2012年5月4日金曜日

『ゲバラのゲリラ残党を討てー!』

ゲバラ残党ゲリラ追跡の思いで(4) 

70歳も過ぎて老いぼれて、片足棺桶に差し込んで時々思い出す
事はやはり若い時に体験して事です。

アメリカに住んで35年も経ち、昔、キューバからカストロ政権
から逃げて来たかなりの年配の人とも出会いました。
彼が話したことは家族の一人と親戚が同じく一人、ゲバラの指揮
する銃殺部隊により処刑されたと聞きました。ゲバラが革命終了
後に処刑した600名の中に身内が居たと言うことでした。

私が南米での経験を話すと驚いていましたが、事実は奇なりと言う
事をその方が話していました。当時、43年も前の南アフリカの
アパルト・ヘイトの人種差別も体験して、隣国のモザンビークの
内戦も見て、民族解放戦線とポルトガル軍との戦いで逃げ惑う人間
の多くは社会主義も資本主義も関係なく、生きる、食べる、命永ら
え生き残ると言う人間の本能で有ったと思います。

ゲバラが理念として、理想した社会は今ではこの世の中では受け入
れられない所も有ります、ロシアも社会主義を捨て、中国は改革開放
政策に転換して、ベトナムもドモイと言う標語で改革開放政策に移行
しています。私が南米からアフリカ経由で帰国する時に、ベトナム沖
で船の上空をかすめる様に海上からジット戦闘機がベトナム爆撃に

海面スレスレに低空で進入して行った情景を思い出します。
そのベトナム戦争も終結して難民として、アメリカに来たベトナム人が
歳を取り骨を埋める覚悟で帰国する事が出来て、それも直行便の飛行機
で帰る事が出来るのです。時代は変化しました。世界も変わりました。
その様なことを考えながら今回は書いています・・、

朝は早かった。まだ星空が暗い闇に瞬いて、微かな夜明けの兆し
が有るだけでシーンとしていた。手早く荷物をかたずけて、ラバ
に荷物を載せてしまった。石油コンロで湧いたお茶をベアトリス
は各自に配り、立ったまま飲み干した。ルイスは残りのお茶を
何かつぶやきながら大地に撒くと、神に祈っていた。

朝の冷気をかき分ける様に歩き始め、馬がいなないて出発を告
げた。あとは黙々と歩くのみで、ジャングルの小道を山沿いに
登り始めたが、まだ馬で歩ける小道があった。
ひとしきり歩いて、小休止を取った。かなり日が高くなり暑い
太陽が出てきた。まだジャングルの木の下は木陰で冷気が有り
歩くのには涼しかった。

小休止からしばらく歩いて、早目にお昼の休みとした。
ルーカスがここが山を越える前の最後の水場で、あとはどこにも
水の一滴も無いと言って、持ってきた皮袋に水を入れ始めた。
岩の間から流れ出る清水は歯がジーンとするくらい冷たかった。
皮袋が2つ、各袋には20リッタが入り。各自ポリタンクに10
リッタを持ち、非常用に2リッタ水筒を肩からさげた。

一番のかさばる荷物であったが、この水が無いと狂い死ぬ事は
間違いない事であった。暑い乾季のジャングルでは何より
重要な事で、皮袋の点検もルーカスが念を入れて2度もしていた。
ずっしりと重さが増した積荷を背に、ラバは黙々と歩いてくれ、
いよいよ山の急な勾配の坂にとりかかった。
馬を下り、徒歩でしばらく歩くと、馬もついて来れなくなった。

馬から荷物を降ろし、ルーカスと私は背中にリュックを背負い、
水、食料品、救急医療品、寝袋、トランシーバ.ラジオ一組、
少しの着替えをなどを入れた。
馬の2頭は、たずなも足を掛ける環踏みもかたずけて尻を叩くと
追い返した。馬は自由に解き放たれて、荷物も人も乗せる事無く
大きくいななくと、直ぐに木立の中に見えなくなった。
ベアトリスのラバはしばらく付いて来たが、少し足を痛めている
様で、それも追い返した。

あとはルーカスが引いた積荷を背負つたラバと、ルイスが乗って
いたラバの2頭になった。ルイスのラバにも荷物が配分されて、
これからの斜面を登る安全を図った。各自の荷物を背中に持って
ルイスとルーカスが前でたずなを引き、私とベアトリスが後ろで
積荷を監視して、ロバの尻を叩いた。先頭に一匹の犬が、最後尾
にもう一匹の犬が守る様について来た。

木立の茂みも少なくなり、国境警備のセスナ機がゲリラと間違っ
て発見して、銃撃される危険があったのでトランシーバ.ラジオ
のスイッチを入れて、調波を交信可能にしておいた。
暑さは増して、木立が少し茂り、木陰が有る場所で午後の長休止
を取り、コンビーフ缶詰を開けて切り、固くなったパンに生の
玉ねぎをスライスして挟んで食べた。
遠くで飛行機の爆音が聞えて来た。犬達が耳を立てて方角を確か
め、ますます近くに聞こえて来た。
 では次回をお楽しみに、

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