2014年3月29日土曜日

私の還暦過去帳(503)


南米移民過去帳物語、(8)

琉球泡盛女の物語、

私も人生の峠を越して、下り坂の人生を歩いていますが、その終点も見
えて来た様な感じさえ時々いたします。同じ年齢の知人、友人達が亡く
なって行くからです。

今まで見て来た多くの人生の旅路ですれ違って来た方々の思い出も、
私の薄れ行く記憶からしたら、あと数年が限度だと感じます。

これまでの人生の旅路で心に残り、記憶の襞に刻まれた人達と言う人の
話も50年近い歳月が過ぎれば、誰も記憶にあっても書き残す事は少ない
と思います。

私がブエノスで知り合い、会って、話して、人生を精一杯生きている沖縄
女性の生き様を心に感じて記憶していたものですが、数々の人々と同じく、
現在の消息は一切知る事は出来ません、何処かこの地球で元気に生き
ていると思います。
私も頭の記憶だけでは、あと数年もすれば名前さえ思い出すことは無理
と感じています。
ブエノスでの彼女の酒場も、私の農場支配人の仕事で農場が収穫期に
入ると、殆ど立ち寄る事も少なくなり、時々生産物の出荷でブエノスにトラ
ックに同乗して来ても、積荷を降ろして、仲買達と打合わせの話をして、
サルタ州に持ち帰る買い物などしていると、殆ど時間的な猶予も無く、夜
遅くなり、タクシーを飛ばして酒場にたどり着いて、カウンターのイスに座
りビールでも一息付いて飲むのが休憩でした。

大抵の収穫時期は農場労務者達が大勢働いているので、農場の食堂や
売店などで消費する物をブエノスの卸し問屋で物資を安く買い、トラックに
積み込んで持ち帰る事もしていたので、早朝の道が混雑しない内に、そこ
の倉庫前に行くので、サルタから同乗して来た運転手だけが、先に卸し問
屋の倉庫に行く様にしていました。

酒場が午前2時頃に閉めるまで飲んで、のんびりと日本の雰囲気と若い
日本人女性との会話を楽しんでいました。
彼女が私がタクシーで青果市場近くのホテルに行き、そこで少し仮眠して、
卸し問屋の倉庫に7時には行くと言うと、それでは私の所で休んで行きなさ
いと誘ってくれました。

彼女の家から徒歩でも10分で行けるくらいの場所でしたから、私も誘われ
て何か彼女に下心があるのかと感じましたが、酒も飲み、酔っていた勢い
で付いて行きました。

彼女は私をテーブルに座らせると、昼間作っていた軽い夜食を出して来る
と、先に食べて下さいと言うと、着替えていました。
ウイスキーの水割りでも飲みながら、貴方が私の店に来る客で一番遠い
所から来るお客だと笑っていましたが、貴方は時々しか来ないから、私が
突然店から居なくなれば心配かけるかも知れないので、話しておきたいと
言って、彼女の事情を話してくれました。

彼女は私に、『新しくブエノスに住んでいる日本人の恋人が出来て、その
方がブラジルのサンパウロに転勤で移動するので是非とも二人で行きた
いと誘われている』と話していました。
店は同僚が買いたいと話しているので、考え込んでいると言っていました
が、彼女の揺れ動く心を感じていました。

そんな話をしていたら朝の6時近い時刻となり、これから問屋に行く前に
朝食でも軽く食べてから行くのでと、彼女に言うと、『今月の生理が無いの
で、もしかすると・・・!』と改まった態度で私にその事を言うと、『神様の贈
り物は大切にしなければ・・』と話してドアで私に軽くキスをすると、抱き締
めてくれ、『その時は彼に付いてブラジルのサンパウロに行くから・・』と教
えてくれました。

問屋に行くと、相棒の運転手が私が持って来た朝食のクロワッサンのハム
サンドを受け取るとコーヒーを飲みだしました。倉庫のシャッターが開き、
使用人が積荷のリストを見ながら、トラックに荷物を積み込み始めて、私は
その荷物積み込みの検品をしていました。

積荷は食料油や作業着などの衣類品でした。全部搭載するとサルタの農
場に向けて走り出しましたが、運転席の後ろのベッドで、直ぐに心地よい
振動で寝入ってしまいました。

農場に帰ってしばらくして、町の郵便局の私書箱に電報があり、『神様から
の贈り物でした』と一言書いてありました。

次回はアルゼンチンのフォルモッサ州の僻地で、自分の城を作り住んでい
た人の話を書きます。

2014年3月25日火曜日

私の還暦過去帳(502)

南米移民過去帳物語、(7)
 
琉球泡盛女の物語、


戦前の昔ですが、ブエノス周囲でバーやカフェー屋を開いた日本人達が
居ましたが、彼等がまずその下地に、その様な所で働いていて、資金を
貯めて店を開いた人が多かったと聞きましたが、やはり使用人と、その
店のオーナーとしては大きな差があったと思います。

私もカフェー屋を開いていた人に聞きましたが、一番は長時間立ちずくめ
の労働は、かなり体力的にも必要だったと感じます。

野菜市場に近い所で24時間の開店で、朝の3時にはかなりの人が押し
寄せて来るので、殆ど市場が引けて、暇になる9時過ぎまで、座る事も出
来ない仕事だった様でした。

夕方には近郊の農家が野菜類をトラックで持ち込んで、遅い夕食などを
出すので、殆ど寝るのは2時間から3時間程度の仮眠だった様でした。
昼間にランチ時間が過ぎて、少し昼寝をしても、体力的には直ぐに限界に
来て、11時過ぎからの営業はイタリア人に請負で任せたと話していました。

二人の若いイタリア人兄弟が5時までの営業を請負い、レジも分けて任
せて居たようでしたが、しばらくしてその二人が何処かのイタリア人金持ち
のパトロンを捜して来て、資金を出して貰い、その店をかなり良い金額で
買いたいと来たので、売り渡したと言う事でした。

その資金を元に、郊外で親類が開いていた切花の温室業を学んで、自
分も始めたと話していました。

その人が話していたのですが、戦前の昔はタクシーの運転手、大きな屋
敷の使用人なども多かったと聞きました。でも戦前のカフェー屋は酒も売
れば食事も出し、ビリヤードなどのゲームも置いていたので、長時間経営
は白人の様に体力的な差もあり、殆どは幾らか儲かると、使用人や買い
たいと言う人にビジネスを譲っていたと感じます。

殆どが現金で代金を受け取るカフェー屋は魅力的なビジネスだったと感
じます。
当時の彼女の酒場も賑やかな営業でしたが、午前2時には遅くとも閉め
て営業を終っていました。アルゼンチン時間でしたらまだ早い時間だった
と思いますが、我々日本人には丁度切りの良い時間だと思います。

私がアルゼンチン生活を始めた時に一番大きな違和感は昼寝の習慣で
した。夏の暑い時期には昼寝も良いのですが、平均して一年中のランチ
後の昼寝です。2時間程度の昼寝ですから、夜の時間が大きくずれて
夕食などは9時頃と言う感じでした。

当時の彼女に聞いたのですが、『私の昼寝は本当の睡眠時間です』とか
話していました。当時の彼女の生活は、仕事が終わりバーを閉めて帰宅
する時は、同じ店で働いている女性達とタクシーに相乗りして帰宅してい
た様でした。
帰宅してシャワーを浴びて軽く夜食を食べてから、朝の10時頃までは寝
ていたと言うことでした。近所の街角で開かれる朝市の時は早起きして
朝市が閉まる前に行き、そこで新鮮な日常生活品を買い込んでいたと
話していました。
当時のブエノスでは曜日ごとに、決まった通りの道を時間で閉鎖して朝市
を開いていました。どことなく私が感じたのはヨーロッパの習慣が持ち込
まれていたと感じます。

アルゼンチンに住むと直ぐにアルゼンチン時間で動くようになります。
私も周りの人に言われた事は、昼寝時間の訪問や、予約を取る事は失礼
に当たると聞かされていました。

私が一度だけ朝市で彼女と会った事がありますが、私の知り合いの友人
が、彼女の家に近い所で下宿していたので、その友人を訪ねて行き、遅く
なり友人宅のソファーで泊まり、朝起きて帰る途中でしたが、珍しいので
朝市を歩いて見ていました。

そこに彼女が一人で買い物袋を提げて品定めをしているのに偶然に出
会い、少し買い物に付き合い、近くのカフェー屋で、カフェー・コン・レイッ
チエを注文して、焼きたてのクロワッサンを食べた思い出があります。

その当時は、彼女もアルゼンチン生活に首まで浸っていると話していまし
たが、私もサルタ州の農場支配人の仕事が忙しくて、ブエノスに出て来て
も短い滞在で終わる事が多く、ブエノスに出たら、忙しい時でも夜遅く、
ふらりと飲みに出ていました。

これまで多くの人々とすれ違って人生を歩いて来たのですが、ふと・・、
過去を振り返ると全てが遠い昔に消えて行った事だと実感いたします。

2014年3月23日日曜日

私の還暦過去帳(501)

南米移民過去帳物語、(6)

琉球泡盛女の物語、

私が彼女と知り合ったのは友人に誘われて、彼女が開いたバーに行って
知り合いました。
そこの雰囲気は日本的で女性の接待などが、日本と同じく心休まる所で
したが、何よりも日本語で駄洒落を言って笑いこけているのが楽しい場所
でした。

当時の安酒場などは注文した酒と現金がカウンターの上で交換でグラス
が出てくるものでした。それと当時にしては殆どアルゼンチン中を捜しても
同じ様な日本式バーは無かったと思います。
我々とそこを知っていた友人達の若い男には興味がある酒場でした。

直ぐにわずかな間に、付き合いの友人仲間では皆が知って、誘って飲み
に出かけていました。時々、日本の貨物船が入港すると何処から聞きつ
けたか、日本船から船員達が飲みに来ていました。
当時の船員達は女性と遊ぶ時はブラジルのサントスやリオなど、時には
レシーフエなどに停泊する時に遊んでいたと話していました。

当時のレシーフェの港には日本の大洋魚業などのマグロ漁船の基地があ
りましたので、1年に一回の乗船交代で日本に帰国する船員の中には現
地妻もいた人が居ました。

昔の事です、航空機の運賃など田舎で小さな家を買える値段だったと聞
いていました。
当時はサンパウロからべレム経由でフロリダに飛び、ニユーヨークから、
アラスカのアンカレッジで給油して羽田まで飛んでいた悠長な時代でした。
船員交代はその当時は船旅で日本まで帰国していました。

遠く離れた地球の裏側までの距離は船旅で計算すると平均、40日から
45日は掛ってブエノスまで貨物船が日本から来ていましたが、あちこち
に寄港するからです。

私達も何度も船員さん達と同席して飲んだことがありましたが、当時の
日本食や雑貨などの小物は全部貨物船の船員達のこずかい稼ぎで、荷
下しされて買うことが出来ていました。
彼女は良く日本船の入港を調べていましたので、それと船員達が次は
何月にブエノスに来るかと言う予定を残していたので、私も貨物船まで
食料品や雑貨の小物などを買いに出かけていました。
当時、タバコ缶のピースなどは貴重なギフトでした。

私もボリビア国境、サルタ州の農場にお土産で日本酒や日本の缶詰な
ど、タバコ缶のピースなども買って持って帰り、大変喜ばれた思い出が
あります。特に佃煮や樽から出したばかりの沢庵などは特に喜ばれた
思い出があります。

彼女の酒場が繁盛していたのはその様な中継地点の役割もしていたと
思います。彼女が港近くに開いたバーは、直ぐに多くの人から知られて、
飲みに立ち寄る人も出て来ました。
彼女の才覚で気軽に話が出来て飲めるという、肩の力を抜いて来れる
酒場として人気がありました。
当時は三人の日本人女性がいましたが、それぞれ個性があり、話も面
白くて、田舎暮らしで日本語も滅多に話せない環境から出てくるので、
息抜きとしては最高だったと思います。

当時の移住事業団の世話でアルゼンチンに滞在していた花卉実習生
なども来ていました。彼等も仕事をしていたのは、ブエノス郊外の田舎で
すから、店がブエノスの港近い繁華街の外れでしたので、買い物などの
ついでに立ち寄り、飲みに来ていたと思います。

特に週末などは混んでいて、カウンターの横で立って話しながらグラス
に酒を注いで貰っていました。
知り合いなどと久しぶりに出会うと、飲んだ後に遅い食事にレストランな
どに皆で出かけていました。
しかし、不思議な事に何度も訪れていた酒場ですが、45年ほど経て、5
年ほど前にブエノスを訪ねた時に側を通ったのですが、そこに確かに有
ったと言う場所は見つかりませんでした。

通りの模様も替わり、店も整理され、大きなショーウインドーに変化して
いる店は、小奇麗な事務所の感じでしたが、自分でここだー!と言う場
所は探すのには無理でした。

年月を経て、過ぎた月日の速さと、昔の友や知り合いなど、全てが時代
を走り抜けて行ったと思います。何処からか聞こえて来たバンドネオン
のタンゴの曲は同じメロデーに聞こえていました。

その時、南半球の8月の冬空に港から船の汽笛が遠くで聞こえたのは
郷愁を感じました。

2014年3月20日木曜日

私の還暦過去帳(500)

南米移民過去帳物語、(5)

琉球泡盛女の物語、


当時のブエノスアイレスの首都にはかなりの日本人達が住んで
いましたが、それもかなりの沖縄県人達でした。その頃は第2次
世界大戦後の日本から生活困窮とご主人を戦争で亡くして、親
戚や親兄弟の紹介や勧めで、アルゼンチンに呼び寄せ移住者
として来ていた方がかなり居ました。

その当時のアルゼンチンには戦争で祖国日本から女性を呼び
寄せる事も出来ず、婚期を逃がした独身男性がかなり居た事で
す。その頃のブエノス市内では戦前から、大邸宅に住み込み
の下働きとして、日本人の男性や、夫婦者が働いていたのでし
たが、中には欧州からの移民女性と同じ職場で結婚していた人
も何人か見ました。

彼女が旅に出たのはまず知り合いが居たロサリオの町でした。
遠い親戚で彼女のご主人の葬儀にも来ていた人の様で、落ち
着いたら遊びにおいでと声を掛けてくれていたので、まずは
そこで同じ洗濯屋を開業していた親戚の家を訪ねた様でした
が、歓迎してくれ、子供達も育ってしまい従業員が2名、通い
で店に働きに来ていた様でした。

そこでしばらくブエノスでの疲れを癒していた様ですが、ブラ
ジルのサンパウロにも親戚が居るという事をそこで聞いて、
イグワスの滝見物をして、サンパウロに行くことを決めた様
でした。

彼女はバスでミッショネス州のポサダを経由して、イグワスの
滝見物をしてフォス・ド・イグワスからサンパウロ行きのバス
に乗車したと話していました。

サンパウロのバスターミナルまで親戚が迎えに来ていたの
で迷う事無く、親戚の家に落ち着いて滞在した様でした。
沖縄県人達が沢山住んでいた地域の様で、そこの親戚が
商店を持ち、そこにはカフェー屋も併せて営業していたので、
忙しい時は自分から店に手伝いに出ていた様でした。
結婚前は沖縄では米兵相手の酒場も開いていたので、慣れ
た仕事で、彼女向きの場所であったと感じます。
彼女は若い沖縄美人で背も高く、アメリカ製の衣装を着て
英語も上手に話す彼女は直ぐに人気者になっていた様で
した。
親戚からもブラジルで再婚して、落ち着いて生活したらと
勧められたが、亡くなったご主人の49日の法要があると
言う事でブエノスには飛行機で戻った様でした。

その法要も終わり、心の整理も済むと、彼女が考えた次の
人生の行動はやはりブラジルで肌で感じた自分の性格に
合った仕事で、水商売のカフェー屋か酒場家業でした。

その頃、彼女の元に洗濯屋の権利などの交渉で知り合
った不動産屋が、港近くの良い場所に小さな酒場の権利
を売りに出していると言う事を聞き込んで、見に行くと彼
女が考えていたこじんまりとして落ち着いた雰囲気の酒
場で、彼女は前の経営者が権利を売る値段も手ごろ
で直ぐに気に入り、過去5年ばかりの売り上げの会計記
録も満足の収入と感じて、即契約して購入したと話して
いました。

それも前のオーナーが現金で即金を要求していたので、
彼女に幸運が転がり込んできた様でした。彼女には保険
金もあり、かなりの資産も当時は持っていたので、それ
が彼女が掴んだ運命の歯車の始動だった様でした。

それとブエノスで知り合った呼び寄せ移民の女性達も誘
って直ぐに開店準備をして、日本式の女性が相手する
バーを開いたと話していました。
その一人が同じ沖縄県から来ていた同郷人で、その女
性も沖縄では食べる為に、水商売の経験があったので、
最初から息のあった店開きではなかったかと思います。

ブエノスで彼女が水商売の世界に入ったのも、サンパウ
ロの親戚の店での経験が大きかったと感じます。

2014年3月18日火曜日

私の還暦過去帳(499)

南米移民過去帳物語、(4)
 
琉球泡盛女の物語、

横浜から船出して、2等船客の個室での船旅は二人には楽しい新婚旅行
の続きだったと感じられます。多くの南米移住者も乗船して居た当時の船
旅は甲板で運動会もあり、ゲーム大会なども開催されてブエノスまで当時
の長い航海を過ごしていた様でした。

ブラジルで下船する移住者達がサントス港で下船して、僅かな数のブエノ
スまでの乗客と共にブエノスの港に到着すると、ハズバンドの家族達が皆
で港まで出迎えてくれたようでした。

マリオと言う名前の彼女の夫は、自宅で歓迎会と結婚披露宴を兼ねたお
祝いをすると、自分が開業予定のブエノス市内にある洗濯屋に、彼女と
住まいを構えて開店の準備を始めていました。

彼女は直ぐにスペイン語を習い始めて、家事の合間には洗濯屋のビジ
ネスを親元の店で学んでいた様でした。親達が考えていた様に、そこの
洗濯屋は大型のクリニング機械は設置しなくて親元のドライクリニング
機械で洗い、彼女達の店ではアイロンとプレスだけ行い、お客の希望で
ボタン修理や繕い物などで稼いでいたと話していました。

若い利発な彼女は短期間にビジネス会話程度のスペイン語をマスター
して、その愛想と誰にでも好かれる対応で直ぐに新規開店ながら固定
客が付いて順調な滑り出しが出来た様でした。

その店の営業時間もアルゼンチン風に週末はきちんと店を閉め、夕方
には予約客以外は店を閉店して生活も楽しめる時間もあり、彼女がそ
の様なアルゼンチン式の生活にも慣れる事も早かった様でした。

ブエノス市内は沖縄県人の方々が洗濯屋組合を作り、親戚兄弟も多く
て県人会も盛んで、彼女には何も寂しさなど無かったと話していました。

しかし、彼女のハズバンドが体調を崩して病院で診察を受けるとガンが
発見され、それから彼女の人生が大きく変化して行った様でした。
その時はアルゼンチンに来て3年目だったと言う事で、そろそろビジネ
スも完全に軌道に乗り、お手伝いも雇える余裕も出来たので、子供を
産むという話をしていた矢先だったと言っていました。

人生が狂い始めると次々に不幸が重なり、彼女の夫のガンが移転して
膵臓にも広がりあと3ヶ月と言う時に彼女は夫のマリオの子を妊娠して、
彼の子供を残そうとしたようでした。

彼女の主人が倒れてから、実家から手助けの人が通って来ていたが、
どうしても時間的な無理と家事も重なり、夫が入院している病院通いも
彼女には大きな負担だった様でした。彼女はその当時、妊娠してその
喜びもつかの間、家事と仕事と夫の看護で疲れていたのか、流産して、
寝込んでしまったと話していました。

店は実家から親戚の人が通い、一人雇用して店は開いていた様でし
た。しかし運命の日が来ると彼女の夫のマリオは、彼女が嘆き悲しむ
のを感じながら妻に手をとられて、家族達の見守る中で息を引き取っ
たと言う事です。

その葬儀も終わり、家族会議が開かれて、その後の彼女の生きて行
く身の振り方を話し合った様ですが、彼女には亡くなった夫が居ない
店など、とても続けて行く気力もなく、しばらくは放心状態でいた様で
した。
店を開いてビジネスをしていたので、子供も生まれてくる事を予想し
て、かなりの生命保険が掛けられていたので、その保険金を手にす
ると、全ての借財を払い、両親にも葬式など世話になった物も払い、
しばらくは一度もアルゼンチン国内など旅行して歩いた事もないの
で、僅かな荷物を手に旅に出たと話していました。

異国に移住して来て、一番の悲劇は、愛する生活の支えとなるご主
人を亡くす事は、それは気が狂うほど、人生の悲劇だと思います。
私も同じ様なケースを、パラグワイとブラジルで知っていますが、そ
の二人の女性は帰国して日本に帰って行きました。

しかし旅に出た事は彼女の運命の歯車が狂い始めた日でもあります。

2014年3月14日金曜日

私の還暦過去帳(498)

南米移民過去帳物語、(3)

琉球泡盛女の物語、


私が南米各地で出会った方々の中で、女性がその度胸と忍耐と生きる
という本能の様なものを持っている方々に会いましたが、それは当時の
日本の世相がその様な女性を作り上げたと感じます。

ある女性は戦時中に空襲に家を焼き出され、幼い乳飲み子を抱えて両
親もいなく,親戚も受け入れてくれなく状態で、親切な人に田舎に疎開し
て来た小さな軍需工場の賄い婦として、寮の台所を任されていた様でした。

終戦になり、そこの工場が閉鎖された時に、ご主人は出征した南太平洋
の島で戦死していて、工場の幹部だった人が、アルゼンチンに居る兄弟
の後添えとして紹介して、言葉も分からず、誰も知り合いも、血の繋がる
人も居ないブエノスに嫁いで来ていた様な人でした。

その方が、私の人生はどうであれ、この娘には豊かな人生を歩かせたい
と願って来たと話していた方がいました。

人生の生き道には沢山のそれぞれの話がありますが、沖縄から数奇な
運命を受け入れてブエノスに来て、そこで酒場を開いていた彼女にも私
は男として敬意を持っていました。

彼女の生き方は時代に流されず、今という現実の生活を見詰めて、それ
を受け入れて将来の道筋を探して決めていたと感じます。

沖縄でも朝鮮戦争の影響は大きく、本土が特需ブームとして戦災復興か
らの急激なブームの中にあるときに、沖縄の基地周辺には米兵相手の
歓楽街が出来、彼女もそこに小さなバーを開いて稼ぎまくった様でした。
彼女の才覚と若さと男を引き寄せる魅力は、英語を話せる事にも大きな
力があった様でした。

親戚や身内の若い女性達を集め、下働きに身内の若い男をバーテンダ
ーとして、用心棒として置いていた様でしたが、かなりの実入りでその当
時の稼ぎとすれば、かなりの金額を毎月彼女は懐に入れていた様でした。

その頃、ハワイから422部隊で欧州戦線に出征して戦死していた婚約者
の家族が沖縄を訪問して、彼女を訪ねて来て、前に彼女が婚約者の墓
前にお花と香典を送っていたので、そのお礼と、戦死した婚約者が結婚
資金として貯めていた預金があり、遺言で彼女にそれが渡されて、婚約
者の詳しいイタリア戦線で戦死した状況も分かったようでした。

彼女は今まで儲けた資金とその婚約者が遺言で残した金を足して、アパ
ートを自宅近くの畑を潰して建設して両親と家族が生活に困らない様な
基礎を作り上げていた様でした。
彼女の才覚で終戦から余りしない間に生活の基礎を作ってしまった様で
した。
その頃、戦前の南米アルゼンチンに移住していた親戚や家族の呼び寄
せで、ブエノスに移住した家族や独り者がいた様でしたが、その様な一人
の独身男と隣町の親戚の仲介で見合いをして、その男性が滞在中に意
気投合して夢中になったと彼女が話していました。

当時の彼女はアメリカのファッションで飾り、英語も話してアメリカ人の恋
人のような男も居たようですが、アルゼンチンから来ていた独身男は教
養もあり、女性に対してのマナーも何か洗練されたヨーロッパ的な感じが
あった様でした。

酒もワインを食事に少したしなむ程度のもので、当時の沖縄の土臭い、
特需景気に流されたキザな格好の沖縄男性とはまったく違ったタイプだ
ったようでした。

まじめな男性で、ブエノスでは沖縄人達が多く営業していた洗濯屋を親
から独立して開く様に準備していた様で、そのビジネスを開くにあたり、
働き者の沖縄女性を嫁にと探しに来ていた様でした。同郷の親戚を介し
て知り合い、彼女の運命の歯車が南米へと動き出した様でした。

彼女はその金城マリオという男性から正式に求婚された時に、過去の経
歴をすべて男性経歴も含めて洗いざらい話したという事でしたが、その男
は動じる事無く、私にも同じ様な過去があるからと、直ぐに親戚を介して
結納を持って来ると、彼女の指に婚約指輪も飾ってくれた様でした。

両親もそれには安心して、他の子供も大きくなり、アパートも作ってバー
も持ち生活にも困ると言う事もない状態で、皆に見守られて結婚式を挙げ、
船で鹿児島に上陸して日本本土を二人で新婚旅行して大阪、京都や奈良
までも歩き、横浜から二人でアルゼンチンに旅立って行ったと言う事でした。

2014年3月10日月曜日

私の還暦過去帳(497)

南米移民過去帳物語、(2)

琉球泡盛女の物語、

ブエノスの港近くの酒場で知り合った彼女が歩んだ人生物語を聞いた時
にまず感じたのは、彼女が女の武器として最大限に自分の色気を使い、
また必要な時はセックスも惜しみなく利用して生きて来たと感じます。

彼女は戦争で何も無いように焼け出され、母家は破壊されて裏の物置小
屋だけ残っていたと話していました。

洞窟から連れ出されて米軍の民間人収容所に連れて行かれた先は、軍
用テントを並べて建設されたテント村だった様でした。

そこでも彼女は英語が話せるので、直ぐに世話役に抜擢され、アメリカ
兵との会話も上手くこなして、かなりの余禄もあったようでした。
それはタバコは現金の役割もしていた戦後の闇経済の中で、彼女が養う
家族と親戚の生き残り達の食糧確保も大変だった様でしたが、何とか若い

彼女の知恵で米兵から貰うタバコが紙幣の代わりになり、食料もかなり
余禄として別に貰えた様で、落ち着いてから、裏の小屋だけ残った我が
家に帰宅しても、彼女は通訳と世話係でテント村に住んでいた様でした。

その頃、ハワイから来ていた日系2世のアメリカ兵に、彼女の婚約者の
消息を探して貰ったら、422部隊でハワイから出征して、イタリア戦線で
戦死していたようでした。

彼女は少し落ち込んでいた様ですが、直ぐに元気を取り戻し家族を養う
為に仕事をしていた様でした。

戦後落ち着いてきた時期に、テント村も解散となり、基地の駐留軍労務
者として採用されて働きに出ていた様でしたが、そこで士官宿舎の掃除
担当となり、食堂も利用できたので、かなりの特典があったようでした。

彼女は愛想が良いのと、その英語を活用して、それと彼女が話していた
『女の武器はセックス』とずばり言い切っていたのには理由があったよう
でした。

それというのもハワイから来ていた婚約者だった、ハワイ2世は肉と
ミルクで育って体格も良く、4歳も年上だった事もあり、18歳の彼女と
沖縄の郷里で同棲していた時期に、彼からセックスの開眼をされ、若い
彼女が完全に女としての機能を全開していた時期だと思いますが、
当時戦後も落ち着いて来た時代で、彼女も20歳の若さで、完全に女と
しての魅力を振り撒いて時代だと感じます。

毎週掃除に行く士官宿舎の掃除で、彼女に目をつけた男達が数人居
たようでしたが、彼女は男達を観察して、その中の士官で大尉の主計
事務を監督する独身の白人を選んだ様でした。

まず彼女がその白人将校に取り入ったのは、士官宿舎の掃除に彼の
部屋に行った時に勤務時間なのに部屋に居る白人士官のそぶりから、
彼女は直ぐにその意味を悟り、やさしく話しかけてくる男の本能を感じて、
一応無視するように後ろ向きで仕事をしていたら、いきなり後ろから抱
き付いて来て、片手で彼女の胴を掴み、右手で彼女の乳房をブラジャー
の下から触りだした様でした。

彼女は計算ずくで一応は激しく抵抗して、最後は力に負けた様にして、
ベットに連れて行かれ、そこで脱がされた時に泣いて見せた様ですが、
演技でもかなり白人士官には罪悪感を感じながらも、本能を堪え切れ
ない性衝動で彼女を抱いて居た様でした。

事が終わってその時、白人士官の態度は女を征服した満足感と罪悪
感の交じり合った様子で、直ぐに彼女に優しく接してくれ、その日の仕事
が終わリ士官宿舎からの帰りには、ジープで親戚の女性らと3人を乗せ
て自宅近くまで送ってくれて、後ろの荷台に隠してあった荷物を降り際
に手渡すと、来週も・・、と声を掛けると立ち去った様ですが、彼女が家
の中に箱を持ち帰り両親と開けると、親が驚くような品々が入って居た
ようでした。

まず現金の代わりになるタバコがあり、ハムやスパームの缶詰、チョコ
レート類などの菓子、クッキーやビスケットなどがぎっしりと入っていた
ようでした。
それに両親がびっくりした、アメリカ製の派手な真っ赤な下着が2枚も
入っていた様でした。
両親も彼女の行為を直ぐに悟り、何も言わなかった様でした。

しかし、母親には『今の沖縄の時勢では女が家族を養い、家族皆が生
きて行く為には女の武器を使う事しか選択は無い・・』と言うと、黙って
うなずいて、『病気と妊娠だけは注意してくれ・・』と話していた様でした。

次の週に行く時は彼女は箱の中にあった、アメリカ製の真っ赤なパンテ
ーを穿いて行った様でしたが、それに白人士官が喜び、また自分を受
け入れてくれた証拠と感じさせて、セックスを彼女が利用したようでした
が、2度目からは彼女が自分も楽しんでいたと笑っていました。

それから彼女は女の武器を最大に使い、利用して、白人士官のオンリ
ーさんとなって稼ぎ、利用して、家族も親戚もそのおこぼれが回って来
た様でした。
彼女の働きで家も再建して、親戚達も家も持ち、荒れた少しばかりの田
畑も両親達が昔の様に作物が出来るようにして、落ち着いた生活も出
来る様になったようでした。

白人士官の大尉とは朝鮮戦争が勃発して、米軍の大きな部隊の編成
変更で帰還するまで続いたようですが、最後は是非とも結婚してアメリ
カ本土に行こうと求婚された様ですが、どうしても家族を見捨てる事が
できなく断った様でした。

それは男兄弟が戦時中に動員され、全員戦死した事が大きかった様
でした。

2014年3月7日金曜日

私の還暦過去帳(496)

今日から連載いたします物語は、過去に私が南米各地を歩いて出会い、
見て、聞いた人達からの聞き語りの物語です。

かれこれ50年と言う時代の変化と、忘却の彼方に消えた人々の出会
いの場で聞いた話も私の歳と共に記憶も薄れ、私の若き頃に出会った
人たちは、その当時でも70歳とかの高齢でいた人も多く、今からしたら
貴重な話であったと思います。

そして話してくれた人達は、すでに遠く過去の人になっていると思いま
す。この話は私の薄れた記憶から思い出して書いていますので、事実
に反する事もあるかも知れませんが、ご了承下さい。

南米移民過去帳物語、(1)

琉球泡盛女の物語、


彼女に出会ったのは、私がサルタ州で農場の支配人をしていた時代で
した。トラックでトマトなどをブエノスのアバスト市場に持って来て、飲み
に酒場に行き、知り合った女性でした。
当時彼女は小さな酒場を港近くの船員達が飲みに来る様な場所に開
いていました。
4年ほど前にその通りを歩いたのですが、すっかり様変わりして昔の
面影は何も在りませんでした。彼女の出身は沖縄でしたが、綺麗な標
準語を話し、英語も多少上手に話す事が出来ました。

彼女が曰く、戦後に米軍基地で清掃の仕事をしていたので、そこで覚
えたと話していましたが、かなりの女傑であったようでした。

戦争中は家族と戦場を逃げ惑い、米軍に最後は投降して命を永らえた
と言う事でしたが、沖縄の戦場でかろうじて生き残ったのは、彼女が若
いながら親戚がハワイ移住をして、いつかハワイに行こうと英語を勉強
していたから,かなりの英語を話す事が出来たのだと言っていました。
その事が彼女の家族と親戚達の命を守ったようでした。

彼女の名前は金城勝子と言っていましたが、同郷のハワイ移住者の
子供が里帰りして嫁探しに来ていた時に遠い親戚であったので紹介さ
れ、当時町では珍しく英語を勉強して幾らかは話せたので、直ぐに意気
投合して仲良くなり、親の了解も得て将来はハワイに結婚して移住する
と言う事も決まっていた様でした。

ハワイから来た若者が日米の緊迫した状態に急遽ハワイに戻ってし
まったのでしたが、6ヶ月近く滞在していた間に、婚約者として18歳ぐ
らいながら同棲状態でいたようでした。

戦争が勃発して文通も出来なくなり、音信不通となり、沖縄が戦場とな
り、家族や親戚と逃げ惑う様な状態になり、壕に隠れて岩水を飲み、
生芋をかじって銃爆撃や砲弾から逃げて隠れていた時に、米軍の捜索
隊に囲まれ、壕を爆破され、いよいよ自分達が隠れている壕にも米兵
が来た時に、まず投降勧告の呼び掛けがあり、酷い日本語で話してい
るので意味も半分は分からなかった様でした。

そこで英語が片言でも話せる彼女が皆からアメリカ兵にレイプされ、
酷い事をされて殺されると脅かされたが、どうせ隠れて何もしなければ
爆破されて死ぬだけだからと、覚悟を決め英語で『撃たないで・・!』と
叫んで、洞窟の入り口に出て行くと、若い彼女を見て米兵が目を丸くし
て銃を構えて見ていたそうです。

彼女が僅かでも英語が話せるので、隠れているのは家族だけで兵隊
は居ないからと言うと、米兵が食料と水筒を渡して出て来るように家族
に言う様に命令されたという話でしたが、黒砂糖の塊を舐めて、数日間、
何も食べていないので、家族の皆が携帯口糧を開けるとそれを食べて
から壕から出て来ると、少し歩かされてトラックに家族と親戚数名が乗
せられて、収容所に送られた様でした。

それからが彼女の度胸と忍耐と女傑の分際を発揮したようでした。

2014年3月5日水曜日

私の還暦過去帳(495)


パラグワイ国盗り計画(最終回)

パラグワイの国盗り計画を立案して、初めは色々な本や資料を集め、読んでから最後はノート一冊にまとめ、そこに全てが順序良く整理されて、まとめられていました。

当時はパソコンも無く、全てをノートに記載しておく他は有り ませんでした。私はその日にエンカルの町に出て、町で商店を開いている日本人の知り合いを訪ねて、当時のパラグワイの状況と景気の先行きを聞きました。

それは余り芳しくないのもでした。やはり日本人の農業経営が苦しくて、余裕など無い 生活の人が多いと話してくれ、野菜を作ってもエンカルの町が直ぐに溢れてしまう様に野菜が生産されて、このままでは半分の移住者が隣国に移転して行くと話してくれました。

私はその話しを聞いて、心が寂しくなる感じでしたが、生活が 成り立たないのであれば、この話しはすべきでは無いと心に感じそれ以上は話す事は無く、買物を済ませると、またバスで友人の農場に戻って行った。私は昨夜の話しを最後に全てを心とカバンに深く仕舞い込み、パラグワイでは二度と話す事も無かった。
その夜、友人と別れの酒を酌み交わしていた。彼は私にブラジルに転移住すると、ポツリと漏らした。『兄がブラジルに移住していて、サンパウロで養鶏で成功して、家族で来る様にと誘ってくれて、決心がついて今度の収穫が終ると、私もこのパラグワイ には居ないーー!』と話してくれた。

全てがこれで終ったと感じ別れの酒は苦かった。翌朝早くバスに乗り、いつ会えるか分らない友と肩を抱き合って最後の別れとした。彼は最後に『この話しは夢と思うなーー!いつの日かチャンスが来るからーー!』と 送り出してくれた。

この別れが彼との最後であつた。その後二度と彼とは会う事は無かったが、今では最後まで残り、協議した人は全部亡くなるか、消息不明の事になり、ただこの計画が闇の彼方に消えてしまう前に、歴史のほんの僅かなページに書き残し て置きたいと思いました。

そのあとだいぶ時間が経ってから、ペルーでアルベルト.フジモリ氏が大統領に就任した時の感激は同じ南米の国で現実に起きた快挙に、飛び上がって喜んだものでしたが、今ではすっかり世界情勢から、パラグワイの世の中も 様変わりして、今では夢物語にしか過ぎません。

ノートや地図など全ては、私がボリビア国境のサルタ州から帰って、そこの農場に支配人として行く送別会の、アサードの焼肉を作る焚き火の火に投げ込まれて全てが灰となってしまった。 世の中にはヒョンな事から、人が考えない様な事が生まれて来る事が有ります、現代社会ではとてもその様な発想は無理かと感じますが、昔はそんな事を夢見る事が出来たのでした。
終り。
次回より連載いたします物語は、過去に私が南米各地を歩いて出会い、見て、聞いた人達からの聞き語りの物語です。今では誰も生きては居ないと思いますが、少し書き残して置きたいと考えています。

2014年3月3日月曜日

私の還暦過去帳(494)


パラグワイ国盗り計画(18)

パラナ河の流れが両国を二分して、悠長にかなりの水量を湛えて流れて行くのを見て、この雄大な観景に見惚れていました。 渡し場で幾人かの日本人と会い、中には家族でパラグワイを離れて、隣国のアルゼンチンに転住する家族と見られる人達も居ました。

私は複雑な気持ちを抱きながら、乗合小型バスで移住地の奥に友を訪ねて行きました。 ブエノスからのお土産を抱えた私を歓迎して迎えてくれまして、その夜は二人で酒を酌み交わして、持参したノートを見せました。

彼はしばらくはノートを熟読していましたが、最後に一言ーー!『あとはパラグワイ移住地に居る日本人が動けば、必ずや成功すると思うーー!しかしそれはかなりの難題で、誰かここで営農して移住地に住んで、一人ずつ口説いて行かなければ誰もその話しは信じてくれないし、また話しの相手もしてくれない』と彼は話してくれた。

私も同感の心を持って、その夜は床に付い たが中々眠れなかった。その翌朝、彼は朝の仕事が一段落した時点で、話してくれた。その話しはかなり私の心に染みて聞いていたが、彼は『パラグワイの時間と、日本の社会が動いて行く時間との差が余りにも大きいので、こちらの話しがまとまり動い た時は、日本ははるか彼方の方に移動しており、その民族的な国民性を埋めるギャップは難しいーー!』との彼の話しに何かこの計画の一番の誤差が有る感じを受けた。

レベルの違いと、早さが噛み合わないのであれば、計画事態が 実行のチャンスを掴む事はますます困難になると感じた。私はパラグワイまで来て良かったと感じた。私は一番大切な事を覚ったと感じ、具体的な計画を中止する決意が付いた。後は何も後悔は無かった。

全てが済んだと感じた。 彼は私が中止の決定をすると言うと、短く『それが良いーー!』と話すとまた畑に戻って行った。私も他の用事をかたずけて来ると話すと、『夜にまた話しに来まますからーー!』と告げて友達の家を出た。
次回に続く、

2014年3月1日土曜日

私の還暦過去帳(493)


パラグワイ国盗り計画(17)

『時期早々ー!』との答えに我々は頭を抱えて考えていました。しかし、情勢は変わりませんので、これからどうするか協議しました。アルゼンチンのミッショネス州に僅かですが昔からの日本人移住者が落ちついていました。

中にはかなりパラグワイからの、昔の転住者がいました。それと婚姻関係でパラグワイから嫁に行った人も居ました。それらの日本人とブエノスに出て来て、パラグワイの将来を思う人達を集めて話しを進めるか、検討することにしました。

これは時間的に、距離的に難しい事です、その当時は汽車でブエノスからパラグワイ国境のポサダの町まで一日掛かり、それからバスで2~3時間は掛かる所ばかりです、話しと言っても電話などない時代、とても通信連絡が出来ません、話しを すれば必ずや理解をしてくれる人も居ました

が、所詮が無理と感じる様になって、当時のブエノス近郊でのパラグワイからの転住者は生活に追われて、かなりの人が時間的な余裕を無くして生活していましたので、両方の日本人と日系人に話しを持って 行くチャンスが無く、ここでも壁に突き当たり、しばらくは我々の頭を冷やして、冷却期間とする事にしました。

要点は一冊のノートに全部まとめて、他の検討資料は全部廃棄してしまいました。残ったのは一冊のノートと、パラグワイの 地図類でした。全てを記載して、その要点が全ての計画を組み立て、実行後のプランも練って記載されていました。その全てを私が預かり保管して、しばらくは夜の集会も中止する事にしました。

丁度その頃でした、ある人から話しが 有りまして、アルゼンチンの北部、サルタ州で農場の支配人の仕事を持って来ましたので、私も心乱れて考え、一度下見がてらサルタ州に行き、帰りにパラグワイに寄って私も現実の確認をする事にしました。

仲間にその事を話して、出発していきました。おそらくそれで、この話しの決着を付けるつもりでした。 ブエノスを出て、汽車で先ずパラグワイの隣りのミッショネス州のポサダまで行き、そこから渡しでエンカルの町に渡りました。

次回に続く、