2014年7月31日木曜日

私の還暦過去帳(546)


日本語の面白さ・・、

私もアメリカにかれこれ40年近く住んでいますが、ここは
英語圏の世界ですが、子供達も居た時代は、日本語で話す
事は当たり前で、家庭内では賑やかでした。

子供達も遠くの昔に育ってしまい、今では夫婦二人の生活で
すから、話す言葉も限られて、単語も短く、早く言えば朝起き
て寝るまで、数も知れた言葉で済んでしまいます。

『起きなさいよ・・』とかで始まり、『朝食を食べたらこれを
ゴミに捨てておいて』とかで、ワイフがパートで働いていた時
は、それで出かけて行き、私も仕事に出ていましたので、昼間
は会話無しです。

夕方になり、『夕食だからそろそろ畑の手入れもやめて・・』
とかで食事になりますが、テレビを見ながらの食事ですと、会話
も少なく、段々と話す日本語も退化して、変化も無く、言葉自体
がなんとなく、とんでもない意味の無い言葉で話す事になります。

先日も、『早くそれを持って来て・・』とか言うので、『何を・!』
と言うと、『分って居るでしょう』と来ました。
はて・・!と考えると、まるで会話など必要なく、『阿吽の呼吸』
とかで意味が伝達され、成り立つと感じます。

こうなると益々言葉も少なく、テレビなどは全部英語ですすから、
考える事も英語で考えている事があります。
日本語放送などは、昔は週末に日本語TVの番組が2時間ほど見ら
れたのですが、今ではNHKの英語国際放送を30分程度たまに見る
ぐらいです。

ワイフなどは働いていた職場が、まったくアメリカ社会の地方公務
員でしたので、話す事は全部英語ばかりで、時には英語でとっさに
口先に出る言葉が、英語で出てくる事がありました。

そうなると何か顔だけは日本人ですが、アメリカ的な振る舞いと
併せると、私もおかしくて笑い出す事もありました。
一番良い例は、日本に行き、誰かと話していると、直ぐに『貴方の
話している言葉の意味が時には分らない、』とか言われて、ドキー!
といたします。

話す単語の中に英語が混じり、まったく本人は気がつかなく話して
いたと感じます。そうなると痴呆症的な感じに見られて、少しこち
らも自分ながら呆れていることが在ります。

近頃は歳も進み、誰かまったく知らない人が見て、聞いたら、痴呆の
だいぶ進んだ老夫婦のカップルと間違えられる可能性が出て来ました。
これも仕方がない事だと感じますが、会話が英語とのチャンポンで
日本語に混じり、意味不明の即席日本語的な単語が並びます。

私も40年近く前にアメリカに来たばかりの頃に、まだその当時は
戦前からの一世達が生きていた時代でしたが、何かの事で会話した
日本語が今でも忘れられません、『ユーはミーのジョブをヘルプ出来
れば、ユーのミシンで来てくれるか?』と言う話でした。

通訳すれば、『貴方は私の仕事を手助けできるのであれば、貴方の
自動車で来てくれるか?』と言う意味でした。

白人社会に没して、60年近く英語ばかり話していると、それと若い
頃にアメリカに来て、当地の学校にも少し通学していたので、英語の
世界で生きる以上は日本語が必然的に衰退したと感じます。

これはハワイでも、2世が同じ様な話しぶりで、会話した覚えがあ
ります。私の次男も、何か同じ感じの日本語を話しますが、一応大学
でも日本語を基礎から習っているので、文法的には正しく話している
時がありますが、話す機会が少なく、我が家に来て親と話すぐらいで
すから進歩が余りありません。

昔、ブラジルで会った日本人と黒人との混血の若者が、茨城弁で
急に話を始めたときは驚きました。それも完全な茨城弁で『お前の
話す日本語の言葉は少しおかしいだべ・・・』と来た時には、標準語
を話す私もショックでした。

父親がブラジルで採れたのと、それと周りが茨城県人ばかりで、話す
言葉が偏ってしまったと話していました。

昔から言う様に、時代と所変われば、話す日本語も変化すると思います。

2014年7月30日水曜日

私の還暦過去帳(545)


子供だけの不法移民、


驚く事に昨年の10月から今年も6月末までに、主にグアテマラ、
エルサルバドル、ホンジュラスの3カ国からメキシコを経由して
子供だけで不法入国者数が、何んとー!、5万2千人に達して、
アメリカ政府に衝撃を走らせた。
それらの不法移民を収容して、寝る場所を与え、食事を提供して、
送還する書類手続きをして、合法的に強制送還させる手間だけも
それは大変な事だと分かります。
これは新移民法で子供には永住権がもらえるという、誤った情報
で、中米最貧国から押し寄せた子供達の不法移民であるが、殆ど
は12歳から18歳程度の年齢で、中には9歳10歳程度の年齢も
混じると言う事です。
私が知るメキシカンは40年以上も前に、10歳で不法入国して、
その翌日からロサンゼルスで皿洗いを始めたと聞いた事があり
ます。
 アメリカのメキシコ国境が長いといえ、アメリカ政府が全ての国境
を管理する事は不可能です。もしも日本に5万人以上の若い子供
達が不法で押し寄せたら、その対応だけで巨額の対策資金を出さ
なければなりませんが、アメリカ議会に国境警備費、37億ドル
(3700億円)程度の予算をオバマ大統領が要求しています。
テキサス州では州兵を2千人程度国境に配置して、メキシコからの
不法移民を阻止しようとしています。

日本の国境は長くても周りが全て海ですから、容易くは入国は出
来ないので、アメリカのようには大きな問題にはならないと感じま
すが、しかし北朝鮮が崩壊して、日本にも大量の難民が押し寄せ
て来たらこれは日本の国内問題だけではなく、対応出来ないで大
きな世界的な問題と成る事は間違いありません。

それにしても、アメリカのテレビを見ていると、国境の砂漠地帯を
歩いて入国して、集団で捕まる不法入国者達の映像を見ると、日
本人は何んと政治的に安定して、社会的な保障制度も維持され、
健康保険制度も確立して、何とか言うけれども、日本の社会が上
手く動いている事を考えると、素晴らしい国だと思います。

2014年7月26日土曜日

私の還暦過去帳(544)

 
私が近頃感じること・・・、
 
 
日が経つと人の記憶も薄れ、忘れて物事が思い出として過去
を思い浮かべる事も困難となります。
多くの事が過ぎ去り、時代の変遷に伴い、新たに生み出され
そして繁栄する如く栄て、そしていつの間にか人はその様な
新しい出来事を過去に葬り去る様に忘れて行きます。
 
今の世界は交通が便利になり、飛行機の交通網は世界中に張
り巡らされそして、分単位の時間で動いています。
 
しかし、時代に逆行する様に、過去の出来事を誇大に、一部の
繊細な事柄を現在に拡大して吹聴する政治的な行動があります。
私が住んでいるサンフランシスコ郊外の住宅地は一部、アジア系
が多く住む地域がありますが、私も引退前は仕事で多くの中国系
でも台湾系、広東系、香港系、シンガポール系の華僑や客家など
とビジネスで知り合い、また紹介されて交友がありましたが、昔
ですが、近所に大きな東洋食品店のスーパーが出来る前は、良く
近くの韓国人の店に置いてある日本食品を買いに行きました。
 
そこで韓国人の人々と知り合い、話をして、食事も同席してする
様になり、彼等の韓国人世代の狭間を知る事が出来ました。
自宅を訪ねて膝を交えて話も致しましたが、その様な話を出来る
世代は全て戦前の日本語が不自由無く話せる世代だけでした。
 
先日もサンフランシスコの日本町に買い物に行き、一休みして休
憩がてら、中の小さなカフェテリアでコーヒーでも飲んでいました。
そこでかなりの年配の韓国人でしたが、4名ばかりの韓国人と話を
されていたのでしたが、私が年配の一人に、『日本語を話しますか』
と聞くと、まったく訛りが無い標準語で『少しは話せます』と返事
がありました。
私と年配の韓国人と話し出すと周りに居た韓国人達は、年配者に
声を掛けて、皆が去って行きましたが、私達は日本語で話が弾み、
彼が明かした過去は、昭和一桁生まれの、在日と通称される日本
の早稲田を卒業された方でした。
彼が話す韓国の情勢は公正な判断で慰安婦問題、日韓情勢など
を見ていました。彼が話していた事は、戦後の韓国の政治情勢か
ら来る、教育問題が絡んだ事柄が含まれていましたが、彼が言葉
に力を込めて話した事は、韓国政府の反日教育のあり方でした。
 
『あんな反日教育を小学生から無辜の子供達に、これでもかと必
修させ、詰め込ませたら、どんな人間に育つか、それは考えるま
でも無い、歪な考えの韓国人が出来上がる』と話していました。
 
『それからしたら同じ戦前の日本政府が支配した台湾人の方々は
、憎悪や卑下した感情を植え付ける戦後の教育が無かったので、
今でも台湾は親日家が多く、同じ戦後の年代でも、まったく思考的
に違った人間性の者が育ち、この世に出て来た』と話していました。
 
彼の年齢的な立場からして、公正な判断と、政治の批評をしてい
居ると感じました。
彼が話しの中で付け加えた一言が気になりました。それは・・、
『子供を無から教育する条件に、政治的イデオロギーを優先させて、
洗脳的な政治教育を優先して教育したら、どのような子供に育つ
か恐ろしい事だ』と付け加えていました。
 
彼が『私の孫達はアメリカ人として教育している』と話していました
が、私もアメリカで戦前の日本語教育を受けた韓国人、戦後の反
日教育を受けた韓国人、そしてその子供達、在日として日本で育
ちアメリカに来た韓国人、まったく反日教育も、韓国で生活した事
も無い、アメリカ人として、学校のクラスで星条旗に誓う言葉を英語
で学び、育った世代と、そろそろ40年という間に出会い、見て来
ました。
アメリカで英語で教育を受け、育った韓国系アメリカ人の子供達が、
彼等先祖の韓国の思想的判断と評価を韓国に住む人々ともに考
える必要があると思います。
子供を社会的に生かすも、精神的に殺すも、全てが教育に掛かっ
て居ると感じます。
過去の歴史には光と影があり、一部だけを切り取っても時代は見
えないと考え、現実を一部塗りつぶそうとするのも間違いだし、時
は休み無く動き、情勢は変化して、未来を予測する事も、日々変化
するとの前提で考えています。
『過去を見て、現在を考え、未来を予測する賢者の思考』と言います。

2014年7月25日金曜日

私の還暦過去帳(543)

   
 
越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(31)
 
この歳で食べ歩きに出ますと、時間もありますので、開店な
どと大きな看板が出ている店を見つけると、ワイフと二人で
一度は行こうか・・、とか話しています。
 先日もヒスパニックのショッピング・センター内にある店が、
開店していましたので、中華の看板なのに、店の名前は
『OK COFFEE』とありますが、何でも見て、食べてやろうと
考えていますので、まず味見に行きました。
どうやら店のオーナーは台湾系と感じるメニューが置いてあ
り、料理の写真も飾ってありました。
ヒスパニックが多い地域で、お客も同じくヒスパニック系が多いと
感じていましたが、ランチ時間などはテイクアウトで結構待って
いる人達がいました。
一組の家族連れが居ましたが、食べているのは彼等の定番、
焼きそば、チキンのから揚げが混じった野菜炒め、チャーハン
などでしたが、見て居るとよく家族で食べます。
我々夫婦は、ビーフン系のシンガポール・カレー味チャウメン
を注文して、後はワンタンスープでした。
中華系の店は開くのも早いのですが、店を閉めるのも意外と
簡単です。
 先日ですが近くの東洋食品店に’買い物に出ていましたが、
その直ぐ近くにあった、フォーの店がクローズして、看板を残し
て、店内はガラーンとして何もありませんが、工事しているのが
見えていました。
 私も何度も行きましたが、繁盛していた店です。側に結構大き
なスーパーの、東洋食品店があり、買い物客が駐車場に車を
止めたままで、ぶらりと店に行っていく姿を見ていました。
東洋食品店は品揃えが中華、和食類、韓国系、後はベトナム、
フイリッピンの東南アジア系まで並んでいますので、お客も多彩
でフォーの店に行くと雑多な人種でランチ時間などは混んでい
ました。
 私達が今よく食べに行く店は、その閉店した店から2kmばか
り離れた店に行きますが、そこの店はいつも混んでいて、同じ
フォーの店でもスープにむらが無く、いつ行っても同じ美味しい
スープです。
 私も時々、この歳でランチ時間に思い出す事はアルゼンチンの
首都から160kmばかり離れたチビリコイという町で百姓をして
いた時代に、トマトが熟れすぎ、沢山成り過ぎ、値段も下がり、
トラックで町を引き売りして歩いていた時代に、イタリア人のおば
さんからトマトソースに使うからとよく買って貰ったので、特注の
トマトを朝の仕事が終わって、昼に配達に行くと、よくランチを食
べてから帰りなさいと勧められました。
 そこのおばさんが大きな声で、『マンジャーレ、コメ・タ-ントー!』
と言ってスパゲティーにトマトソースをたっぷりと掛けた皿を中庭
のテーブルに持ってくると、チーズをガリガリと降ろし金で削って
掛けてくれました。
 側にはおばさんが自分で作ったスパゲティーの麺が揺れていました。
テーブルの脇には手回しの小さな製麺機械があり、大きな丸い、
麺を伸ばす棒もありました。ワインをソーダーで割り、大きなコップ
に注いでくれ、別の皿にはトマトソースで一緒に煮た大きな塊の
牛肉をスライスされた物があり、昼下がりのランチタイムにイタリア
人家庭料理を食べさせて貰った思い出が、同じ麺の食生活でも、
スパゲティーも日本のうどんも、米粉麺のフォーも、中華麺のシコ
シコしたエッグ麺も皆同じ、麺文化の立役者だと感じます。

今回でフォーの食べ歩きのお話は、しばらくお休みにいたしまして、
次回からはまた同じ様々な日々の出来事や、思い出話や、私が
思った事などを書くつもりです。

2014年7月22日火曜日

私の還暦過去帳(542)

 
 
越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(30)
 
世界には多くの麺製品があり、またそれで調理された食べ物が
あります。先日ですが味見をした麺があります。
こんにやく芋の粉で作られた低カロリーの麺だそうで、肥満の
人や、それを注意する人などが食べているとかだそうです。

それにしても私が住んでいるアメリカには肥満の人が沢山いま
すが、いつも何を食べているのかと頭をひねる時があります。

それにしても人口の半分が標準体重から、オーバーしている
肥満だと言う事ですが、それに輪を掛ける肥満がヒスパニック
系に多いとテレビでも放送していましたが、アメリカよりもっと
肥満率が多いと言う事は本当に何を食べているのかと感じます。
 
先日の報道では、メキシコでは成人の70%近い人間が肥満とか
言うので驚いていました。糖尿病の発生率も世界でトップクラス
とか言う事で、コマーシャルで砂糖などが含まれる飲料水の宣伝
禁止を行政命令したとありましたので、さもあらんと感じます。

それからしたらフォーの店で同じくテーブルに並んで食べている
ベトナム人達には、肥満体質が随分と少ないと感じます。

体格的に小柄ですし、食べている鉢も最小の小さな物が多い感
じですが、私など特盛りか、大盛りサイズを食べていたのですが、
やはり歳と共に食事の量も少なくなり、今ではお腹が空いている
時は中盛りぐらいで、フォー以外に、生春巻きなどを注文した時
は一番小さな鉢を注文しています。

大抵、食事に出る時はワイフも一緒に行きますので、一品は違っ
たブンなどの汁無しフォーの麺を注文して、食べ比べて、半分は
交換して残りを分けて食べています。
これだと1回で二種類を味会うことが出来て、これまた楽しみも
増えます。
近頃は何でも物価が高くなり、随分前ですが、最初の頃は小の
鉢で3ドル80セントぐらいだったフォーが、5ドル以上はしていま
すし、大盛りなどは7ドル近くも致します。
それもアメリカでは無理ない事だと感じます。ハンバーグなども
フレンチフライのポテトに、飲み物など加えると8ドル近い値段
となり、フォーと大差が無い値段ですから、物価の値上がりを
考えれば妥当な値段だと感じます。

フォーの店ではお茶はサービスですし、暑い時などは冷たい水も
黙っていても出してきますので、余りフォーが高いなどと言う事
はできません、それからしたらサンフランシスコ周辺のラーメン
の値上がりもかなりになり、一杯のラーメンが10ドルなどと言う
事を聞くと、フォーなどはまだまだお安い食べ物だと感じます。

先日、サンフランシスコで食べた味噌ラーメンの大盛りが12ドル
以上もしたのには少し驚きでした。これには場所代も入っている
と感じていました。フォーの店もチャイナタウンなどに開いて
居る店は、周りの競争もあるのか、いつも同じ値段に感じます。

それからしたらフォーの店は、どこも庶民的な感じの場所に開店
して、値段も普通に納得できる価格に抑えてある事を考えると
ワイフと『フォーを食べに行く・・、』とか言って、ランチなどに
いそいそと出かけて行く私達です。
 

2014年7月21日月曜日

私の還暦過去帳(541)

 
 
越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(29)
 
 
麺好きの私も、南米の奥地で百姓をしていた時代に、収穫したトマト
などをブエノス・アイレスにトラックで運送して行ったら、必ず当時
ブエノスの日本人会館の食堂に行き、そこでラーメンや蕎麦などを食べ
ていました。
天麩羅蕎麦などは大好きでしたので、あの醤油スープのツーンと来る
香りがたまらなく好きでした。
ボリビア国境のサルタ州の農場では、蕎麦やソーメンなどの乾麺を茹でて
食べていましたが、良い醤油が無く、味はいまいちでしたが、郷愁を満足
させるには十分でした。
時には知り合いの方が、うどん打ちとか言って、手打ちうどんを作って
くれましたが、腰のあるうどんで、釜から上げたうどんを井戸水に冷やし
て、カツオ節を削り出汁をとり、薬味にネギや生姜を用意して、漬け麺の
様にして食べていました。
北回帰線の内側に100kmも入った所でしたので、気温がかなり上がり
冷たくした冷やしうどんは美味しいものでした。
 
サルタ州に働いていた時に仕事で州都のサルタの町に出ると、タクシーの
運転手に聞いた中華レストランがありましたので、そこでフォーに似た、
汁ビーフンを注文していました。
滅多にしか来ないアジア人のお客ですから、行くといつも誰かがテーブルま
で出て来て、『今日は何を食べたいか・・』と聞いたくれました。
横浜の中華街でよく食べたサンマーァ麺とか言うモヤシが沢山入ったタン
メンの様な麺が好きでしたので、説明すると同じ様な物を作ってくれました。
 
米麺のビーフンで、汁ビーフンと同じでした。沢山の野菜類と、乾し海老や
椎茸なども入り、私の満足を満たしてくれるスープ麺でした。
これにご飯を茶碗に軽く一杯貰い、満足して食べていました。
 
トラックで州都に部品などを緊急に取りに行った時に、トマトの熟れ過ぎた
物を2箱ばかりランチを食べに行った時に渡すと、こんな美味しそうに熟
れたトマトは珍しいと言って、トマトと海老のチリソースを一皿作ってくれ、
ランチの御代は受け取ってくれませんでした。
私が美味しそうに食べる姿を、中国人の家族達が見ていたのを今でも思
い出します。
遠い昔の辺鄙なアルゼンチン北部の町です、そこはアジア人なども少なく、
たぶんペルー辺りから流れて来た、昔はサトウキビ労務者として中国から
来た人達だと思いました。

ペルーに行くと首都のリマには、かなり大きな中華街があります。
 田舎に行っても中華レストランが各地にあるのを見ましたが、ベトナムの
フォーの歴史もベトナム戦争で、ベトナム難民として世界各国に散って行
ったベトナム人が広めて行ったと感じます。

ベトナム戦争も終わってから40年以上も経ちます。すでにフランスでも
フォーが美味しく食べられる店があるとか、アメリカで普通に、何処でも
食べられる様になったのですから、それは当然な事だと感じます。
日本食の寿司ブームも同じ様に、すでに世界各国で食べられる様にな
っていますのでこれも当然な事と感じます。
 

2014年7月19日土曜日

私の還暦過去帳(540)



越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(28)

ベトナムのフォーを食べ歩きを始めてから、幾歳月となります。
今ではすっかり定着して、昔からのフォーの店はアメリカ人が
沢山来て、機用に箸を使いフォーの麺を食べる姿が増えています。

先日もワイフと行き付けの店に行くと、ランチ時間は幾らか過ぎて
居ましたが、私達夫婦がアジア人で、他は白人などの英語を話す
人達でした。食べている時に、アジア系のお客が入店して来まし
たが、初めて店が開店した時は殆ど、8割までは東洋系でした。

よく見ると生春巻きを手で摘んで、ソースにチョイと浸すと、美味
しそうに食べている中年過ぎの白人の男性を見ると、なんとも手馴
れた感じで、箸を使う動作もまったく我々と同じ感じだと思いました。

それだけ越南米粉麺がこのアメリカに定着して、普及したと感じます。
昔の様に店の数も少なく、行列をして食べた時代を思い出します。
娘が住んでいたサンタバーバラでも、娘達がしばらく住んでいた時代に
2軒ほどフォーの店が増えたと思います。

15年ほど昔に、ロサンゼルスに行った時に、郊外の中華系が多く
住む地域で開店したフォーの店など、美味しいとかで私達も行きました
が行列で、30分近く待たされてテーブルに座る事が出来ましたが、
その当時はそれが普通でした。

今では私の近所でも3軒のフォーの店があります。中華レストランの
メニューに入って食べる事が出来る店を数えれば、もっと増えると思い
ます。今ではすっかり定着した食べ物に変化したと思います。
先日も東洋食品店の側にあるフォーの店を覗いたら、ランチ時間でほぼ
満席でした。
中にはどう見てもヒスパニック系を感じる男達が座っていましたが、見る
と箸を使い、フォーの鉢を前にパクパクと食べていました。
一度私が雇用したヒスパニックが、インスタント・ラーメンをランチに
作り食べさした事がありますが、わが家のレモンと採ると、チョイと麺の
上にレモン汁をたらして食べていました。

聞くとメキシコでもインスタント・ラーメンはよく食べるそうで、日本の
メーカー品がメキシコに行った時に山と積まれてスーパーの店頭で販売
されていた事を見ると、彼等が麺を普通に食べる事は余り違和感は無いと
感じていました。
先日のテレビを見ていたらメキシコや他のラテンアメリカでは、消費率が
高く、値段も手ごろで美味しいと来たら、スープ代わりに沢山食べると
話していました。
それでは、さもあらんと感じて、フォーもここまで普及して、大衆化したら
次のお客はヒスパニックが大勢食べに来る様になると思います。

2014年7月15日火曜日

私の還暦過去帳(539)

 
 
越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(27)
 
今までにかなりのフォーを食べ歩きましたが、私がアメリカで
このフォーを知ってから、かなりの月日が経ちます。

食べ歩きもかなりの数になりますが、先日ハワイに行き、日本
の丸亀うどん屋が開いている店に食べに行きました。
話によれば数ある丸亀のうどん屋でも、トップの売り上げを誇る
店だとか聞きました。
このうどん屋は去年も食べに寄りましたが、毎年ハワイに休暇で
滞在している私達夫婦には、これは重宝する店です。
私達の宿からさほど遠くは無く、気軽にランチに食べに行ける距離
ですから、『ランチは何にする・・、』と言うと、『うどんにする』
とワイフの返事があります。

うどん屋に行く途中にベトナムのフォーも食べられる、ベトナム系
レストランがありますが、表のメニューを見ると、どうも中華系の
人の営業ではないかと感じます。
ハワイにはかなりのベトナム難民達が居付いていますので、広東系
ベトナム人がかなりの割合で居ますので、華僑の彼等は多くが難民と
してアメリカに来ているので、時には乗り合わせたタクシーの運転手
がハワイに来て30年近くになると話していました。
 
サイゴン陥落からしばらくして、家族でボートピープルになったと話
していましたが、全財産をアメリカのドルと貴金属の金製品に代えて
仲間で船を雇い、現地の役人を買収して夜陰にまぎれて出航したと
話していましたが、幸いに海賊にも襲われる事なく、貨物船に拾われて
アメリカのグァムの難民収容所で英語を学び、アメリカの習慣などを
勉強をして雇用があったアメリカの中西部の州に家族で行ったが、
周りには何も東洋食品すら買うことも出来ない環境で、家族でワゴン車
を買い、カリフォルニア州、サンノゼのベトナム人が多く集まる地域に
引っ越したと話していました。
それから少し苦労して働き、親戚がハワイでレストランを開いて成功
していたので、それとハワイの気候もベトナム南部に良く似ていたので、
30年近く前に家族でハワイに来て住み付いたと話してくれました。
 
アメリカにはフォーを食べる環境が広がる裏には、彼等がアメリカで
流転の生活から、逞しく家族で開いたフォーなどの麺類レストランが
沢山あったと感じます。
彼等が話していましたが、ベトナムでは天秤棒で担いだ屋台一式で、
フォーの店を開いていたと話していました。確かに大きな投資も必要
では無く、スープの出汁で決まるフォーの味は、彼等が一番良く知っ
ている味だと感じますので、家族で昔から伝わるフォーのスープ味を
作り、その味を守り、アメリカでその味を根付かせる努力が、今では
全米各地で花開いていると私は感じます。

2014年7月12日土曜日

私の還暦過去帳(538)




越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(26)


1月から始めたレント・ハウスの改修工事が忙しくて
中々フォーを食べに歩く事が出来ませんでした。

先日から一段落して、それと永年私が愛飲しています
ウーロン茶が切れて、それを買うことを主題にして、
ついでに調味料なども買い込むことにして出かけて
行きました。

エリセリートに有ります99スーパーです、大抵の
生鮮食料品から、あらゆる中華材料なども取り揃えて
あり、東洋人にとっては堪えられない店です。

それと買い物が終わり、ランチに食べるフォーが、
これまた楽しみのプランとなっています。
先日出かけた日が日曜日でしたので、朝がゆっくりで
ランチは午後の1時を過ぎていました。

お腹を空かして食べるフォーはこれまた美味しい麺です。
お店はベトナム人家族が共同で経営しているのか、
同じ顔つきの人が店に多い感じが致します。
私もあちこちの店に食べに出かけましたが、ここは

中でもかなり時間的に早く鉢を出して来ます。
それを知っていますので、箸や小皿、レンゲなどを
全部用意して、『さー!来い・・』と構えています。
ワイフが注文したのは、海鮮麺で、麺はエッグ・ヌードル
と言う、シコシコ麺で、日本ではラーメンに使われる

系統ですが、フォーに入ってくると、これまた一味違う
感じが有ります。私は普通の米粉麺でしたが、スープは
鳥ガラで海鮮麺でした。私がフォーを好きですから、
ワイフも大盛りを取りまして、後で味見がてら私に食べ
させてくれました。

一度に2種類の麺が食べられるので、味見して歩くには
便利です。前回に来た時からしたら、かなり白人の、それも
家族連れが来ていたことです、丁度私が食べ始めた時に
白人の家族連れが来て、テーブルに着いた時でした。

何を注文するか見ていましたが、春巻きとフォーの麺を
注文していました。子供達も上手に箸を使い食べていま
したので、何か食べ慣れた感じを受けましたが、それが
アメリカでフォーが庶民の味として浸透したと思います、

マクドナルドなどのハンバーグを食べると同じ値段で楽し
める多彩な味ですから、一度食べて見ると病みつきになると
感じます。食べ終えて今日も満足した幸せを感じました。

2014年7月8日火曜日

私の還暦過去帳(537)



越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(25)

正月から何かと食べる機会が増えて、しばらくはフォー
の麺を食べに行く事もありませんでした。
しかし、家ではお節料理の後に何度かフォーらしき物を
作りまして食べていました。

やはり自分で作ると、かなり和風フォーとなります。
欲張って何でも自分が好きな物を載せてしまいますので、
純粋なベトナム式フォーとは違います。

『日式越南米粉麺』と呼んだらいいのか? ちょいー!
困りますが、何でも食べてみようの心意気はいつでも
持っていますので、ワイフと話して作ります。

今日は朝食が遅かったので、ランチのベトナム・ラーメン
は午後1時を過ぎていました。
しかし、なんと並んで待っている状態でした。

家族連れが沢山来ていますので、テーブルをふたつも
合わせて大きなテーブルとして、賑やかに食べています。
私ら夫婦は二人がけの小さなテーブルに直ぐに座ることが
出来まして、お茶とメニューを持ってきたら、直ぐに
注文でした。

決まったフォーを頼みますので、簡単で迷いも有りません
から、出てくるのも早い感じです。
私達が食べ始める頃にはかなりの人が並んでいました。
前からしたら、かなり常連客が増えた感じです。

近頃はインド人の方を沢山見るようになりました。
今日も2組のインド人の若いカップルが食べていました。
私の隣の大きなテーブルではフイリッピン人の沢山の人数
で、親子で赤ちゃんも連れて食べていました。

アジア人の口に馴染んだ食べ物と感じます。
ワイフと外の冷たい木枯らしの寒風に吹かれて来て、冷えた
身体にジーンと染みる暖かいスープが、我々日本人でも
何も違和感無しに口に出来る食べ物と心から感じます。

2014年7月5日土曜日

私の還暦過去帳(536)




越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(24)


越南米粉麺をみて見ると、かなりの種類が有ります。
普通のお店では、注文の時に聞かれる事は、

1、大盛りか、中か、小鉢の麺かが先ず最初です。

2、次は、麺の種類を聞きますので、私は細い米粉麺
  を注文致します。
  その他、シコシコ麺の日本で食べるラーメンの麺と
  同じ、アメリカで言う『エッグ、ヌードル』と言う麺です。
  それと日本で、きしめんと同じ感じの、平たい幅が
  有る麺です。
それから、お茶か水がいいか聞きますので、両方とも
欲張って頼みます。

ベトナム人や広東人に聞きましたら、米粉だけではなく
米も蓬莱米と言う米を使う様でしたが、
それにジャガイモや、タピオカの澱粉を混ぜて食感を良く
していると聞きましたが、その地方の特色有る米粉麺を
作っていると感じます。

アメリカで人気が有るのは小麦粉で作る麺より、米粉麺
の方が、カロリーが低いと言われて人気が有ると思います。

ベトナムにはかなりの広東系の人が昔、移住して行き、
食文化もかなりの影響が有ったと感じます。

広東語で
米麺を炒めて・・・・、炒米粉
スープに入れて・・・、湯瀬麺
平たい麺をスープに入れて・・・湯河

と言う、かなり麺でも分類されて居ます。
かなり興味を米粉麺に突っ込んでしまうと、あるわあるわ・・・!
それは驚くぐらいの種類です、それを全部食べ歩いたら、
考えただけで、気が遠くなります。

2014年7月1日火曜日

私の還暦過去帳(535)




越南米粉麺加州桑港湾東沿岸地帯美食探求味見録(23)


越南米粉麺をみて見ると、かなりの種類が有ります。
アメリカでは簡単にRice Noodlesと言いますが、アジア大陸では
それは、広い意味になります。

各地の食文化と重なり、種類や幅など日本での麺の歴史と種類
と同じ物です。ベトナムでもそれはかなりの種類が有りますが、大別
して二種類に分かれます。

1、細かな切り口が丸いもので米粉(ビーフン)と言う感じの物を、ブン(Bun)

2、平打ちの幅広麺を、フォー(Pho)と呼んでいます。

また、ベトナム地方のフエの町で出される、ブンボーフエは
雲南省での雲南米線と同じ感じの大きな麺を使用した
牛肉ウドンと感じる物である。

中国大陸の広東省での麺の呼び方も、
細かな米粉を広東語で、

マイファン(Maifan)、

太い麺を瀬麺ラーイファン(Laaifan)

平打ち状の麺を河粉ホーファン(Hofan)
と分けているようです。

あちこちの米粉麺を食べ歩く事は民族移動と歴史を
訊ねる事にもなると感じます、また・・、
アメリカが幅の広い世界と、いつも感じるのは、米国民族のルツボ
の中での食文化を米粉麺で体感する事と思います。


越南米粉麺と香港麺の比較研究。
下のホーム・ページを開けてご覧下さい。

各種、麺の比較が出来ます・・・、
参考の為に掲載いたしておきます。
『批判とは有る対象物を持ってはかる』
と有ります。

http://homepage3.nifty.com/j-941/hongkong/hk-eatcm.htm