2026年10月3日土曜日

私の還暦過去帳(796)

富裕柿の収穫。 私は昔は農業を志し、南米の大地を開拓して、そこの自分の夢を築き様と していました。 私の昔の時代は困難な時代で、外貨も持ち出し制限がある時代で、アメリカ も、カナダもオーストラリアも,日本人が移住が制限されていた時代で、 南米が永住出来る移住地がありました。 ブラジル、アルゼンチン、パラグワイ、ボリビアなど国策で移住を奨励して いた時代がありましたが、それも1972年には殆ど無くなり、日本に景気 のバブルが起きて、手配師が日本に移住地を回り、日本に労働者として送り 出し、これで多くの日本人移住者が、日本に出稼ぎに行き、日本人の移住も 崩壊して、今日に至ります。 62年前の同じ卒業生の同級生は、殆ど亡く なり、寂しい限りです。 今はアメリカに住んでいますが、晴耕雨読の生活で、菜園と草花を育て、 のんびりと余生を送っていますが、直ぐに私もパソコンをいじれなく無くな と感じますので、元気な時は書き込みをしますが、止まったら、私も同級生 と同じになったと考えて下さい。 今日は、これから富裕柿を収穫すると考えています。 秋の日の下で、柿の葉も散り初めていますが、自分で植えた柿の木が実の成 る様は嬉しい物です。

2026年4月2日木曜日

私の還暦過去帳(795)

 昔にメキシコのカボに行った時に、太平洋の海原を見て感じた物を言葉にしたものです。

今日は風が強く、朝の空気はかなり冷たく感じました。

時間が豊かに流れるこの空間に身を委ね、海を眺め、風に身を任せていると、深い虚無感に浸っていることに気づく。しかし同時に、生きていること自体に、不思議で静かな幸福感を覚えるのだ。

広大な太平洋によって外界から隔絶されたこの静かな海岸で、私はただ波が打ち寄せる音だけを聞いている。ここは喧騒とは無縁の場所だ。紺碧の空の下、私は自分の人生を振り返り、過去の思考や記憶を織り交ぜていく。そして、突然……

…ふと過去を振り返り、この瞬間にたどり着くまでの道のりを辿っている自分に気づく。時は流れ、過ぎ去っていく。そして時の流れは、後悔を呼び起こす。もしもこうだったら、ああだったら、という思い、そしてそれに伴う心の痛みが、私の心の中を漂う。

私の人生は、一体何だったのだろうか…?

今の私にとって、この世界はすぐそばで砕ける波の音以外には何もない。その音は私の耳に響き、私の存在の奥深くで感じられ、私の心の奥底にこだまする。

私たちはどんな生まれ方をしても――裕福であろうと貧しかろうと、高貴であろうと卑しい者であろうと――最終的には皆同じ目的地にたどり着き、同じ場所で最期を迎えるのです。

海はすべてを飲み込み、あらゆる生命を吸収し、あらゆる痕跡を消し去り、私たちが存在したという証拠を何も残さない。その代わりに、絶え間なく続く波のリズミカルな響きとともに、海は私たちに別れを告げる厳粛なレクイエムを奏でるのだ。

この眺めは魂を癒し、自分自身を見つめ直すための鏡となる。過去と向き合い、静かに告白することを促す神聖な空間なのだ。
...

2025年10月29日水曜日

私の還暦過去帳(794)

 過去と現代の繋がり、

私がかれこれ1961年頃から貴重面に記録に残していた手

帳を出して整理して いました。

1964年に父から貰った手帳には南米時代の細かな事が書
き込まれて いるのを読み返していました。
すでに亡くなった方ばかりの名前が並んでいました。それと
手帳は三井三池鉱山の名前 があり、会社が配った手帳でした。
そこに働いていた父が職員をしていたので、貰った 物だと思
います。
その会社も今では無く、それと手帳に書き残され、過去に消
えた方々で すが、感慨深く一つずつ名前を思い出していまし
た。
手帳を無くす事もなく60年という時間を経て、貴重面に
今まで残している自分にも 我ながら感心していました。
忘却の彼方に消えて行った記憶も手帳を見ていると、克明に
記憶が蘇って来ます。
アルゼンチン時代の汽車の路線時刻表も書いてありました。
アルゼンチンは長距離旅客列車の運行も昔に取り止めて、
今では何も残ってはいません。
全てが過去に消えています。
ブエノス・アイレスの首都にあった60年前の日系新聞の
名前と住所に電話番号が残って いました。
らぷらた時報と亜国日報の2社の邦字紙でしたが、どちら
も今では廃刊となり、 昔の様にアルゼンチン全国に配達
されている様な事も無くなりました。
古ぼけた手帳ですが私の青春が詰まった、夢を描いた構図
が残っていました。
私の人生の微かな傷の様なほろ苦い書き込みもありました。
記憶の全てが手帳のページを閉めると同時に、過去に埋没
する様な錯覚を感じます。
埃を払い、掃除して机の奥深く今までの手帳を10冊近く、
全部しまい込むと同時に、 現在の時が、コチコチとまた
動き出した感じが致します。

2025年8月10日日曜日

私の還暦過去帳(793)

 61年昔に南米に移住して生きるという事を体験しました

が、本当に食うにも困ったら『身を捨てて、生きる瀬あり』

と言う事は本当です。

農学校に学んでいた時は、農場で収穫したものを、リヤカ

ー1台、300円で売ってこい、と言われて、街を引き売

りして歩きました。

百姓は収穫物が売れない時は、家族を養い、農場を維持す

るために自分から引き売りしてこい!』と言われ、その経

験があったので、アルゼンチンで蔬菜栽培していた時に、

トマトが売れなくて街を引き売りして歩きました。

帰りに食料を買い、燃料を買い、トラクターの部品を買い、

生き延びていました。

また貧民街に養鶏のヒヨコを売りに行き、売れて、売れて

帰りには、ポケットに金が入りきれない様にありました。

アフリカのモザンビークに行ったとき、首都のマプトで、

昔、中国のマカオからポルトガル人に連れたチャイニーズ

達が居ましたが、三刀と言われる職業でした。

包丁を使う、レストラン。剃刀とはさみを使う床屋さん、

鋏を使う、洋服の仕立て屋が居ました。

何代も続いたビジネスで生きて、積み上げた資本でビジネ

スを開いていました。

アメリカに戦前の前に移住して来た者は、昔は苦労して仕

事探していました。

昔に日本人の1世達が言っていた言葉ですが、『毎日食べ

る物、毎日生活で使う物、毎日生きる為に必要な物』に関

係すれば生きていく商売ができると言って

いました。それは生きると言う根本の事と思います。

2025年4月21日月曜日

私の還暦過去帳(792)

 思い出は遥か遠くに過ぎ去って行く、

この歳になり、時々思い出す事は遠い時代の夢を追って居た頃です。気力と体力があり、将来の夢も多く持って居た頃です。

先日も菜園の仕事で裏庭の仕事に時を忘れて、没頭していた時に、ふと、頭に横切った思い出は、昔のアルゼンチン、サルタ州で農業していた時代に、トマトの植え付け準備に、苗床に植えたトマトの種子を植え付けた思い出でした。その当時、長さ50mほと、幅は1mほどで苗床を作り、トマトの種子はアメリカの有名な種屋の缶に入った種子でした。

丁重に種を苗床に撒いて、ビニールのトンネルを被せて、発芽するまで、朝晩手入れをして
居ました。農場は南回帰線から100kmも内側にあり、熱帯のジャングル地帯で、アンデスの山々が遠望出来る地でした。
単調な決まりきった農作業も飽きなく、朝は日が開けて5時前には、鉄道レールを1mぐらい切った物をぶら下げてあり、その鐘の音が就業の合図でした。
昼近くには気温が上がり、11時には昼休みに入り、3時近くに昼休みが終わって、午後、作業開始の鐘が鳴っていました。
単調な毎日です。良く辛抱したと思いますが、農場の支配人として責任と夢があったと感じます。それとその現地は結婚年齢は若く、女性でしたら20歳前に子供が居るのも普通でした。25歳もならない、日本人の若者が支配人として農場の采配していた事を思うと、良く仕事をやり遂げたと感じます。
昔の農場の労務者の顔を脳裏に思い出すと、懐かしい心が沸いて、何か胸がきゆーん!とする感じです。



2025年1月24日金曜日

私の還暦過去帳(791)

 時の過ぎ去るのは一瞬の光陰、

私もシニアと言われるようになり、世間並みに余生を送っていますが、

同窓会の新聞に、お悔やみの知らせにポツポツと名前を見つけると、

自分の年齢的な立場を自覚して、ふと自分の人生の悟りがある様な感じ

をいたします。

アメリカに来て今年で51年になり、光陰矢の如しの実感を心に再度

植え付ける様なもので、改めて自分の歩いて来た人生の長い様で、短い

時の過去の面影を思い出すときに、60年昔のアルゼンチン時代の私の

20代を思い出す時があります。

パンパの大草原も昔は大規模な植林も無く、隣町の光がが雲に反射して、

雪洞の様に丸く輝いて見えていました。

仕事に打ち込んで、人生の満足感を得て、人里離れたパンパの大草原に

立ち、澄んだ抜ける様な青空を見たり、夜空の星空を見上げていた頃を

思い出すと、感無量の気持ちになります。


2024年7月20日土曜日

私の還暦過去帳(790)

 言葉の覚え方、

60年以上の昔に南米に農業移民として移住して行きましたが、単身移住者で日本人が居ない所で、3か月間ほど必死にカステジャーノを学びましたが、生きるという生活に密着した、まず数字、買い物話し言葉、要求する話し言葉を学びましたが、3か月で生きて活ける言葉を学びました。

パラグワイ国のブラジル国境のポンタポランでしたので、ポルトガル語も少し覚えて、現地のガラニー語も単語を覚えて、アルゼンチンに行き、ブエノスの郊外でイタリア人が1900年の入植したチビリコイ市でイタリア人達が沢山いたのでイタリア語も挨拶程度に覚えて、ボリビア国境のサルタ州で仕事をした時は、ボリビアからの出稼ぎが多く、インカ人のキッチュワ語も仕事で使える様な挨拶

程度に学び、農場の近くに住んでいたチアワンコ族と、昔はジャングルの狩猟民族のマタッコ族の言葉も挨拶程度に覚えましたが、アメリカに移住して来て8月で49年目になり、歳を取り、英語とスペイン語ばかりで、後はすっかり忘れてしまいましたが、近頃は日本語も使わなく、ワイフと一日、限られた会話だけですから失語症にも罹ったかと思うくらい、言葉が出てこなく、今では唯一、文字を書く事は上手に出来ます。

今まで人生で悟った事は、『使わない言語は忘れてしまう』という事です。