私の還暦過去帳(794)
過去と現代の繋がり、
私がかれこれ1961年頃から貴重面に記録に残していた手
帳を出して整理して いました。
古希を迎えた私が、過去の50年以上の人生の道程で、多くの人達と 出会い、見て、聞いて、話して、体験した出来事を書き残しておき たいと60の手習いでパソコンを覚えて書き出したのが、このブログ です。 貴方のこれからの人生の糧になればと思い書いております。 全部書き残すには、これから数年は掛かりそうです。
過去と現代の繋がり、
私がかれこれ1961年頃から貴重面に記録に残していた手
帳を出して整理して いました。
61年昔に南米に移住して生きるという事を体験しました
が、本当に食うにも困ったら『身を捨てて、生きる瀬あり』
と言う事は本当です。
農学校に学んでいた時は、農場で収穫したものを、リヤカ
ー1台、300円で売ってこい、と言われて、街を引き売
りして歩きました。
百姓は収穫物が売れない時は、家族を養い、農場を維持す
るために自分から引き売りしてこい!』と言われ、その経
験があったので、アルゼンチンで蔬菜栽培していた時に、
トマトが売れなくて街を引き売りして歩きました。
帰りに食料を買い、燃料を買い、トラクターの部品を買い、
生き延びていました。
また貧民街に養鶏のヒヨコを売りに行き、売れて、売れて
帰りには、ポケットに金が入りきれない様にありました。
アフリカのモザンビークに行ったとき、首都のマプトで、
昔、中国のマカオからポルトガル人に連れたチャイニーズ
達が居ましたが、三刀と言われる職業でした。
包丁を使う、レストラン。剃刀とはさみを使う床屋さん、
鋏を使う、洋服の仕立て屋が居ました。
何代も続いたビジネスで生きて、積み上げた資本でビジネ
スを開いていました。
アメリカに戦前の前に移住して来た者は、昔は苦労して仕
事探していました。
昔に日本人の1世達が言っていた言葉ですが、『毎日食べ
る物、毎日生活で使う物、毎日生きる為に必要な物』に関
係すれば生きていく商売ができると言って
いました。それは生きると言う根本の事と思います。
思い出は遥か遠くに過ぎ去って行く、
この歳になり、時々思い出す事は遠い時代の夢を追って居た頃です。気力と体力があり、将来の夢も多く持って居た頃です。
先日も菜園の仕事で裏庭の仕事に時を忘れて、没頭していた時に、ふと、頭に横切った思い出は、昔のアルゼンチン、サルタ州で農業していた時代に、トマトの植え付け準備に、苗床に植えたトマトの種子を植え付けた思い出でした。その当時、長さ50mほと、幅は1mほどで苗床を作り、トマトの種子はアメリカの有名な種屋の缶に入った種子でした。
時の過ぎ去るのは一瞬の光陰、
私もシニアと言われるようになり、世間並みに余生を送っていますが、
同窓会の新聞に、お悔やみの知らせにポツポツと名前を見つけると、
自分の年齢的な立場を自覚して、ふと自分の人生の悟りがある様な感じ
をいたします。
アメリカに来て今年で51年になり、光陰矢の如しの実感を心に再度
植え付ける様なもので、改めて自分の歩いて来た人生の長い様で、短い
時の過去の面影を思い出すときに、60年昔のアルゼンチン時代の私の
20代を思い出す時があります。
パンパの大草原も昔は大規模な植林も無く、隣町の光がが雲に反射して、
雪洞の様に丸く輝いて見えていました。
仕事に打ち込んで、人生の満足感を得て、人里離れたパンパの大草原に
立ち、澄んだ抜ける様な青空を見たり、夜空の星空を見上げていた頃を
思い出すと、感無量の気持ちになります。
言葉の覚え方、
60年以上の昔に南米に農業移民として移住して行きましたが、単身移住者で日本人が居ない所で、3か月間ほど必死にカステジャーノを学びましたが、生きるという生活に密着した、まず数字、買い物話し言葉、要求する話し言葉を学びましたが、3か月で生きて活ける言葉を学びました。
パラグワイ国のブラジル国境のポンタポランでしたので、ポルトガル語も少し覚えて、現地のガラニー語も単語を覚えて、アルゼンチンに行き、ブエノスの郊外でイタリア人が1900年の入植したチビリコイ市でイタリア人達が沢山いたのでイタリア語も挨拶程度に覚えて、ボリビア国境のサルタ州で仕事をした時は、ボリビアからの出稼ぎが多く、インカ人のキッチュワ語も仕事で使える様な挨拶
程度に学び、農場の近くに住んでいたチアワンコ族と、昔はジャングルの狩猟民族のマタッコ族の言葉も挨拶程度に覚えましたが、アメリカに移住して来て8月で49年目になり、歳を取り、英語とスペイン語ばかりで、後はすっかり忘れてしまいましたが、近頃は日本語も使わなく、ワイフと一日、限られた会話だけですから失語症にも罹ったかと思うくらい、言葉が出てこなく、今では唯一、文字を書く事は上手に出来ます。
今まで人生で悟った事は、『使わない言語は忘れてしまう』という事です。
現代の結婚の世代、
結婚なんか二度としたくねぇ!とか言う人も居て、それに『いいね!』とか多数いるとの現状を見ると、お驚きで、いささか今の世の中は狂っていると感じますが、シニアの爺さんの体験談を聞いて考えて下さい。
60年昔に南米に農業移民でパラグワイ国に移住して、若い時に世界漫遊もして見て、聞いて、体験をして居ますので、この話は、アルゼンチンのミッショネス州、ハルデーンアメリカに訪ねた時です。50歳も歳の差で、ポーランド系の若い美人と結婚していた日本人を見た時は、ショックでしたが、ポーランド系の若い美人は14歳で出産して、子供は姉妹の様でしたが、日本人の75歳過ぎた人は心臓発作を起こすと、せっかく築き挙げた店も、独身で家族も居なく、財産も政府に取られてしまうと感じた彼は、両親に掛けあい、全部財産を娘と子供に残すから、俺の嫁にと交渉したところ、両親は二つ返事で了承したと聞きました。彼が『随分頑張ったが、子供は出来なかった』と話してくれました。
ブエノス首都で見ましたが、彼は20代の若者の日本人で、指圧マッサージを生業としていましたが、金持ちの年寄りの未亡人から、どえらく気に入られ、子供も居なく、『私と結婚してくれたら、全ての財産を貴方にあげる・・』と口説かれ彼の指圧マッサージも毎日して貰える事で、年寄りの未亡人から弁護士を通して正式にリビングトラストも貰い結婚していた若者もいましたが、歳の差は45歳ぐらい有った様です。
アルゼンチンのサルタ州で見た人は、戦時中子供抱えて、旦那が戦死して、アルゼンチンの兄弟の所に戦後、呼び寄せられ、ボリビア国境のサルタ州の農場の後妻として嫁入りしていましたが、日本人の男性は戦争中は日本から妻を呼び寄せる事も出来なく、白人のワイフを娶りましたが逃げられて、歳の差があるのも、日本人の子持ちの女性と結婚して仲良く家庭を築き生活していました。奥さんは99歳まで生きて、一度も日本に帰国する事も無くサルタ州で生涯を終えましたが、私が言いたいことは、『人はそれぞれ、愛する事には歳など関係なく、人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死ねばいい・・』と、全部私の人生で体験をしたことを書くと1冊の本になります。
私のトヨタ、ランドクルーザーの思い出。
私は60年昔に南米のパラグワイ国にアマンバイ農協の世話で単身
町から移住地に行くのに、道が豪雨で流され、川床の路をランクル
広大なコーヒー園に住む鳥が熟れた一番良いコーヒーの実を食べて
アルゼンチンのミッショネス州を旅していた時に、雨で未舗装の赤
運転手はブラジル人で、ブラジル製のランクルで、メルセデス・ベ
私がチリから、サンペドロ・デ・アタカマを経由して、アルゼンチ
アフリカに旅をしていた時です、南アフリカでレンタカーを借りて
モザンビークの首都のマプトに行った時は、ポルトガル植民地軍と
当時、夜間外出禁止令で、夜の11時過ぎては警告無しで射殺され