2015年1月16日金曜日

私の還暦過去帳(568)

昔、このような人と知り合いました。

昔の移住者でも独身者達は、多くがブラジルを目指して移住
していました。
その様な若者たちを募集して、訓練して、語学教育して、精神
的な鍛錬もして送り出す団体がありました。
それは力行会という戦前からある移住を啓蒙、宣伝する団体で
有意義な活動をしていました。
ブラジルに移住する事が決まってから、最終の体験は、池袋
の駅前で100円玉一枚を持たされて、駅前に放り出されて、
その日を生きて行く糧を探し、寝る場所を見つけて生きるという
手練を体験する訓練がありました。

私の友人もそれに参加して数日を生きたと言うことですが、その
当時は駅前には、日雇い労務者達を集めに来るトラックやバスが
あり、それに日当、幾らと決めて仕事に出たようでした。
昼飯付が多く、弁当代として一日の賃金から引かれたものを、
一日の作業終了で貰ったと話していました。

私の友人はそんな訓練を受けてブラジルのサンパウロ郊外
にあった日系の電気製品製作の会社にエンジニアーとして
就職して、移住して行きましたが、彼は一応田舎の大学を出て、
日本で就職して電気関係のエンジニアーとしての経験があっ
たので、それと移住する者は無税でかなりの電気関係の検査
機械や工具やブラジルに持ち込めるので、彼は自分が使って
いた工具や検査機械や、専門書などは全部梱包しても持って
来たと言っていました。
彼は熊本県出身で、工場近くの寮に最初は入って仕事を始
めてい様ですが、慣れて言葉も分かるようになり、ブラジル
の県人会なで知り合った人が日本食も食べられ、日本式の
お風呂も入れる、下宿があると紹介されて、訪ねた所が熊本
から移住してきた一世のおばさんが経営する小さな店と下宿
だった様でした。

おばさんはご主人も亡くして、子供達3人も育って、一人で近
所の主婦をパートで雇い、下宿の掃除や洗濯などをさせて、
自分は小さ店の経営もしていたようでした。
おばさんには娘の孫を引き取り育てていましたが、娘が結婚
したブラジル人のご主人が交通事故で亡くなると、その孫の
女の子を引き取り育てて居たようでした。
それは娘が再婚して直ぐに新しいご主人の子供が生まれて、
最初の子供がその家に懐かなくて、おばさんが育てていたと
言うことでしたが、その当時19歳で、可愛い混血の孫娘で、
『おばあちゃん』と孫娘は呼んで、その家に住んでいたと言う
ことです。
彼が働いていた別の部署に居たようでしたが、それは彼が
下宿に来て直ぐに分ったようでした。
それと言うのも、おばさんに彼はぞっこん気に入られ、目を
付けられた様でした。
若い独身の大学出のエンジニアでは、その当時、ブラジル
では大学卒で、『ドトール・エンジネーロ』と言えばたいした
格がありましてハンサムで独身の日本人で、27歳とあれば、
孫娘に狙いを定めて勝手に決めてしまった様でした。

孫娘に言い寄っていた下宿人は、直ぐに部屋から追い出
され、おばさんが会社に行き、知り合いの会社幹部に交渉
して、通勤に同じ車で便利だから同じ部署に配置転換して
もらい、孫娘も同じ勤務体制で働くことになり、通勤も彼の車
に同乗させ、おばさんの戦略が通じたのか、彼も若い孫娘に
気に入られ、それとおばさんの店の脇を借りて、テレビや通信
機械の修理や取り付け相談も週末などにしていたので、おば
さんが喜んで、彼を離さない事も理解が出来ます。

孫娘もおばさんに育てられて日本語も上手でした。
まして同じ熊本県人で、熊本弁で話せるおばさんとしては最
高の下宿人だったと思います。彼も日本食が食べられ、家族
の様な雰囲気の下宿に、若い孫娘食卓での接待と日常生
活に溶け込んで、ダンスや会社の社交にも孫娘の指導と教え
で、ブラジル社会に深く入って行き、永住の決心が出来たと
彼が話していました。
孫娘の21歳の誕生日に皆から祝福されて結婚したと話してい
ましたが、直ぐに子供も生まれて、今では孫も5人も居ると聞
いた事があります。

1 件のコメント:

2021年6月21日 9:42 に投稿, Blogger KENTARO さんは書きました...

私は、鎌倉の退職者ブログであなたの意見を聞いたことがあります。その後、あなたの郷里が八女であることを聞いて連絡をしようと思いつつ、実は私は八女の近くの久留米市出身でして、あなたの生き方に興味がありますので今後ともよろしくお願いします。KENTARO

 

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