヘエー!』と驚きの声を出した
くらいでした。

考えてみても、『千人ですよー!』とにかく数をこなすには大変な事
です、金と体力、それに根気と情熱、その他、性病にも注意しなけれ
ばなりません。ご苦労な願掛けです・・・、その昔は、エイズとか言
う物騒な死の病は有りませんでしたが、そこそこに風土病的な恐ろし
い病があったと思います。

東大と言う名前と、若いハンサムな日本人男性と聞いて私も彼が働い
て居ると言うレストランを外から見に行きました。確かに居ました。
当時はドル持ち出し制限で、限られた金額しか持っては日本から出ら
れませんでした。闇ドルと言うと1ドルが400円近くもする頃で、

普通の交換でも350円から360円程度はしていましたので、大学
卒で初任給が10万もなかった時代、大変な金額です。それと渡航手
段が船の時代で、旅客機などは羽田からブラジルのサンパウロまで、
当時は田舎で家一軒が買える値段でした。

そんな事で今からすると各段に大変で困難な時代でした。友人の話し
ではすでにその東大生は600人近い人数をこなしていたと言う事で
すから、奥の深い、いや、欲の深い人物だったと感じます。私がブエ

ノスにいた時代に女性で、その世界漫遊の女性は金策尽きて、仕事も
なくて、ブエノスに滞在中に世界の裏のアルゼンチンまで来て身体も
具合が悪くなり、心も寂しかった様で彼女が取った行動は、ブエノス
の町中の中央にある噴水の池に、全裸でドボンと飛び込み、目出度く

日本国政府の『国援法』の適用を受けて、飛行機で強制帰国をさせら
れたと聞きました。世の中には雑多な考えで、歩いていた方が昔から
結構沢山居たと感じます。今はもっと簡単で、便利な世になりました。
貴方も世界漫遊はいかがですか?

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