2011年6月30日木曜日

私の還暦過去帳(3)

人生の運命を操るドライブも、その本人の生き方で随分変って
来ます、その運命と言う道を走ってーー、時には歩いてーー、
時には立ち止まってーー、運命の道筋を振り返る事が有ります。

今日の思い出の話は、アルゼンチンで1964年頃、ボリビア国境
近くの、南回帰線から100kmは入った所でした。

農場で仕事をしていた時です、収穫したトマトを15Kmぐらい
トラックを運転して、大型トラックに積み替えて、町で夕食も
済ませて、かなり遅く帰宅する時でした。
空が曇って来て、雨季の前触れの雨が降りそうな感じでした。
町を出るときは少し雷鳴が鳴り、黒い雲が暗黒の闇をますます
黒く塗りつぶしていました。

ヘッドライトの明るさだけが頼りの運転で、風が出ると突風で
倒木が道を塞ぎ、通行止めになる事が有り、ブルドーザーが
排土板で押した土の幅しかない道でした。
かなりの傾斜の坂が2ヶ所有りまして、其の他、長い緩やかな
坂道が1ヶ所有りました。

そこを通過する時はすれ違いが出来ないので、荷物を積んだ
トラックが優先でした。
長い緩やかな坂道は、山を削っただけで他に避ける所が無いの
で鉢合わせした時は大変でした。
荷物を積んで長い坂道に来ると、まず坂道を登る前にインジオ
に拳銃を持たせて、歩いて坂を登らせて頂上からの合図の銃声を
聞いてから登ります、その間もし他のトラックが降り様としたら
待つ様にさせていました。

緩いスピードでノロノロと、ローギアで登って行きますが、
いっも緊張して運転して行きました。

そんな坂も真夜中では誰も通過しませんので、それとヘッドライト
で対向車が直ぐに分ります、真っ暗で光はかなりの輝きを遠く
まで照らしますので夜はかえって安心でした。

急な坂はそれぞれ名前がありました。
「クルーアスール」「クルーネグロ」と名前がありまして、
それぞれの場所で、一人ずつ交通事故で昔に誰れか死亡して
いました。
それはトラックターで牽引してきたトレラーの台車に押されて
ギアを切り替え様として、ギアが入らず、走り出したトレラーと
トラックターに挿まれて死んだ事故です、昔のギアのチエンジは
ダブルでクラッチを踏まなくてはなりません、フルシンクロの
軽くて簡単な操作では無かったからです。

クルーアスールの坂に着いた時、坂の頂上から谷の底を見ると、
谷底の茂みで、何か「ボーッ」と明るく輝いていたので、
確かあのあたりでは、死んだインジオの名前が入った十字架が
有ったのだと思いながら、星も見えない真っ暗な闇のジャングル
の道を降りて行きました。

「ドキドキーー」と心臓が時めき、いよいよ化けて出たかと
拳銃をベルトに確かめて、帰りたいーー、帰って寝たい一心で
かなりのスピードで降りて行きましたら、そこには風除けを
付けた、ロウソクがゆるゆると燃えていました。
「やれやれーー!」ホットしてそこを通過する時、花も手向けて
有ったのが見え、家族がそこに訪れていたのだとわかりました。

そこを通過すると平坦な道に出ます、両側はジャングルです、
雷鳴も凄くなりまして、青白い光がジャングルの木々を照らして
いました。
その時です、ポツポツと大粒の雨が降ってきたので慌てて
ワイパーを付けて、後僅かな道を走れるだけ走ろうと考えて
トラックを飛ばしました。

しかしそれは300mも走らないで緩いカーブでハンドルを
取られて、スピンして反対方向を向いて止まりました。

道は石鹸の上を走る様に、「つるーーつるーー!」と滑り、
最悪の状態になっていました。
道を塞がない様に、水の流れを妨げない様に、路肩に寄せるのが
精一杯でした。
トラックに寝るのもイヤなので、売り上げ金をプラスチックに
入れ、ポケットにしまい歩き始めました。

あと僅かで1、5kmチョットです、ジャングルの道は雨が降ると
川になります、良く毒蛇が流れて噛まれる事が有りますので、
稲妻の光で道の先を確認して歩きます。拳銃の弾は散弾の粒を
仕込んだ蛇撃ち用の弾に詰め替えて、ベルトに挿んでいました。

「ドカン~!、バリバリーーー!」と雷鳴が鳴るたびに立ち止
まって、先を透かして確認して歩きます、

時々近くで「バリ~!キーン~!」と落雷しました。
ジャングルの大木が「バリバリーー!ズシーン~!」と
地響きを立てて倒れる音も聞こえて、少し不安と心細い感じで
したが、突然に稲光の中で、川になって流れる道の真中に黒い
細長いものが流れるのを見ました。

「毒蛇~!」一瞬緊張して身構えました。

次ぎの雷鳴が鳴り、稲妻の青白い光が真昼の様に照らした時に
無意識で腰から拳銃を引き抜き、2発連続して撃っていました。

黒い細長い毒蛇の様な廻りで30センチぐらいの大きな水飛沫が
上がり、一瞬見えなくなりましたが、確実に散弾の粒が命中して
いるのが分りました。

動かずーー、ジットーー!次ぎの稲妻を待ちました。

「ガーン~!」と雷鳴がとどろき稲妻も派手に光った時、
その黒い細長い物が、木の枯れ枝と分りホットしました。
やれやれでーー、疲れて、緊張の余りジャングルを抜けて
農場の灯りが見えた時は、ドット疲れが出て涙ぐんで
しまいました。

その夜は家に着くと、びしょぬれに濡れた服を着替えて、熱く
湧かしたミルク.コーヒーと、コニャックを飲んで気持ちを
落着けて、窓の外で自然が繰り広げるスペクタルな大自然の
ショウーを見ていました。
今でもその雄大ですばらしい稲妻の輝きを思い出します、

トラックは翌日午後から乾いた道を運転して、取りに行きました。

2011年6月29日水曜日

私の還暦過去帳(2)

死と言う事は人生の終末です、

私も時々、眠りに就いて「ス――ッ」と引きこまれる様に記憶が
なくなる直前にふとーー思うことが有ります、それは、
「明日の朝、目が覚めないのではないかーー、」と言う思いが
頭をよぎる時が有ります。
「死とは永遠の眠り―」私はそう思います。
物理的に眠りに就く、機械的な力での眠りに就く、自然の生理的
な現象での睡眠、言葉が違えども眠りの夢の世界に就く事は
一部は同じ事と思います。

20年以上も前です、昔住んで居ました家の近くで、有る人が
自分で命を絶ってあの世とやらに旅だって行きました。
夕方、少し薄暗くなって、夏の日長の夏時間を楽しんでいました。
すると突然「パンー!」と銃声がして、私はとっさに銃声と
感じましたが、ライフルの様でした。
家族には黙って外に出て見ましたが、誰も外には人は居ません
でした。

アメリカでは隣家の間が広いので、関心がないのか静かで、
私も直ぐに家に入ってしまいましたが、しばらくして。
外が騒々しくなり、ポリスが沢山来ていました。
3軒ほど先の道路を隔てた家でしたが、しばらく借家になって
中年の女性が一人で住んで居ました。

ポリスに聞くと、「引き金を引く前に、家族に別れの電話を
したので、家族からの連絡で、来て見たら全てが終っていた。」
と話してくれました。

彼女は庭の外で、小屋によりかかる様にして、ライフルで
口から頭を撃ち抜いて死んでいました。

「寂しいーー」と近所にタバコを貰いに来て話していました。
生活保護者はフードスタンプでは酒、タバコは買えないからです
離婚して、仕事も無くして、一人生活保護での生活では心寂し
くて自分で自分の命を、もてあましてしまったと思います。

私が40年前、農業をしていたアルゼンチンの奥地、サルタ州
の僻地では、その頃まだたくさんの貧しいインジオが出稼ぎに
来て農場で仕事をしていました。しかし貧しいながら自殺などは
聞いた事は有りませんでした。

しかし文明社会では沢山の人が死を自分で選んで、自分で解決
しています、昔ジャングルでのインジオ達は、見事と言うほど
何も持っていません、自殺する様な話も聞いた覚えも有りま
せん、一度晴れた日にインジオの労働者が6人ほど、河岸で

毛布を被っています、側では洗濯物が石の上に乾して有ります。
着たきり、スズメですので、乾くまで毛布を被って待っている
のでした、見事と言うほど何も持っていません。

金など有ってもお店が有りませんので、買う事が出来ません、
どうするかと言うと、カゴを持って、近所を一軒ずつ廻って
食べ物を貰って廻ります、皆は有る物を少しずつあげます。
玉ねぎ、ジャガイモ、トマト、マンジョーカー芋、魚の干物、
乾し肉など、見て居ても直ぐにカゴが一杯になります。

完全な原始共済の世界です、生きると言う事が連帯の世界で
成り立っているからです。彼等は死と言う事は、自分の寿命が
終る事です。
      貧しさが必ず不幸とは思っていません。
      貧困が必ず、不幸となる事も思っていません。

最低は食べる事は出来ます、現金が必要になると、仕事を
して、必要なお金を稼ぎます。文明社会は心の連帯を破壊して
個人主義になり、金が無いと葬式も出せない社会にしてしまい
ました。

死と言う観点から見ると、文明社会が幸せなのかーー、
原始社会が不幸なのかーー、物質文明が幸せなのかーー、
はたしてどちらが正しいのかーー、皆様はどう感じますかーー、

私は新婚旅行に着ていった背広一枚、紳士靴1足で、未だに
それを着られる体系で、体重も同じです、お笑い下さいーー、
それで生きて居ます、何も恥ずかしいと思った事も有りません
43年も過ぎて、それで生きて来ました。

そんなジジイの人生ですーー、

いまも昔、引き売りして歩いた「トマト売り」をスペイン語で
上手に出来ますーー、
いまも毎日作業着で、太陽の下で働けることを感謝しています。
それと元気で丈夫な身体に、育ててくれた母親にいっも感謝して
居ます。
そんなジジイですーー、あはは~!

2011年6月28日火曜日

私の還暦過去帳(1)

これから、私の還暦過去帳より紐解いて皆様方に現代の昔話を、
私の生きざまを書いて見たいと思っています。
 
一部の文で以前に他所に投稿したものが混じる事も有りますが
ご容赦下さい。
47年も昔の事で、一部で記憶が薄れ、事実と異なる事も有ります
のでご承知下さい。
 
現在、私はカリフォルニア州のサンフランシスコ郊外が気に入り
永の住家と定め、コルマ日本人墓地に将来の別荘も確保して、
還暦もとうに過ぎましたが、元気で毎日仕事に励み、趣味の有機
野菜と草花の栽培で、心豊かに過ごしています。
今まで私が走り抜けて来た青春と、過去に消えてた時代を若い
皆様が何か感じ、心の糧のほんの一部にでもなればと感じています。
不定期に発行しますが、頻度は多いと思って下さい。
 
 
まず私のパソコンとの出会いをお話し致します。
 
私がパソコンを覚えたのは、ある日、長男が帰宅した時にパソコン
を抱えて持って来たからです、中古の日本語環境もない、ソフト
も95年の古い物でした。
 
会社でお払い箱にした物を。自分で使っていたのですが、新品を
買って捨て場が無いので中古の物を、ていの良い御払い
箱で私にあげると言って、「練習しな~!新聞ぐらい見れる様に
して置くからーー」と言う訳で、事の始まりですーー、
 
丁度還暦前で、当時のクリントン大統領がパソコンが出来ないと
「知的貧困者、現代に取り残される無能者」などと、のたまい~!
少し「カチン~!、」で、頭にきていました。
 
しかし、少し焦って「やれば出来るーー、なさねばならぬ、
何事も、猿まね上手で60の手習いーー!」
ま~!そう言う事で始まりました。
 
それからが、悲劇、喜劇、さげすみ、怒り狂い、それが全部
一度に吹き出て、「こんちきしょ~!」「ぶっこわしてやる~!」
「機械がジジイをなめやがって~!」ま~そんな感じでした。
キーボードを叩く指も、人指し指で「パチンーー! ポン~!、」
そんな感じで打っていました。
 
ワイフは英文タイピストをしていたぐらいで、10本指で
「ぱちぱちぱちーーー!」です、「カ~ッ!」と来ますが、これ
どうしょうも有りません、「パチンーーーー、パチンーー」
五月雨よりもっと酷い、砂漠雨です、時には何も音も出ません、
 
「これ辛抱ーー、これ我慢ーー、これ堪忍するが成功、」と、
 
毎日、平均2~3時間はキーボードを二本指で叩いていました。
それしか出来ません、しかしジジイの執念は岩をも通すですーー、
1ヶ月ぐらいすると、指が間違いなく動く様になりました。
嬉しくなってーー、これ励みになりました。
 
ワイフには両手を全部使ってキーボードを打つ様にと何度も
言われましたが、とうとう駄目で指二本の二刀流になって
しまいました。
 
しかし娘のハズバンドは、私と同じですーー、安心しました。
彼は学位を持って、大学教授で、ハーバード大学で客員研究員
をしていたぐらいですから、その打ち方も武蔵クラスです、
 
早いことーー、早いことーー、二刀流でも免許皆伝、何か秘伝
の術を持っている様です、一度研究部屋で見たのですが、
スーパーコンピユーターの前で二つのキーボードを使用して、
数字を打ちこんでいたのを見て、「ぎゃ~!」と驚いた事が
有ります、「なせば成るーー、なさねば成らぬ何事もーー」
そんな訳で、覚りが出来ましたので、後は心静かーー、
二刀流で行く決心が出来ました。
 
おかげで努力のかいが有って、3ヶ月もすると、メールぐらいは
打てる様に成りまして、一路、前に突き進んで行きました。
 
現在では、ネット銀行の使用、支払いは全部パソコンで利用、
画像を子供に送る事や、ネットショッピングなど、また沢山の
新聞も瞬時に読める楽しさを味はっています、
 
 
昔は全部手書きの原稿用紙に書いていた小説などもパソコン
で書いています、おかげで出来上がった物を、メールに添付
して送りますので、どれだけか経費の節約にも成っています。
 
私の人生ーー、変わったよ~! しかしーーしかしーー!!、
無くしたものも有りました、それはーー!、
 「大切な視力ですーー!」
昔の様にライフルの標的射撃などは出来なくなりました。
メガネもこれで3回、交換していますーー
ア~!犠牲も大きかった。現代と言う時代の犠牲者ーー? 
 次回をお楽しみに、