2014年11月2日日曜日

私の還暦過去帳(562)

今日はアフリカのモザンビークから移住して来た広東系
中国人女性のアメリカに移民して来た背後情勢を考えて
見たいと思います。

私がアフリカを訪れて、南アフリカやモザンビークなど...
の国に沢山のインド人や中国人が居た事に驚きました。
南アフリカはイギリス人やオランダ人達が開発した所が
沢山あります。インドを植民地としていたイギリスは
使用人として、労働者としてかなりのインド人をアフリカ
に 連れて来ていたのでした。


モザンビークも同じでポルトガルの植民地として、かなり
の年月を支配されていました。それはスエズ運河が無い
昔はアジア貿易と支配に関連して中継地点として、重要な
場所であったと感じます。それと奴隷貿易の拠点として
そこからブラジルなどのポルトガル植民地に、奴隷として
アフリカ黒人を運んだと言う歴史が残って居います。

私が訪れたモザンビークはその当時は、内戦でポルトガル
植民地軍と、モザンビーク解放戦線が激しく戦っていた
時代です。首都のマプトにはまだその当時、中国人達が
かなり残っていました。
その広東系の中国人たちは、マカオから遠くインド洋を越
えて、クーリーとして、雇用労務者として、売られて来た
中国人も居たと聞きましたが、彼等がその地に根を下ろして
彼等が得意とする、三刀と言う、理髪屋、料理屋、裁縫屋
の簡単で、手に少しの技術があれば、そこで生活出来る糧を
得ることは難しくは無かったと思います。

モザンビークの首都、マプトに滞在していた時に、そこの
中華料理店に食事に行きましたが、彼等は何とかモザン
ビークから脱出したいと考えているようでした。
私の友達がブラジルからの帰りで、かなり上手にポルトガル
語を話していたので、広東系の中国人が同じ東洋人として
何処から来たのか聞いて来たと思います。

彼等はブラジルか、マカオやアメリカなども考えていた様です。
私がアメリカに来て、ワイフの知り合いがモザンビークから
来た広東系中国人だった事に驚きました。

親がアメリカを目指して娘を東部のニユーヨークに留学させて
そこのチャイナタウンの親戚を頼っていたと感じますが、娘は
白人と結婚して、カリフォルニアに引っ越して来て、サンフラ
ンシスコ郊外に住み付いたと思います。
そして両親をアメリカに呼び寄せて、アメリカン・ドリームを
掴んだと思います。
アメリカは移民と奴隷と難民で構成される国家ですが、皮肉に
それに不法移民のヒスパニックが入ると話していた人も居ました。
今の平和な日本は、医療保険や社会福祉なども世界レベルにあり、
飢えに苦しむ事も無く、内乱や戦争や宗教紛争などにも余り関係
がありません、終戦後にアメリカの難民法の適用で外地からの
引揚者達を主に、アメリカに僅かな数の難民法適用で、鹿児島から
移住した人達がカリフォルニア州に住んで居ますが、今では殆ん
どの移住した家族が蔬菜、花栽培、果樹園芸などで大きく成功し
ています。
その難民法で終戦後に鹿児島で移住者を選考していた日系2世達
がいました。その方達から話を聞いた事もあります。
私も40年ほど前にサリーナスの蔬菜地帯に営農されていた家族
を見ましたが、日本式の家を建て、温室を作り、カーネイション
の花を栽培していました。日本の柿や梨などの果樹も植えてあり、
イチゴ栽培もして、そこが終生の住処としている感じを受けました。

それを見た時に『心安らかなる者、平和なる者、約束の地を得ん』
と言う言葉を思い出しました。

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